同日
同座標
午後四時二十五分

錆びた鉄の匂いと色濃い死の予感が堆積していた路地裏に、一陣の桜風が舞い込んだ。
あらゆる負の要素を浄化する様に優しく頬と首筋を撫で、そうかと思えば何の余韻も残さずにふいと消える。
つい数瞬前まで口裂け女だった銀色の粒子が、尾を引いて天に立ち上っていく。
その様を見てようやく「風が在ったのだ」と理解できるほど、彼女の纏っていた風は万人に心地良い優しさを持った物であった。

「く…草薙…?」
「あい?」

茫然自失とした体で神威の発した声は、別に桜を呼び立てる意図があっての物ではなかった。
ただ、純然たる驚きが思考回路をオーバーフローさせ、目にした存在の固有名詞を復唱してしまっただけの物であった。
しかし、そんな虚ろな呟きにすら、桜は律儀に返事をした。
先程まではどんなに望んでも決して叶う事がなかった『問い掛けに返事がある』と言う事実でもって、神威は急速に事態を把握しはじめた。
どう云う理屈かまでは判らないが、平然とした顔で彼女が此処に存在している以上、さっきまで戦っていた口裂け女は草薙桜本人ではなかったと云う事になる。
それはつまり、彼女自身が狂ったりゴーストになったりしていないと云う事になり、それは結果的に『これ以上彼女と戦わないで済む』と云う状況を生む。
何を差し置いてもその事にただ、無上の喜びを感じている神威が其処にはいた。
だが――

「……これは、どう云う事だ?」

流は、そうは思っていなかった。
戦鎗の切っ先を桜の喉元に突き付け、鋭い目付きで詰問をする。
その態度からは、喜びどころかむしろ明確なる殺意しか感じられなかった。

流の思考は、『さっきまで戦っていた口裂け女は草薙桜本人ではなかった』と言う部分までは神威と同じ道を辿っている。
だが、其処から先の状況把握については、神威とはまるで真逆の指向性を持っていた。
口裂け女を討伐しに来た自分達の前に『偶然』現れた、自称能力者の草薙桜。
そして『草薙桜』と全く同じ外見を持ち、『口裂け女』の特徴を完璧に兼ね備えたゴースト。
これだけでも疑う要因は充分過ぎるぐらいなのに、更に彼女は図ったかの様なタイミングで颯爽と現れ、神威が散々に苦戦した口裂け女を一瞬で消滅させて見せた。
「私はあなた達のピンチを救ってあげました」
「だから私はあなた達の味方です」
恐らく彼女の意図しているのはそんな感情効果なのだろうが、まるでお遊戯の様な出来の悪い自作自演を見せられているようで、流は正直不愉快で仕方がなかった。
何故なら――

「あの醜い異形の化物は貴様の差し金か、草薙」

何故なら、口裂け女が”真に独立して存在するゴースト”であるならば、能力者が手を触れただけで消え去ってしまうと言う事など決して有り得ないからである。
退治、抹殺、覆滅、昇華。
ゴーストに対する能力者の行動がどの様に呼称されるかは状況によって様々に変化するが、総じてそれらは血を吐くような戦闘の先にしか成就する事はない。
念仏や祈祷でゴーストが聞き分け良く消滅してくれるのであれば、派遣されるのは坊主と神主と神父だけで事が足りるのであった。
しかし今、自分は能力者として此処に立っている。
『使役ゴーストを操る術に長けた霊媒師』として、今この場所に立っている。
自分を含め、『外法使い』と蔑される召還術系の能力者は、自分の使役するゴーストに対してであれば、『手を触れるだけで消滅させる』と言う芸当が可能である。
そう、草薙桜が見せたのはまさに、『外法使い』のソレと寸分違わぬ所作であった。
ここに至るまでの一連の情報を統合してみれば、『草薙桜が自分の使役する何らかのゴーストに命令して自分達を襲わせたのではないか』と云う結論に達する事ができる。
そして流は、その結論に疑いを差し挟む余地を持ってはいなかった。

「醜い化物、か。 ひどい言い草だね、まったく」
「私にとっては可愛い使役ゴースト、とでも言いたいのか?」
「まさか。 誰が見たってあの口裂け女は醜い化物だよ。 おっかないったらありゃしない」
「……ふざけているのか?」
「ふざけてなんかない。 でも、あなた達が彼女を”醜い化物”呼ばわりするってのは、やっぱりちょっと非道いんじゃないかと思う」
「それは一体――」
「だってあれ、ただの偽身符だもん」

