同日
午後四時二十二分
同座標にて

『それ』はまるで、B級のホラー映画を見ているかのような感覚であった。
ヒトの形をしたモノが、ヒトにあらざる動きをする。
物理的な恐怖ではなく生理的な恐怖に訴えかけるようなその光景は、和製ホラーとして海外で高い評価を受ける類のモノによく似ていた。
人間が両手足を地面につき、無意味なまでに関節をぐねぐねと動かす。
そうかと思えばヒトでは考えられない筋肉の動かし方で仰向けになり、浅いブリッジの体勢を保ったまま耳障りな声でゲタゲタと笑い狂う。
能力者として数々のゴーストと相対し、また霊媒師としては数え切れないくらいの擬似的な死を体感してきた流ですら、その屈折した笑い声には恐怖を隠しきれなかった。
『怖気』と云う単語で片付けてしまうには余りにも凶悪な、脊髄に氷柱を差し込まれて神経節をぐちゃぐちゃに引っ掻き回されたかのような感覚に襲われる。
『彼女』の瞳がこちらを向いていない事に、情けなくも安心してしまう自分が居る。
思考に費やす時間さえあれば、流は自分の思考を大いに恥じただろうが、今や窒息しそうなほどに密度を高められた戦場の刻は、彼女にそんな余裕を与えなかった。

十数メートル先の戦場。
狂った女が狂った笑いを響かせている空間。
神威の動きが、凍りついた様に止まっていた。

汗ばんだ肌が。
緊張を続ける細胞が。
全方位から吹き付ける風が、『このままでは神威は死ぬ』と声高に叫んでいた。
彼女を構築する要素も。
彼女の目の前で起こっている事態も。
此処に到るまでに積み重ねられてきた全ての行動の帰結までもが、流に『それ』を求めていた。
だから、流がそれを『認識』してから『行動』に移すまでの間に、『思考』と言うプロセスは挟まれなかった。

今からおよそ0,5秒後。
口裂け女は神威の前髪を鷲掴みにし、下方へと思い切り引き倒すであろう。
それと同時に彼女は神威の股座を這いずり抜け、後方回転しつつ体勢を立て直すだろう。
突然の事に驚きつつも我を取り戻した神威は、前方によろめく事を拒んで両足で踏ん張る。
直後、視界の中に口裂け女がいない事に気づいて、無防備にも後ろを振り向く。
そして、振り向いた神威がその生涯の最後に見るモノは――
自らの頬と動脈を一斉に切り裂く銀色の交差と、『彼女』の赤黒く耳まで裂けた大きな口になるだろう。

――させはしない!

迫り来る最悪の事態に対し、抗し得る手段があると云う幸運。
手を拱(こまね)いて見ているばかりだった自分が、初めて幼馴染の役に立てると云う喜び。
その大切な幼馴染の身体を好き放題に切り刻みまくり、耐え難い苦痛を与えた『敵』に対する憎悪。
そして今、その憎らしい『敵』に一矢報いる事ができると云う、得も言われぬ恍惚にも似た得意。
清濁混合した一切合財を静謐な相貌に押し込め、流はついに、全てを終わらせる断罪の一撃を放った。

「ふ、き、と、べええぇぇ!!」

文字通り全身全霊を込めた流の必殺奥義、『雑霊弾』。
本来不可視であるはずの雑霊は、今や大気を歪めると云う形で可視となり、物理的破壊力すら有した状態で世に顕現していた。
燐光と呼ばれる霊的な蒼い炎を纏い、淀んだ空気の中を亜音速域ですっ飛んでいく鉄槌の弾丸。
一度放たれてしまえば敵味方はおろか、有象無象の区別すらなく全てを粉砕する『力』の象徴。
乱戦の最中に撃ち込むにはあまりに危険極まりない能力は、しかし今、流の慧眼によって完璧なまでに着弾点を決定されていた。

予想通りに口裂け女が動く。
予想した通りに神威が動く。
彼我の距離、二人の体勢、風の向き、弾丸の速度。
全てはまるで――『想像以上に想像通り』。
流がその違和感に気付いたのと、雑霊弾が口裂け女の後頭部を撃ち抜いたのとは、僅かな間を除いてはほぼ同時だった。

