同日
午後四時四十一分
同座標にて


「さて、ここからがいよいよ本題です」

まだ本題に入ってなかったのか。
痛む天柱と水月と人中と壇中と頸中と、往復ビンタされた両頬を擦りながら、神威は息も絶え絶えにそう思った。

「私は、誰も死なせたくない。 それだけを至上の目的として偽身符を解き放ち、お二方を危険な目に遭わせました」
「その説明なら、さっきしてもらったではないか。 なあ流」
「……」
「流」
「……判っている。 悪意が無かった事だけは信用してもいい」

ただ、釈然としないだけだ。
うまく言語化できない複雑な感情を、流は胸中に押し留めた。
全てを信用してもらえない事が寂しいのか、複雑そうな表情をしながら、桜が続きを語り始めた。

「確かに、悪意は無かった。 でも、私的な感情が無かったかって訊かれたら、実はそうじゃないんです」
「私的な感情?」
「エゴって言ったらいいのかな。 とにかく、私は誰も死なせたくないんです」
「いや、だからお前は俺達を守るために――」
「”誰も”……ですよ?」
「……草薙?」
「藤咲さんには死んでほしくない。 水里さんにも死んでほしくない。 でも――」

そこで、桜は少しだけ言い淀んだ。
適当な言葉が見つからない訳ではない。
ただ、それを口に出す事に幾許かの抵抗を覚えている様な表情だった。
自分が口にしようとしている言葉が、未来にどのような累を及ぼすかを危惧している。
傍目には判らない逡巡を螺旋回廊のように繰り返した後、桜は、僅かに目を泳がせながらその小さな口を開いた。

「でも……口裂け女にも、私、死んでほしくないんです…」

気弱く、我を通すつもりが殆ど感じられないような声。
優しさに端を発したかのような内容。
「私的な感情」とか「エゴ」とかの仰々しい前置きをされていただけに、神威はその言葉を聞いて何やら肩透かしを食らったような気になっていた。
だが、同じ銀誓館組でありながらも、流は決して桜の言葉を楽観的に受け取ったりはしなかった。

死んでほしくない。
口裂け女をも含めて、誰も死なない未来がほしい。
躊躇いがちに桜が口にしたその言葉は、『そうなったらいいなあ』程度の希望ではなく、明確なビジョンとして作戦行動に組み込まれている一種の『計画』であった。
無論、闇雲に手足を振り回してどうにかなる程度の問題であれば、計画などは必要ない。
力任せではどうにもならない、もしくは現状で保有している力ではどうにもならないからこそ、計画と言うものが必要とされるのである。
それはつまり――

「つまり、”口裂け女を殺さないための方策”を探るために、私達は偽身符と戦わされた。 お前は、そう言いたい訳だな?」

吐き棄てるように、流が口を開いた。
桜は、ただ黙って頷いた。
二人の間に流れる空気は、再び険悪になりつつあった。

桜の今までの言動を総括し、流独自の理論で推測すると、以下の様になる。
背後関係がどうであれ、草薙桜はまず、『口裂け女の依代となっている少女も含めて誰も死なせない』と言う計画を立てた。
しかしその計画を立てた段階では、彼女はその計画を実行に移せるだけの『力』、あるいは『方法』を持ち合わせていなかった。
そこで彼女は単一で口裂け女と対峙する事を避け、他の能力者を自分の計画に巻き込む事にした。
今にして考えれば、やはり草薙桜は最初から、自分を『口裂け女だ』と誤解させるように動いていたのだろう。
そうして計画通りに誤解を植え込み、限りなく『本物』と近似した能力を持つ偽身符と戦わせてみて、遭遇した能力者が『解決策』を持っているかどうかを観察する。
最初から彼らが『誰も死なない方策』を知っているのであれば、それで良し。
何も作戦を持たずにただ力で抗うだけの戦闘であっても、俯瞰的に観察すれば何某かの活路が見出せるかもしれない、と言う話の筋である。
自分の手を汚さず。
自分の身を危険に晒さず。
真実も語らず、誤解を誘発させるように仕向け、それでいて自分の望んだ結末だけは手に入れようとする。
あまりにも独善的な桜の行動は、流にとって到底許容し得る物ではなかった。