『偽身符』とは、符術士の有している特殊なアビリティである。
一枚の偽身符につき一体、使用者と全く同じ外見を持った存在を世に生み出す事ができる。
陰陽道で云う『式神』の亜種とも取れるこの能力は、しかしながら顕現させた偽身に対して特殊な能力を付加させる事はできないと云う制限があった。
異能の力の使用は勿論の事、肉体を用いた戦闘行動ですら『本人』の筋力の枠内でしか行う事ができない。
確かに口裂け女が偽身符であれば、偽身の元となった本人が直接触れる事で消滅させる事ができるだろう。
しかし同時に口裂け女が偽身符であったならば、あの様な異形の姿に変貌させる事も、武装展開している能力者と対等以上に戦わせる事もできないはずであった。

「嘘ならもう少し真実味のある内容にしろ。 私が偽身符について何も知らないとでも思ったか」
「すぐばれるような嘘をつくメリットが私にあると思う? 何なら好きなだけ偽身符量産してあげようか」
「それは、量産した偽身符が全て口裂け女となって私達を襲うと言う、新しい脅しの類か?」
「嘘をつくメリットと脅しをかけるメリットは共存し得ないじゃん。 矛盾してるよ」
「言動が一貫していないのはお前の方だ。 少なくとも私は、お前の言葉を一から十まで信用するよりはずっと建設的な思考に則って発言しているつもりだ」
「…手抜き工事」
「貴様っ!」

二人とも、一歩たりとて譲らなかった。
特に桜など、喉元に槍の切っ先を突き付けられていると云う非常にデンジャラスな状況にもかかわらず、砂塵の欠片ほどの怯えすらその表情に滲ませなかった。
比類なく透徹な眼差しは決して武威に屈する事無く、それどころかむしろ劣勢に反発するかの様に精強な輝きを増していく。
それは既に、嘘を吐くとか吐かないとか、後ろめたい気持ちが有るとか無いとかの次元ではなかった。
忌々しい。
流はそう思った。
昨夜のファーストフード店で抱いた感情にも似たものを、流はこの場で再び感ぜずにはいられなかった。
この真正直な瞳で嘘を吐いているのなら既に自分が太刀打ちできるレベルの相手ではないし、嘘を吐いていないのだとしたら尚更に始末が悪い。
この場における主導権が桜に移る事を危惧しながらも、流はすでに突き付けた刃を喉元に押し込むという選択肢を封じられてしまっていた。
まったくもって、忌々しい。

「それなら……好きなだけ喋らせてやろう。 騙す気も脅す気もないのなら、貴様は何を思ってあんな化物を生み出し、私達を襲わせたのだ」
「だからさっきから言ってるじゃん。 あれはただの偽身符。 化物でもなければ、人を襲わせたりする事も私にはできません」
「貴様……この期に及んでまだその様な――」

――戯言を!
そう言おうとして、強い非難の意思と共に桜の顔を睨み付けた瞬間。
桜の瞳を真正面から覗き込んだ瞬間。
流は、口にしようとしていた全ての言葉を失った。

「あの娘を”醜い化物”に変えたのは、アンタ達だ」

憎しみとも違う。
さりとて、憐れみともまた違う。
怒りでも悲しみでもなく、蔑みや失望とも表現する事ができない。
流の事を見据える桜の眼差しには、ただただ深い粘質の闇しか存在していなかった。

「風説憑依型ゴースト、通称【フォークロア】。 口裂け女が人の想念を媒介として依代に寄生するタイプのゴーストだって事は、あなた達も把握していたでしょ?」
「……それが、どうした」
「能力者の念は強い。 普通の人の何千倍も、何万倍も強い。 たった二人が『そう』と思い込むだけで、何の変哲もない偽身符すら”醜い化物”に変質させてしまうぐらいに」
「あ……」

『草薙桜は口裂け女だ』
流は、その方針の下に今回の任務を完遂しようとしていた。
精神に迷いを抱いたままの戦闘は、即座に死に至る。
だから流は、神威にも『草薙桜は口裂け女だ』と断言する口調で言い含めた。
自信満々な幼馴染の言葉を神威は頭から信じ込み、幾許かの苦悩の果てに完璧なる覚悟を手にした。
かくして、二人の能力者は同一の想念を強烈に発しながら、噂の蔓延(はびこ)る街で戦闘の時を迎えたのだった。
この世界の理をいとも簡単に超越するほど強力な、『能力者の念』を撒き散らしながら。

「偽身符はね、符を媒介として収斂(しゅうれん)された、自我境界線の曖昧な霊質で構築されてるんだ。
 だから彼らの行動は、偽身の元となった『本人の行動の記憶』じゃなく、偽身を見た人が抱く『この人はこうあるはずだ』って思念を投影する事で決定付けられるんだよ」

他者のイメージを糧として動く存在。
他者から押し付けられた『こうである』と言う概念に隷従させられ、その行動を支配されている存在。
それはまさに、今回の討伐対象である口裂け女の特徴その物でもあった。

「あなた達が私を見る目は、”醜い異形の化物”だった。 全てはただ、それだけの事」
「そ、それはっ――」
「別にいいよ。 私も最初から、あなた達の事そんなに信用してた訳じゃないから」