「な、流っ?」

的確この上ない援護射撃が成功したと言うのに、何故だかとても驚いた様子を見せる神威。
それがまるで「援護なんてこれっぽっちも期待してませんでした」と言われているようで、流はとても不愉快だった。
しかし、『不愉快』程度で話が済んでいる事がどれだけ幸運な事だったのかを、流は未だ把握していない。
何しろ期待するとか忘れるとかそんな次元ではなく、あの場で神威が立たされていたのは、自分が自分で居られるかどうかの瀬戸際だったのだ。
『鬼』に堕ちかけていた神威の脳裏からは、援護射撃の有無どころではなく、幼馴染が後方に備えていると云うその事すらも抜け落ちていた。
そしてもし『鬼』に堕ちかけていなければ、口裂け女の精神が住まう狂気の辺縁に心を幽閉されていた。
そう言った意味では、今こうして神威が『いつも通りの藤咲神威』として驚いた顔を見せてくれている事は、何を差し置いても喜んであげるべき事柄だった。
無論、それは神の視点でも持っていなければ不可能な話ではあるのだが。

「何を驚いている! そんなに私が信用できなかったか!」
「ち、ちが、そうではない!」
「では先程のあの顔は何だ! まるで私の援護が入る事を想像すらしていなかったかのような表情をしてからに!」

20mと云う距離を挟んでのやり取りなので、自然と声が大きくなる。
抱いている感情が感情なので、声が大きくなれば起伏も激しくなる。
耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、半ば以上涙目になりながらもようやっとの事で役に立てたと思ったのに神威の反応が『コレ』では、流が感情的になるのも無理はなかった。

一方、神威は神威で混乱していた。
『無意識での行動』とまではいかないものの、先程までの自分の行動が明らかに普段の条理から逸脱していた事に、今更ながらの驚きを隠しきれなかった。
人を殺す覚悟。
人の道を踏み外して得られる力。
ある程度の覚悟はしていたが、まさかあそこまで強烈に精神を支配されるとは思わなかった。
『殺す』と決めた瞬間、それは『殺さなくていけない』と言う重圧に姿を変える。
だけど正気のままでは『彼女』に拳を叩き付けられそうにもないから、卑怯にも自我を閉ざして『鬼』の囁くがままにする。
己の求めた力の在り方とは程遠い現状に、神威は強く歯噛みした。
何より、『そこまでしてもなお相対した敵を倒しきれず、あまつ見捨てる覚悟をした幼馴染に助けられた』と云う現実が、神威にはどうしようもなく苦痛であった。
助けてくれた事が嬉しい。
助けられた事が悔しい。
見捨てずにいてくれた事が嬉しい。
見捨ててしまった事が申し訳ない。
複雑に絡み合った襤褸(らんる)の様な感情に説明を付けられない神威は、ただただ曖昧に『何か』を否定する事しかできなかった。
彼が否定しようとしているのは恐らく、本質的な意味での『裏切り』など決して行っていないと言う事なのだろうが、残念ながら流にはこれっぽっちも伝わっていなかった。
そもそも神威が裏切るだなんて事を欠片も疑っていない流には、これっぽっちも伝わるはずがないのであった。

「ええい、もういい! それよりも――」
「よ、良くなどない! 俺は決してお前の事をだな――」
「いいからっ! それよりも口裂け女の生死を確認しろ! 早くっ!!」

その声で、神威は一気に青ざめた。
何故それを第一に確認しなかったのかと、背筋が凍る思いだった。
敵の生死も確認せずに呑気なお喋りに興じるなど、戦時下においてあるまじき注意力の欠如である。
ましてそれが視認も出来ないほどの異常な移動速度を有している、『あの』口裂け女なら尚更の事であった。

『雑霊弾』の直撃を受け、膝から崩れ落ちるようにその場に突っ伏している口裂け女。
即座に立ち上がらない所を見ると、少なくとも行動不能には陥っているようであった。
これがもし通常のリビング・デッドであれば、霊的加護を失った肉体は風化するように灰燼と化す。
しかし口裂け女が、神威や流の想像しているハイ・スレイブであった場合、肉体がどうなるかは完全に不明である。
したがって、うつ伏せに倒れている『彼女』の生死を判断する術は、今の神威にはないと云う事になる。
一般人が相手であれば呼吸や脈拍の有無で判別する方法もあるだろうが、仮にも相手はゴーストである。
迂闊に顔を近づけた瞬間、どのタイミングで頚動脈が切り裂かれるか判ったものではない。
だが、実際問題として『銀誓館に通う者としての普通の思考』で考えれば、『生死を確認する』だなんて行為は取る必要がないのであった。