「不愉快だな」
「愉快なゴースト討伐任務なんて、聞いた事ないよ」
「任務が不愉快なのではない。 貴様の言動が、不愉快だと言っているのだ」
「じゃあ、愉快に死にたかった?」
「詭弁だな。 貴様は『私達の命を救った』と言う事を大義名分に据えているつもりなのだろうが、それは『私達を騙した』と言う事の免罪符になりはしない」
「免罪符、か…」
「お前が仕組んだ一連の偽善的な行動は、全て口頭で伝えるだけで用が済む物ばかりだ。 結局お前は自分の欲求を通すために私達を欺き、それの贖罪として――」
「ねえ。 私、許してほしいだなんて言った覚え、ないんだけど」

確信犯。
欠片も悪びれる様子の見えない桜の態度を見て、神威の脳裏にそんな言葉が思い起こされた。
自分の行いが正しいと確信している者にしか持つ事の許されない、限りなく強固で迷いの無い決意。
『それ』を成し遂げるためであれば、何を犠牲にしても厭わないとすら思っている覚悟が見える。
しかし、どんな想いが彼女をそこまで頑なにさせているのかまでは、残念ながらエスパーでもない神威には判らなかった。

「さっきも言ったけど、私は『誰も死なせないため』に此処にいるの。 あなたに好かれるためだとか、許してもらうためなんかに口を開いてる訳じゃない」
「ならば言わせて貰うが、私達とてお前に利用されるために此処に居る訳ではない。 あまり人をなめるな」
「利用だなんて人聞きが悪いなあ。 これでも私としては、『ゴースト討伐に対する積極的な協力』の姿勢を示してるつもりなんだけど?」

ゴースト討伐に対する積極的な協力。
それは、本日未明のファーストフード店で交わされた『約束』の言葉だった。
否、『約束』とは名ばかりの、互いが互いを騙し合うために必要とした『始まり』の言葉だった。
仲間にするつもりなど無かった、仲間にしてもらえると信じていなかった。
敵を迎え撃つつもりで待ち伏せしていた、偽身符に自分の身代わりをさせた。
今こうして振り返ってみれば、なんとも醜い騙し合いの連続である。
これだけ互いに猜疑心を見せ付けあった後の状況で、『約束』だなんて言葉は今更に過ぎると誰もが思っていた。
だが。

「動機も、過程も、事の善悪も信頼関係の有無も関係ない。
 あなたが私と私の行動の事をどう思おうと、”結果”として私達はこうして此処に立っているし、曲りなりにだけど口裂け女に対抗する手段も見つける事ができた。
 それとも、ひょっとして銀誓館学園では、敵性ゴーストに関する有効な対抗手段を探る行動を、『協力』としては認めてくれないのかな?」

桜は、自分の姿勢はあくまで『協力者』の立場から外れていないと主張した。
そしてその一点において、自分は約束を違えていないと言い張った。
無論、そんな主張を「はいそうですか」と受け入れられるはず無いのが銀誓館組、もとい水里流である。
過程を評価してくれるのは小学校までだと判ってはいるが、それがそのまま結果論を尊ぶと言う思考に繋がりはしないのだ。

「協力? 情報の共有もせず、一方的に私達を手駒として動かす様な身勝手な行動を、貴様の脳内では協力と位置付けるのか?」
「でも、私の知っている『全て』を明かしてたら、私達は何も得られなかった」
「何も得られずとも、せめて危険を回避する事だけはできたはずだ。 事後策を考える時間は、僅かだがまだ残されている」

自分は神ではない。
何の犠牲も払わずに全てを円満に解決させられる方法など、逆立ちしたって思い浮かばない。
だけど、”だからこそ”流は、桜の言動が許せなかった。
自分は神ではないが、桜もまた神ではない。
目の前に立っている小憎たらしい中学生は、全知全能を有し、現世における因果律を掌握し、全てを『善き』方向へと導けるような神などでは決して有り得ないのだ。
それなのに――

「危険を回避して、無策で口裂け女の前に出て。 じゃあ、それからあなた達はどうするつもりだったの?
 有り余る武力で何も考えずに対象を殲滅? 敵がいなくなりましたバンザイで任務終了?
 あなた達がそんなんだから、私だって偽者の口裂け女を発動させなきゃならなくなったんじゃん」

まるで、自分が全知全能であるかのように口を開く。
まるで、「お前達は無能だ」と嘲笑うかのような口を利く。
「そんなんだから」、だと?
私達がどれだけの覚悟で任務に臨んでいるかも知らないくせに、「そんなんだから」と蔑んだか?
何を背負い、何を犠牲にし、どれだけの対価の果てに私達がこの場に立っているかも識らないくせに――