そう言って、桜は小さな微笑を見せた。
それは感情の綻びなど全く見えない、実に整った人好きのする笑顔だった。
口振りも穏やかだった。
瞳にも敵意は浮かんでいなかった。
それがあまりにも完璧すぎる微笑みだったからこそ、流は逆に、自分が強く拒絶されている事を感じ取った。
無理もない、と思う。
今更「好いてくれ」だなどと言えるはずが無い、とも思う。
しかし、確かに一つの側面としては桜の心情に理解を示しながらも、それでも流の思考は『自分を責める』だなんて方向には決して傾こうとはしなかった。

「……最初から信用していなかっただと?」
「うん」
「信用していなかったくせに……私達がお前に”口裂け女の疑いをかけている”と判っていたくせに、偽身符をわざわざ送り込んだだと?」
「うん」
「そしてお前は……偽身符が暴走するのを待ち構えていたかのようなタイミングで、私達の前に姿を現した」

自我境界線の曖昧な偽身符を、『思い込み』が強制力を持つまでに至った不安定な街中に解き放った。
『草薙桜』が能力者二人から疑われていると知りながら、『草薙桜』と全く同じ容姿を持った偽身を発現させた。
結果、偽身符は見事に『他者の想念』に侵食され、強大な戦闘力を持った『口裂け女』へと変貌した。
無論、流と神威がこれを退治できていれば問題はなかったのだろうが、『雑霊弾』の直撃を境に事態は急転。
神威が絶叫と共に死を覚悟し、流に至っては事態の把握すらできず、全くの不意のままに命を散らされようとしていた。
だが、現実は『そう』はならなかった。
どこからともなく現れた桜が偽身符に手を翳(かざ)し、一瞬の内にこれを消滅させた。
まるでそれは、最初から全てを識っていたかのようなタイミングだった。
そう、まるでそれは――

「つまり貴様は、現状が”こう”なると全て予測した上で……それでも、偽身符を私達の元に遣わしたと言うんだな?」
「まー……若干の誤差を覗けば、大体は予想通りかな?」

あくまで軽い口調のまま肯定する桜の態度に、流がついにブチ切れた。
踊らされていた不快感とか高みの見物を気取られていた屈辱感にではなく、主に神威のために盛大にブチ切れた。

「ふ……ざ、けるな! ふざけた事を言うな貴様! 予想通り!? 予想通りだと!?」

神威が血を流している。
口裂け女に切り刻まれた身体から、今だ滴々(したした)と赤黒い血を流し続けている。
自分自身も口裂け女の危険に晒されていたにも拘らず、流はただ『神威が負傷している』と言うその一点にのみにおいて、身を焦がす怒りを隠しきれなかった。
能力者だって『人間』だ。
皮膚を切られれば赤い血が出るし、肉体に傷を負えば痛みを感じるし、死が目前に迫ればそれに恐怖を覚えてしまう、紛う事なき『人間』なのだ。
だから、きっと神威だって痛かったに違いない。
あんなに傷を負って、あんなに血を流して、きっと物凄く痛かったり苦しかったりしているはずなのに――

「ならば! 神威の受けた傷も、流した血も、全て貴様が思い描いたものだと言うのか! 答えろ! 草薙!」

許せなかった。
神威を傷つける者は、例えそれがどの様な存在であっても、流には到底許せそうに無かった。
勿論、全て桜が悪いと思っている訳ではない。
少なくとも身勝手な思い込みで偽身符を変貌させ、その結果が神威の負傷であると云う部分に関しては、流は自分の責任を痛烈に感じていた。
今この街では、『都市伝説』なんて他愛の無い噂話みたいなものが、実際に生きている人間に対して強力に干渉している。
任務の途中段階から薄々はそれを認識していながらも、自分達はまるで相乗効果を期待するかの様に、一人の人間を『口裂け女ではないか』と強く疑った。
だから、自分達の疑心に対し、桜が偽身で応えてみせたのも、当然といえば当然の帰結であった。
「身を守るためだ」と言われればそれまでだし、「自業自得だ」と言われれば納得せざるを得ない事柄であった。

だが、流には納得できなかった。
全てを見通してなお、その未来に対して不干渉を貫いた桜の態度が、流にはどうしても許す事ができなかった。
もっと他の方法があったのではないか。
もっと、誰も傷付かずに済む未来の選択肢が存在していたのではないか。
まるで駄々をこねる子供の様だと思いながらも、流は自らの思考に歯止めをかける事をしなかった。
この思いに歯止めをかけるようであれば自分には存在価値すらないと、流は強くそう思った。
神威が傷付かないための方策であれば、自分は必死になって模索しただろう。
幼馴染が血泥に塗れないようにする為であれば、自分は東奔西走してでも僅かな可能性を探っただろうと言うのに。