何故なら、ゴーストは殲滅してしかるべき対象だから

『生』は確認する必要がない。
何故なら生かしておく必要がないのだから。
『死』すらも確認する必要がない。
何故なら生かしておく必要がない以上、『死』が明確でなければ『殺して』しまえば良いだけなのだから。

倒れている『彼女』の後頭部。
無防備に晒されている、人体における急所の一つ。
一般的に『盆の窪』と呼ばれている其処に拳を叩き込んでしまえば、一切合財は完璧なまでに決着するだろう。
『断末魔の瞳』で、敵性存在をゴーストと確認。
『王者の風』でも同様、対象をゴーストと確認。
即座に対象を殲滅にかかり、数十分の戦闘の後、致命の一撃を叩き込む事にて討伐を完了。
何も問題がない。
それは問題がなさ過ぎるほど、何も問題のない結末だった。
神威は拳を握り締めた。
強く、強く握り締めた。

これで帰れる。
学園に、日常に、穏やかに過ぎ行く時の流れに再び戻れるんだ。
覚悟は決めたはずだ。
約束もしたはずだ。
この拳を叩き込めば全てが終わる。
さらさらと風に揺れる艶やかな黒髪の間に覗く、彼女の白く華奢なうなじに、この血に濡れた無骨な拳を叩き込めば――

「ゲ…ゲゲゲ……」

声が、した。

「クク…クククキキクキウキキイキイキキキキ…」

『声』と形容して良いのかどうかも判らないほど気味の悪い大気の振動が、神威の鼓膜を粘着質に揺らした。

「どうした神威、何を固まって――」
「逃げろぉおおおっ!!」

本能的な叫びだった。
声帯ではなく、体細胞の一つ一つが勝手に振動して音を発したかのような、極限の叫びだった。
口裂け女は生きている。
口裂け女は狂っている。
先程まで戦っていた相手だとは思えないくらいに、狂気と威圧感を膨れ上がらせた状態で立ち上がろうとしている。
そして――

流が 死ぬ

それは、今までに味わった事のない感覚だった。
理屈ではなく、直感でもなく、それは既に一種の『確信』でもあった。
何故ならこの戦闘に突入してから、いや、それ以前の段階から、全ての事態は不可思議なくらい『予想通り』に組み上げられてきていたから。
だからこの先の展開も、きっと全てが『予想通り』に動くのだろうと、神威は確信していた。
そうなってほしいと願った訳ではない。
だが、予想とは時に無意識を苗床として発現するものである。
何より神威は、既に『それ』を思ってしまっている。
奇妙な動きで跳ね起き、止める間も無く縮地にて流の首元に辿り着き、鋭利な鎌を横薙ぎに振り抜くその姿を、明確に思い浮かべてしまっているのだった。

能力者にとって最も必要なのは、危機感知能力である。
それまでの経験や戦闘の流れ、相手の動向などから迫り来る危険を瞬時に系統立てて察知し、その全てに有効なる対処を取れる者を指して初めて『一人前』と呼ぶ。
そう言った意味では、神威はまさに一人前の能力者だった。
僅かな戦闘時間でありながらも敵の傾向を的確に把握し、次なる危険を直感レベルで認識する芸当は、一人前と言うよりもむしろ一流として認められるべき手腕だった。
だが、またしても口裂け女の特異性は、神威の培ってきた能力を嘲笑うかのように逆手に取るのだった。

事此処に至り、神威もようやっとの事で真相に辿り着いた。
断片的なパーツを与えられては組み立て方が判らずに放置していた全ての欠片が、今一つになって驚くべき全貌を明らかにしていた。
想像以上に想像通りだった。
まるで誰かに踊らされているようだった。
神威の感じていた不可解な違和の悉(ことごと)くは、この一言にて完全に氷解する物であった。