「貴様如きが何を識っていると――!」
「一介の中学生を”貴様如き”と侮れるくらいの能力者なら!!」

桜が、叫んだ。
二度目の邂逅以来初めて、超然とした雰囲気をかなぐり捨てて、その語気を荒くした。
そして、たったそれだけの事で、流は二の句を継げなくなってしまっていた。

「”こっち”の世界に名立たる銀誓館の能力者なら――。 そう考えて期待してた私が、世間知らずのお馬鹿さんだったって事ですか?」

一転、泣きそうな声で流に訊ねる。
「希望は何処にも無いのか」と、縋るような瞳で食って掛かる。
誰も死なせたくない。
誰も死なせないでほしい。
あなた達なら『それ』ができると思ったのに――

「本当は偽身符なんか使いたくなかった。 誰も騙したくなんかなかった。 でも、あのまま放っておいてたら、口裂け女はあなた達に殺されてたじゃないですか」

『殺す』。
桜の口にしたその言葉は、ゴーストを相手取って使うにはあまりにも『本来の意味』が色濃く滲み出していた。
その身に生命を宿し、幸福になる権利を持ち、一個の存在として尊重されるべき相手に向かって使われるような意味合いが込められていた。
少なくとも銀誓館では、ゴーストに対して本来の意味で『殺す』等とは言ったりしない。
便宜上、もしくは慣習的な言葉のあやで『殺す』とは言ったりするものの、それはあくまで他の言葉でも代替が利く程度の意味合いでしかないのであった。
何故なら、ゴーストは既に死んでいる存在だから。
何故なら、ゴーストとは殲滅されて当然の存在だから。
世界の歪み、不均衡の象徴、破壊の権化、邪悪の結晶。
居てはならないのだと、ソレはこの世界に在ってはならないモノなのだと、神威も流もずっとそう思って『任務』をこなしてきたのだった。
なのに。

「私が『口裂け女にも死んでほしくない』って言った意味、まだ理解してないんですか?」
「……意味だと?」
「銀誓館があくまで『口裂け女を殺傷する』と言う指針の元に任務達成を目指すとしたら、私はあなた達の敵に回るつもりだって言ってるんですよ」

死んでほしくない。
死なせはしない。
守ってみせるのだ、例えこの世界の誰を敵に回したとしても。

それは、本気の眼差しだった。
冗談や脅しなどではない事が、他者の感情の機微に疎い神威ですら容易に感じ取れた。
だが、それが悲壮なまでの『覚悟』の上での発言だと云う事を感じ取っていながらも、神威にはその真意を問いただす事しかできなかった。

「お前、自分が何を言ってい――」
「判ってます」
「銀誓館の――」
「知ってます」
「銀誓館がその気に――」
「全て承知の上です」

自分が何を言っているのか判っているのか。
銀誓館の規模がどのくらい巨大な物かを知っているのか。
銀誓館がその気になれば、一介の能力者など細胞の欠片すら残さずこの地上から消し去る事すら可能なのだぞ。
神威の言おうとした事は、全て桜の『覚悟』の範疇だった。
元よりそれを把握した上での質問だっただけに、神威は続く言葉をなかなか編み出せずにいた。
そこまでの覚悟を決めている人間に、これ以上何を言えば良いのかがさっぱり判らない。
口先だけの言葉では、彼女の想いは覆らない。
だが、その想いを貫こうとすれば彼女はきっと――

「……符術師がたった一人で、一体何ができると言うのだ」
「それが『戦闘で』って言う意味なら、きっと答えは『何もできない』、ですね」
「………」
「大局的な趨勢を変える事は勿論、現場に派遣されている能力者との戦闘ですら、きっと私は何もできない。
 藤咲さんがその気になれば、私なんかはほんの数秒で再起不能にさせられる。
 オマケに世界結界の影響で私の死は『何も無かった』事として処理されて、後には何も残らない。
 何も守れず、何も残せず、意志を貫こうと抗ったと言うその事実さえも人々の記憶から抹消されて、名実共に私はこの世から消えてしまうでしょう」