涼しい顔で、桜は偽身符を解き放った。
最後の最後に至るまで、自分の偽身が神威を刻み付けるのを静観していた。
それは、自分を疑った者に対する戒めか。
それとも、何か別の思惑があってのことか。
今はもう、どちらでも構わない。
どちらにせよ桜の取った行動は、流にとって許容し難い選択である事に変わりはなかった。

「返答次第では……生かして返さない」
「……なら、アンタが考えれば良かったじゃん」
「なっ――」

しかしまたしても、桜は引かなかった。
いや、むしろ引かないどころの騒ぎではなかった。
涼しい顔。
凛とした眼差し。
拳の一つも握る訳ではないくせに、口にする言葉は抜身の刃よりもなお悋気に満ちている。
表面的な感情のざわめきが目に見えないからこそ、流は逆にその超然とした風体が恐ろしかった。

「誰も死なないし、誰も怪我しない。
 悲しみも憎しみも一粒だって残さずに事件を解決して、最後は笑顔で記念撮影。 そんな便利な作戦があるなら、最初からやれば良かったじゃんか」

その指摘に、流は声を詰まらせた。
当然である。
何故なら『そんな便利な作戦』など、最初から何処にも存在していなかったのだから。
桜の言う通り、もしも流が『そんな便利な作戦』を有していたのなら、何を差し置いてでもそれを実行に移していただろう。
しかし実際には銀誓館組は何の策も持たず、ただただ武力による口裂け女の殲滅を図るしかなかった。
そしてその結果が、今のこの有様である。

「ねえ、あなた達は何のために此処に居るの?」

流は――即答できなかった。
あまりにも純粋なその質問に答えるには、今の流は『大切なもの』で満たされすぎていた。
無論、建前上は『ゴースト討伐』のためである。
対外的な理由はおろか、内面的な理由の上でさえ、流は『ゴースト討伐』のために此処に居る。
だが、究極的な選択としてはどうか。
『ゴースト討伐のためならば何を棄てても構わない』とまで、果たして自分は言い切れるのだろうか。
流はその自問に、答える事ができなかった。
例えソレがどちら側に傾いた物であっても、その問いに対する答えを口にする事は現状の全てを否定する事と同義に思えて、流は口を噤む事しかできなかった。
幼馴染が傷付く事がそんなに許せないのなら、ゴースト討伐になんか関わらなければいい。
ゴースト殲滅を何よりも重視するのなら、仲間の屍すら踏み越える覚悟を持たなければならない。
桜の言わんとしている事は、つまりはそういう事なのだろうと流は思った。
平和な日常を守り抜くために、本来取るべき幼馴染としての行動。
屍山血河の戦場における、本来あるべき能力者の姿。
自分の立場を明確に定め、それを実行している者の目から見たら、今の自分はどんなに中途半端に見える事だろう。
「ゴーストを倒す」だなんて言ってのこのこと戦場に赴き、いざ戦いが始まれば「幼馴染が傷付けられた」と我を失い。
自分は、何がしたいのだろう。
自分は何のために、こんな場所に立っているのだろう。
私はただ、自分にとって大切な者が傷付かない日常を求めていたはずなのに――

「変な事を訊く奴だな、お前は。 能力者が戦場に居る理由など、ゴースト討伐以外に何かあるのか?」
「……か、むい?」
「む? 俺はまた何か変な事を言ってしまったのか?」

驚く流の表情を見て、きょとんとした顔で自分の非を探す神威。
桜の問いが全くの純粋な物なら、神威の答えもまた比類なく単純な物であった。

「お前っ、その答えがどんな意味を持ってるか判ってるのかっ?」
「お、おう?」
「お、お前がゴースト討伐のためだなんて言い切ったら、私はどうしたらいいと思ってるんだっ。 こらっ、神威っ!」
「……いや、スマン。 何だか判らんがとにかくスマン。 悪い、草薙。 前言撤回だ」

この人は昨日から謝ってばかりだ。
桜はぼんやりそう思った。
気がつけば場を支配していた剣呑な空気は既に無く、桜の喉元に突き付けられていた刃先も地面に下ろされていた。
怒りと迷いで青褪めていた流の顔にも血の気が戻り、神威に噛み付いているその様子は、口にしている言葉とは裏腹に、どこか優しげでもあった。
一瞬にして構築された『幼馴染同士』の世界。
蚊帳の外に居る桜の顔に、感情の色は無い。
唯一、水月だけがそれを見て、気遣わしげに小さく「もきゅ」とだけ呟いた。
無論、その言葉は誰にも理解される事はなかった。

「……まあいいや。 それより、藤咲さんの傷は大丈夫?」
「ん? ああ、この程度の傷なら庭で転ぶのと大差ない。 平気だ」

この人はどんな日常生活を送っているんだろう。
桜はうっすらそう思いながら、懐から治癒符を取り出し、神威の頬に宛がった。
符に刻まれた癒しの真言(マントラ)が白色に淡く輝き、真皮まで切り裂かれていた傷を跡形も無く消し去っていく。
一度効果が発動されてしまえば別に手を添えている必要もないのに、それでも桜は申し訳なさそうな顔のまま、神威の頬から手を放さなかった。