口裂け女は、他者の想念に侵食されて行動を決定付けられている

そもそも前提からして『口裂け女』とはそう云う存在だった。
彼女が通常のリビングデッドではなくハイ・スレイブを疑うべき存在だと云う事は、任務を依頼された段階で判り切っていたはずだった。
ハイ・スレイブとは、高次元の意思に支配されて動く存在である。
そして高次元の意思とは、数多の人間の想念が折り重なった『集団総意』である。
誰もが『口裂け女はこうである』と認識している。
だから『彼女』は、誰もが思う『口裂け女』のイメージを忠実に再現する。
再現、”させられている”。
人々の『常識』が齎す狂気の存在を、神威は微塵も疑わなかった。
何故ならそれは、銀誓館に通う彼らにとっては『世界結界』と言う名の祝福として与えられている現象だったのだから。

人間の思考回路に直接干渉し、実際に起こった事を”なかったこと”として再認識させる。
それが『世界結界』の力。
逆説的に言うまでも無く、それは完璧なまでの洗脳統制【マインド・コントロール】であった。
集団の総意とは、こうまで容易く人の精神を掌握する。
ならばそれが負の方向に傾けば、精神を喰い尽くす事もまた容易い事なのだろう。
『気狂いは伝染する』
この民間伝承に、偽りは無かった。
人々が『そう』と思い込むのならこの世界においてそれは『そう』なのであり、そしてそれは人間関係が閉鎖的であればあるほどに強制力を増していく物なのであった。

しかし今、神威が感じているのは、『それ』を遥かに凌駕した恐怖だった。
未だうつ伏せの姿勢のままで奇怪な声を発している『彼女』が、自分の想像し得る範囲を遥かに超越した存在になろうとしている。
肉体的にも、霊的にも、自分が一個の存在として比肩し得る部位が欠片も見受けられない。
まるで新たな神話の誕生に立ち会っているかの如く、神威の手足は完全に萎縮して動きを取り戻そうとはしなかった。
ビクビクと痙攣する『彼女』の肉体は、さながら子宮の中で胎動する生き物の様であった。
身体の節々から仄かに立ち上る青白い燐光は、その身に収まりきらない莫大な霊質が溢れ出しているかの様だった。

そして、そこまでを認識した瞬間、神威の視界から『彼女』の姿が消えた。

口裂け女と流の相対距離、依然として20m弱。
仮に口裂け女の移動速度が噂通りだったとしても、『彼女』が流の元に到達するまでには一秒たりとてかからない。
首の筋肉を動かし、振り返る時間ですら遅過ぎる気がする。
声帯を震わせて意思を声に変換する時間すら、途方も無い悠久の果てに思われる。
しかしそれらを思考として認識する余裕は、神威のどこを探しても残ってはいなかった。

「う、あ、あぁぁああ!」

既に、言葉ですらなかった。
ただ、『それ』を止める事が出来なかったと云う悔恨の念だけが、神威の喉を突いて出た。
情けなく手を伸ばす。
空を掴む事しか出来ないと頭の片隅では理解していながらも、他に出来る事が無いから無為無策のままに手を伸ばす。
血に濡れた指の間から、幼馴染の顔が遠く見えた。
まるで事態の把握できていない、きょとんとしたあどけない顔が霞んで見えた。

もうすぐ永遠に届かなくなってしまう。
こんなにも不条理な結末で、何もかもが消え去ってしまう。
疾走する口裂け女の後姿。
両手に握られた鎌の鈍色(にびいろ)が目に焼き付く。
ああ、あれが流の『死』だ。
そして恐らくは、その数十秒後の俺の『死』だ。

口裂け女が跳ね起きてから、僅かに七十五分の一秒が経過した時点。
神威はついに、『それ』を受け入れてしまった。
拳一つで臨んだ任務故に、万策が尽きたとは言えない。
だが、現状打破のために為す術は既に一つも残されていない。
後はただ、最後の瞬間まで目を逸らさない事だけが、神威にできる最後の覚悟だった。
まるでコマ送りの様に流れていくセカイの全て。
失われるまでにせめて千分の一秒だけでも長くと、懸命に幼馴染の姿を網膜に焼き付ける。

口裂け女の腕がしなやかに揺れた
無防備な流の首筋に向けて、銀色の閃光が走った
そして――

「はい、そこまでー」

パ、キィィイイ―――!

流の背後から唐突に現れたポニーテールの少女の手よって、口裂け女は跡形も無く消滅した。