それはまるで、一握の砂のように。
掌から沙羅々々(さらさら)と風葬されていく、『自分』の存在。
何の感情も見せずに桜が淡々と語る『それ』は、目の前を暗褐色に塗りたくる『絶望』の色と非常に酷似していた。
一筋の光明すら見出す事のできない絶望の荒野には、諦めを促す風しか吹いていない。
彼女の語るどの部分をどう好意的に解釈したとしても、希望の道筋など欠片も見えてこない。
だけど。

「だけど、私の命は奪われるその瞬間にこそ生まれてきた意味を宿し、簒奪者の心に消えない痕を刻み込むんです」
「……草薙、それは」
「致命傷なんかじゃなくて良い。
 眼に見える傷なんか、治癒系の能力者がいれば幾らでも消し去られてしまう。
 だから、私は心を穿つんです。
 悼まれなくて良い。
 疎まれたって構わない。
 ただ、銀誓館に通う能力者の一人が、名も知らぬゴーストを問答無用で殴り殺そうとしたその瞬間。
 ほんの少し、ほんの僅かでもいい、待針で刺した様な小さなものでもいいから、ちくりとでもその人の心が痛んだのなら――」

死んでもいい。
殺されても構わない。
吹けば飛ぶような自分の命と引き換えに、貴方がこれから対峙する全ての存在に対して小さな悼みを持ってくれるのなら――

「それだけで、私の命は意味を持つんです。
 何も残せない犬死になんか、絶対になりません。
 そして、私の死を一生引き摺って歩く重荷を背負うのは――」

そこまで言って、桜は神威の瞳をまっすぐに見詰めた。
勝気で、芯が強くて、それなのに女性特有の柔和な色まで携えた双眸で、瞬きの時間すらも惜しむかのようにじっと見詰め続けた。
誰でもいい訳じゃない。
一人の中学生の死を、一人の符術師の命を、受け止めて尚且つ潰されずに歩みを続けられるのは、誰にでもできる芸当じゃないのだ。
桜はそれを識っていた。
識っていたから尚の事、神威の目から視線を逸らさなかった。
『それ』が何よりも確かな信頼の証だったと云う事に神威が気付くのは、これからずっとずっと後の事になる。

「……自分は俺の敵ではないと、お前はさっき言ってくれたばかりではないか…」
「私だって、痛いのとか死んじゃうのは嫌ですよ」

一転。
穢れなき清冽さでにっこり笑いながら、先程までの『覚悟』とは真逆の事を言ってのける桜。
しかし、それもまた偽らざる本音である事は、生きている人間にとっては至極当たり前の共感をもって理解できる事柄だった。
覚悟は覚悟。
感情は感情。
誰だって痛いのは嫌だし、苦しいのは御免だし、死んでしまう事など論外なのだ。
だから。
ねえ。
痛いのも、苦しいのも、悲しいのも争うのも死んじゃうのも嫌だから――

「藤咲さんは、私の敵ですか?」

今度は、桜の方から質問した。
それだけを確認できれば後は全てどうでも良くなるくらいの質問を、一種の確信を持って問いかけた。
『あなたは、私の、敵ですか?』
卑怯だ、と神威は思った。
何が卑怯なのかは判らないが、とりあえず卑怯だと思う事にしておいた。
答えがたった一つしか用意されていないような問い掛けをする人間は、神威の脳内では兎にも角にも「卑怯だ」の一言で括られてしまうのであった。

「……敵では……ない」
「それは、”今までは”って事?」
「あー……いや、その、なんだ…」
「………」
「……こ、これからも、だ」

言いながら、神威はぷいっとそっぽを向いた。
しかし、それは別に桜の満面の笑みに照れ臭さを感じたからではなかった。
感じたのは、照れ臭さではなく、一種の恐怖。
右斜め四十五度の位置から注がれている幼馴染の視線が、それはもう有り得ないくらいの鋭さでもって自分を射抜いているような気がしたからだった。
猛獣と言うか、猛禽と言うか。
いずれにせよ『獲物を狙う』と言う表現がぴったり当てはまるような強烈な視線は、睨まれている側としてはすこぶる精神に良くない類のモノであった。
ダラダラと嫌な汗をかきながら、自分の置かれた理不尽な現状に対して神威は思った。
何で流は怒っているのだろう。
何で俺は目を逸らしてしまったのだろう。
あの場で俺に選択肢なんか無かったんだが、それでもやはり悪いのは俺なのだろうか、と。