「ごめん……さっき水里さんにも言われたんだけど、この傷は私が付けた様なもんだからさ…」
「なるほど。 遠くてあまり聞こえなかったが、そんな遣り取りをしてたのか」
「……痛かった?」
「あー、いや、別にお前が気に病むほどでは――」
「痛かったに決まっているだろう。 常人なら輸血が必要なレベルだ。 見て判らないか」
「な、流っ?」

そっぽを向いたまま、辛辣な口調で桜を責める流。
どうやら『神威と桜が不必要なまでに接触している』と言う構図が、何だか判らないけど無性に癇に障ってしょうがないみたいだった。

自分が傷を負わせた張本人のくせに、これ見よがしに甲斐甲斐しく治癒の手を施す草薙の仕草が気に喰わない。
私に向かって啖呵を切っていた時とはまるで異なった、媚を売るような態度も気に喰わない。
それに神威も神威だ。
ちょっと相手が反省したような態度を見せただけで全てを許してしまい、デレデレと益体も無い顔をしてされるがままになっているとは何事だ。
そもそも、何ださっきの『お前は何でそんなに草薙に噛み付いてるんだ?』みたいな疑問符の浮いた顔は。
私が何でこんなに怒ったり悩んだりしているのか、お前は何も判ってないのか。
……いや、何も判ってないに決まってる。
此奴はきっと何も理解してないまま、私の態度に首を傾げているに違いないのだ。
まったく、神威はまったく!

「とりあえず、喧嘩はよそう。 な?」
「私は別に……難癖をつけたり因縁を吹っかけたりしている訳ではない…」
「お前が道義に悖(もと)る人間ではない事は判っている。 だが、人にはそれぞれの考えと言うものが有ろう?」
「だ、だがっ」
「視野を広げて生きろとは、お前が教えてくれた事だ。 だから、な。 まずは話を聞いてみようではないか」
「……もういい。 勝手にしろ」

こんな時ばかり、物分りの良い知者の顔をする。
私の事はちっとも理解してくれないくせに、私の言った事に忠実に従いながら、私の手綱を握ったりする。
まるで子供の様に不貞腐れながら、流は幼馴染の横顔に向けて小さく「ばか」と呟いた。
神威は勿論、その言葉には気付かなかった。

「さて、草薙」
「あい?」
「今から何個か質問をするが、決して嘘だけは吐いてくれるなよ?」
「誓います」
「遠回しな答えとか含みのある言葉ではぐらかすのもナシだからな?」
「努力します」
「あと、質問を質問で返すのも却下だからな?」
「前向きに善処します」
「……草薙」
「誓います」
「頼むぞ、本当に…」

こんな状況の最中なのに、桜は小さな冗談を会話の中に埋め込んだ。
それと気付かないほど自然に突っ込み役をこなしてしまった神威は、小気味良い会話の流れが可笑しくなって、つい小さな苦笑を零してしまっていた。
本当に、こうしているとただの快活な中学生にしか思えない。
こんな元気な娘が後輩だったら、さぞ学園も賑やかになる事だろう。
場違いなほどに穏やかな情景が思考を乗っ取り、神威は思わず用意していた質問とは違う言葉を口に出してしまっていた。

「なあ……お前は、俺の敵か?」

図らずもそれは、全ての根幹に位置する質問であった。
敵であると言うのならば、今後一切の質問をする必要がない。
桜の取った全ての行動を悪意から発せられた物であったと認識し、以後はそれを粉砕するために尽力すれば良いだけの事となる。
それはとてもとても哀しい事だが、敵であるのならばしょうがないと言う結論に達する事ができる。
だが。

「違います」

桜は、違うと答えた。
嘘を吐かないと誓い、はぐらかさない努力もし、質問に質問で答える事もせずに、はっきり「ちがう」と答えてみせた。
そしてそれは、神威にとって何よりも嬉しい最上の返答だった。
濁った空の下。
闇に支配された路地裏。
かなり最悪に近い出会い方をしたあの瞬間から、神威はずっとその答えだけを求めていた。
「敵ではない」と言ってほしかった。
「争い合う必要はない」と、本人の口からちゃんと言葉にして言ってほしかった。
神威にとって、顔を見知って言葉を交し合った相手に攻撃を加えなくてはいけないだなんてのは、今までに背負ってきたどんな罪科よりも残酷で苦痛なモノでしかなかったのだから。
だけど、もうそんな心配はしなくてもいい。
これでようやく、『草薙桜』と真正面から向き合うことができる。
幾度も幾度もその事を胸の内で反芻しながら、神威は改めて目の前の少女の顔をまじまじと見詰めた。
実に可愛いらしい顔だと、言葉にする事もなくそう思った。

「では、次の質問だ」
「ん」
「お前が俺の敵ではないと言うのならば……ならば俺は何故、偽身符と戦わなければならなかったんだ?」
「私はあなたの敵じゃないけど、あなたにとって私は敵だと認識されていたから」
「それは判っている。 だが、俺が訊きたいのはその先だ。 暴走すると判っていて、それでもなお偽身符を放った、その理由を教えてほしいんだ」

何か理由があったはずだ。
危害を加える事が目的ではなかったとしたら、そこには何か納得のいく理由があって然るべきだ。
疑いから初めた流がブチ切れて中断してしまった問答を、神威はまず信じる所から初めて再び深く切り込んだ。
敵ではないと言ってくれた。
ならば、自分が受けた傷にも何らかの意味があったに違いない。
馬鹿正直な瞳で自分を信じる神威の姿に多少のやりづらさを感じながら、それでも桜はよく透る声でこう答えた。

「……明日、誰も死なせないために」

強い眼差しだった。
覚悟を完了している者の声だった。
戦闘能力の多寡などとは次元の違うところで、神威は桜に一種の畏れさえ感じた。

「明日…だと?」
「うん」
「まだこの事件は終わってないと……そう言う事か?」
「残念だけど、そゆ事になるね」
「偽身符に想念を憑着させて、符ごと消し飛ばす。 俺はそれで今回の事件が解決したものだと思っていたが、まさか違うのか?」
「それで解決するなら、藤咲さんが傷を負う必要はなかったし、私が黙って見てる必要もなかったもん」

確かに、と神威は思った。
自分の考えている方法で事が解決するのであれば、「敵ではない」はずの草薙が静観を決め込むのはおかしい事になる。
勿論、最初から彼女が合流できなかった理由としては、『偽身符に想念が定着するまでは姿を見せる訳にいかなかった』と言う説明でもって一応の納得ができる。
しかし、偽身が『口裂け女』として活動を始めた以降であれば、桜はいつでも武力介入する事が可能なはずであった。

「……判らんな。 もう少し詳しく説明してもらえるか?」
「了解」

軽く頷いてから大きく息を吸い、桜は『それ』を語り始めた。

「まずは藤咲さんの負傷ですけど。 それは多分、『明日の今』に受けるはずだった傷なんです」
「明日の、今?」
「もしも偽身符と戦わずに明日を迎えていたら、の話」
「……続けてくれ」
「強い思い込み。 既成概念。 植え付けられた知識と今まで培ってきた常識。 それらは、余程のインパクトか実際の体験がない限り、そうそう形を変えてくれません」
「なるほど……対する口裂け女は、それらの想念を喰い散らかし、自らの能力とする特性を持っている、か」
「そう。 だからきっと、偽身符との戦闘を経験しないで明日を迎えたら、藤咲さんは今日と同じ思考と行動の果てに、今日と同じ傷を負ってしまうんです」

偽身符が変じた口裂け女は、容姿が『草薙桜』をベースとした物であると言う部分以外、本物の口裂け女と変わらない。
それは実際に偽身符と相対した神威の方が、嫌と言うくらい思い知らされていた事実だった。
心にふと浮かんだ僅かな『可能性』すら貪欲に喰い散らかし、それを『現実』の物にするだけの能力を手に入れる。
神威が今までに遭遇した事の無い恐るべき特性、【風説憑依】。
言うなれば神威が負った全ての傷は、他ならぬ神威自身の『想像したとおり』に付けられた物なのであった。

「そうか……それで”明日の今”、か」
「本当は『必要な痛み』なんて言葉は使いたくないんですけど……でも、その…」
「判っている。 お前は、”明日の今”を”今日”で止めてくれたんだろう?」
「……うん」

桜が居なければ。
もし、対峙していた口裂け女が偽身符ではなかったとしたら。
もしも『今日』を通過せずに『明日』を迎え、今日と同じ戦闘行動の果てに『あの瞬間』に辿り着き。
そして、打つ手を持たない自分の目の前で、『明日の今』の『続き』が繰り広げられていたとしたら――

「お前が居てくれなかったらと思うと。 偽身符が暴走して流に切りかかったあの瞬間に『続き』があったと考えると、情けない話だが、正直今でも足が竦む」

最後の方は自嘲気味に呟き、神威は、何の役にも立たなかった自分の拳を見詰めた。
『自分の想念』如きに打ち克てなかった自分が、悔しくて、情けなくてしょうがなかった。
武道の本懐とは『克己』、すなわち『己に克つ』事である。
怠惰な日常を棄て。
憎悪や憤怒に心を捕らわれず。
種々の誘惑に精神を堕落させる事無く、如何なる困難や恐怖にも立ち向かえるようにと、心と身体を練磨する。
心と身体を鍛えながら、日々を過ごしていたはずだったのに。

「己の弱さにすら打ち克てず……何が拳士か…」
「あの、そこなんですけど」
「……そこ?」
「藤咲さん、別に負けてないんですよ」
「……草薙、気持ちはありがたいが下手な慰めは――」
「下手な慰め、するような人間に見えます?」

神威の言葉を遮り、畳み掛けるように桜が問いかける。
斜め下から神威の顔を覗き込むその透明な眼差しは、『否定される』だなんて事を欠片も考えていない、いっそ清々しいまでの自負に満ち溢れていた。

「そう…だな。 どちらかと言えばお前は、優しい慰めではなく激しい鼓舞を見舞ってくれそうな感じだ」
「それ褒めてないね。 褒めてないですよね」

心外な評価に頬を膨らませる桜と、困り顔で「そんなつもりではない」と一生懸命になだめる神威。
妙に距離の縮まっていく二人の様子を見ながら、流は憂い顔で小さな溜息を吐いた。
面白くない。
何故だかさっぱり判らないけど、やはりあの二人を見ているのは面白くない。
『それなら見なければいいのに』とどこからか無粋な突っ込みが入ってきたが、流はそれを鮮やかにスルーした。
神威の面倒は、私が見なければ駄目なのだ。

「それで? 負けてないとはどう云う意味だ」
「言葉通り。 ずっと見てて思ったんだけど、多分あのまま戦ってれば、普通に藤咲さんが勝って終わってたはずなんですよ」
「……どこをどう見ればそんな分析が出てくるのだ」
「戦闘開始直後の、偽身符が放った頚動脈への必殺の一撃」
「……」
「あれが決まらなかった時点で、私は藤咲さんの勝ちを確信しました」

視認する事すらできなかった縮地レベルの移動速度に、戦闘反射すら許してもらえなかった神域の剣閃。
生死が交錯したあの瞬間を思い返すだけで、神威の首筋に鳥肌が立った。

「俺は、何もできなかったんだぞ?」
「でも、生きてます」
「反撃も、回避も、武人としての行動など何一つできないままに、まるで赤子のように首を竦めていただけだと言うのに?」
「でも、藤咲センパイ、今生きてます」

生きている。
桜は、その言葉を頑ななまでに繰り返した。
まるでそれは、遠い何処かへ向けた祈りのように。
強く。
儚く。
「生きている」と、繰り返した。

「ある程度の予測をもって戦況を観察していた私でさえ、あの一撃には背筋が凍りました。 すぐさま治癒符を取り出して、最大出力で発動させようとさえしました」
「……」
「だけど、藤咲センパイは無傷でした。 過程とか優劣とかはこの際どうでも良くて、大事なのは『無傷だった』って言うそれだけなんです」
「……何故だ?」
「”反応する事すらできない速度で致命の一撃を放った”のに、口裂け女は藤咲さんを殺す事ができなかったんですよ?
 つまりは其処が、彼女の限界範囲。 言い換えれば、”藤咲さんが想定している口裂け女の活動限界点”って事になるんです」

確かに、あれは死んでもおかしくない一撃だった。
しかも『可能性』としては、生存よりも遥かに重きを置かれていた結末のはずだった。
だが、自分は死んでいない。
口裂け女の一撃は、自分を殺すに至っていない。
それは、神威にとって僅かに残された希望の欠片だった。

「口裂け女の武器、覚えてますか?」
「確か”鋭利な鎌”、だったはずだが」
「そう。 鋼鉄でも高強度セラミックでも超硬化タングステンでもなく、漠然としたイメージでの”鋭利な鎌”です。
 固定概念を与えられずにイメージだけで具現化された”鋭利な鎌”には、事実上の問題として”切れない物が無い”と捕らえるのが普通です。
 でも、その反則的な能力を持つ武器ですら、藤咲さんの装備している手甲は切断できなかった。
 そこでも私は確信したんです。
 あー、この人は負ける気なんてこれっぽっちも持ってない。
 この人は、自分の装備にすら絶対の自信を持ってる。
 このままいけば多分、順当な感じで藤咲さんが勝つんだろうなー、って」

当たり前だ、神威をなめるな。
心の中だけで呟きながら、流は密かに満足げな笑顔で頷いていた。
阿呆の一念、とまでは言わない。
しかし神威の『こう』と決めた時の精神力は、文字通り岩をも穿つほどの強さを持っている。
ハイスレイブだか何だか知らないが、『敵は自分自身だ』なんて青臭い体育会系の部活動テーマみたいな代物が、神威を倒せる訳がないだろう。
まるで弟の出来の良さを誇らしげに語るみたいな微笑を、水月だけが何も言わずに見詰めていた。

「だから、最後の展開は私にとっても予想外でした。 まさか、あんな事になるだなんて思わなかった」
「……お前にとっても、『アレ』は予想外だったのか?」
「はい。 いくらこの異常な霊的干渉化に置かれている街の中とは言え、偽身符があそこまで高位の存在に変質するだなんて……」
「高位の、存在?」
「複数人格と多重擬似生命を持ち、身体の各部位からオーバーロードするほどの霊子を一個の概念に押し留めている、超高密度霊質群体。
 大本になっているのが自分の偽身符じゃなかったら、正直言って半径数十キロ以内には近寄りたくないほど、古今未曾有の超凶悪ゴーストです」
「……まさかお前またそんな、こんな時に笑えない冗談を――」
「言うような人間に、見えますか?」

見えねえなドチクショウ。
背中に嫌な感じの汗をかきながら、神威はごくりと唾を飲んだ。

「私も、迂闊でした。 人々の想念によって形成されている上位概念、それが口裂け女の正体だって判っていたのに、”それ”を想像する事が出来なかった」
「”それ”、とは?」

そこで桜は言い難そうに、目を伏せながら小さな声で呟いた。

「雑霊弾、です」
「……なんだって?」
「偽身符の暴走の引き金になったのは、水里さんが放った雑霊弾です」
「なっ、それはどう云う意味だ!」

桜の口から告げられたその言葉に、流は心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。
思わず掴みかかりそうになったのを強靭な精神力でどうにか抑え、代わりに聞き捨てならない事をのたまった桜の顔を射抜くように睨み付ける。
敵意を隠そうともしないその視線は、まるで先程までと同様、『敵ゴースト』に向けられているかの様に厳しい物だった。

「霊能者の手によって編み上げられた無数の雑霊、無数の霊質、それらは数限りない想念の結晶とも言えます。
 そして、形を持たない『概念』ですら取り込んで自分の力にする口裂け女に、水里さんは、それを思い切りぶつけてしまった。
 結果、桁違いの情報量と霊子質量を直接的に叩き込まれた口裂け女は、一時的なオーバフローによる行動不能の後に、だけどそれらを全て”喰い尽し”た」

語られていく真実の断片。
偽身符の変貌に続き、自分が元凶だと思い知らされていく時間。
それらは、まるで目の粗い紙やすりで傷口をこそぎ取るような苦痛を、流の精神に与えていった。
ざりざりと、ココロが削られていく音がする。
がらがらと、何かが足元から崩れていく気がする。
流は今や、桜への敵意を糧として自分を保つしかないと言う所まで追い詰められていた。

「それは……私が悪いと言いたいのか?」
「流?」
「違う。 私は結果しか喋ってない。 そこにどんな意味付けをするかは、あなたの自由」
「お前が喋った内容を聞いて、他にどんな解釈の仕方があると言うんだ! 何処をどう聞いても私の所為ではないか!」
「な、流っ? ちょ、落ち着け、な」
「放せ、放してくれ神威! この際白黒ハッキリさせなくては気が済まんのだ! 中途半端に詰(なじ)られるくらいなら、すっぱり断罪してもらった方がマシだ!」
「判ったから、判ったから落ち着こう、深呼吸だ、ほら、流」
「ええい五月蝿いっ、いいからそこをど、はなっ、ちょ、あ、ど、どこを触っているのだ貴様ぁっ!」
「ぬぐふっ」

三流のラブコメなら家でやってくれないかな。
地面に崩れ落ちていく神威の姿を呆れ顔で眺めながら、桜はそう思った。

「はー、はー」
「ねえ、もう先に進んでいいかな」
「……先、だと?」
「さっきの話の続き」
「私の所為で偽身符が暴走した。 それ以上、まだ何か言い足りない事があるのか」
「私は別に水里さんの所為だなんて言ってない。 偽身符が暴走したのは、雑霊弾の所為だって言ったの」
「同じだろう」
「全然違う」
「具体的に何処が」
「老若男女、黒人、白人、黄色人種、洋の東西から信仰する宗教、果ては朝食のメニューがご飯だったかパンだったかに至るまで。
 それがこの世界に存在する人間である限り、何に属するどこのどちら様がぶち込んだ場合でも、雑霊弾なら全て平等に偽身符を暴走させただろうってこと」
「……」
「言ってる意味、判りますよね」
「……ああ、理解した」

ただし、納得はしていないがな。
これ以上の問答は時間の無駄だと悟った流は、桜の理論に不承不承ながらの頷きを一つだけ返し、先を促す事にした。
水里流の所為ではない。
雑霊弾が引き起こした事象である。
確かに言葉の上ではそうなのだろうが、物事には往々にして『当事者』と云う者が存在すると流は考えていた。
人に向けて銃を撃てば死ぬ。
殺意が無くても人は死ぬ。
例えばその人の脳漿を飛び散らせたのが『5.45mm弾』だったからと言って、罪の全てが鉛弾に向けられる訳が無いのである。
言葉遊びで自分の罪を誤魔化す訳にはいかない。
業を背負わぬ者に掴める明日など無い。
全ての決意を凪の水面に押し隠し、流はあくまで『不自然ではない程度に不機嫌な水里流』を演じ続けた。

神威は、未だに地面に倒れ続けていた。