同日
午後六時十七分
東横イン津田沼3F ツインルーム内にて

「で、お前は一体どうするつもりなのだ?」
「どうするつもり…とは?」
「決まっているだろう。 明日の戦闘における戦術構成を、全てあの女の言うがままに行うのか否かと訊いているのだ」
「あの女って……流、お前な――」
「そこから先は、言うな」

こんなにも余裕のない自分。
行き場のない感情をもてあますだけの醜悪な姿なんか、本当は誰にも見せたくないものなのだから。
だから、お前の声で、言葉で、視線で、態度で、『それ』を再確認なんかさせないでくれ、神威。

「……あー、いや…」
「頼むから、言わないでくれ、神威」

そこまで呟くと同時に、備え付けのベッドに浅く腰をかけたまま、俯いて口を閉ざす流。
彼女は元より表情の変化に乏しい少女なのだが、さすがにこうして顔色すら覗う事ができないとなると、神威にはもう狭い室内でやる事が残されていなかった。
デジタル式の置時計が、音もなく時を削っていく。
窓の外の電柱に停まっているカラスが、物珍しげに無言の二人をチラ見している。
二人分の吐息だけが重苦しく堆積していく室内は、まるで石造りの監獄に閉じ込められているかのような感覚を神威に与えていた。

「……すまない。 少し、頭を冷やしてくる」
「あ、ああ……」

キシッとベッドを揺らして立ち上がり、物憂げな声音のままバスルームへと向かっていく流。
その青白い横顔を見て、神威は発作的に何か声をかけようとした。
だが、とても残念な事に彼と云う人間は、こんな時にどんな言葉をかければ幼馴染が微笑んでくれるのかを、全く理解していなかった。
だから、その背中をただ見送った。
何て言えば良いのか判らなかったから、軽率を自重してその口を閉ざした。
彼の喉まで出掛かっていた本能的なただ一言こそが、悩める流の最も欲していた救いの一言だったはずなのに。
神威は、何の言葉も発する事ができなかった。

――私を敵ではないと思ってくれるのなら、明日の口裂け女との戦闘は、どうか私の計画に沿う形で展開してくれませんか?

それは、草薙桜が突然口に出した、何とも奇妙な提案だった。
仮にもゴースト殲滅機関として世界に名立たる銀誓館に所属している二人を差し置いて、作戦の指揮権を自分に移せと言う。
常識の通用する範疇で考えるならば、まずもって却下されるであろう提案。
だが、今や立派な概念形成都市となりつつあるこの街の中では、人々の脳に巣食ったその『常識』こそが真っ先に打ち砕かれるべき代物であった。
少なくとも、今まで数多くのゴーストを屠ってきた神威と流の常道【セオリー】では、口裂け女に通用しなかった。
それどころか、草薙桜の言葉を全て真実として捉えるならば、銀誓館組の思考や行動その物が口裂け女の最上の餌となっていたのだった。
そして、今現在。
口裂け女に対抗する最も有効な手段と云うモノを、銀誓館組は持ち合わせていない。

無論、桜の指摘によって認識を改めた今であれば、根本的な彼我の戦力差による単純な『殺害』は可能だろう。
だが、彼らがその選択をする事は、同時に『草薙桜を敵に回す』と云う決断をする事と同義であった。

草薙桜は、はっきり言ってとても弱い。
能力者としての戦闘能力だけを見れば、圧倒的に神威や流の方が上である。
政治的な権謀術数を用いて作戦行動を阻害するタイプでもなければ、徒党を組んで数の力を頼む訳でもない。
だが、『能力者』としての特質が銀誓館組に遥かに劣っているからこそ、彼女はその分だけ、圧倒的に『ただの女の娘』でもあるのだった。
能力者として、彼女を殺す事は簡単だ。
だが一人の人間としては、彼女を殺す事は絶対にできそうにない。
そして彼女は、自分の決めた信念に殉じる事に、恐らく砂粒ほどの躊躇いすら見せないのだろう。
神威にはそれが、とてつもなく恐ろしく感じられた。

――何も難しい事は要求しません。 私が貴方達に望むのは、それぞれたった一つだけの約束事です

断ると云う選択肢が、全く見えてこない。
断った先のリスクを考えると、とてもじゃないが首を横に振る事ができない。
桜の言葉はあくまで丁寧な『お願い』の体を保っていたが、断る術を知らない神威にとって、それは事実上の脅迫と何ら変わりがなかった。

――まず藤咲さんには、【王者の風】の常時全力展開をお願いしたいです

口裂け女は、『他者の想念』を喰らう化物である。
そしてこの街は、口裂け女の存在を容認する集団総意で満たされている。
既に起こってしまった『口裂け事件』の余波は、人々の意識の奥底に『恐怖』と同義で深く根付いてしまっている。
薄暗い路地の先に。
誰も居なくなった公園の隅に。
遠くにポツリと存在している街灯の下に、誰かが『居るかもしれない』と一瞬でも恐怖心を覚えてしまえば。
彼女は、其処に存在する。
誰かが存在を容認する限り、彼女は”いつでも”、そして”どこにでも”存在する。
もし仮に、本当に最低最悪の事態を想定するのならば、この街の中では口裂け女を消滅させる手段は存在しないと云う事になる。
少なくとも周囲に多数の人間の想念が渦巻いている状況下では、存在の危機に追い込まれた口裂け女にどんな異常事態が起こるか判った物ではない。
桜があくまで超然とした態度のまま提示して見せたのは、そんな途轍もなく絶望的な未来予測だった。
だが。

――藤咲さんの”風”になら、それができる。 半径数十メートル以内から、一般人の想念どころか存在その物を払拭する事ができる

【王者の風】は、一般人の精神を虚脱状態にまで追い込める特殊なアビリティである。
効力範囲こそ『有視界下』と限定されるものの、その恩恵は他のジョブの追随を許さないほどの利便性を誇る。
そしてそれは、今回のケースでも何ら変わる事無く評価されるものであった。
一般人に【王者の風】を当てれば、それだけでいい。
その先の命令すら、下す必要はない。
周囲に存在する人間が『何も考えられない』状態にさえ陥ってくれれば、こちらの狙いは完遂されるのだから。

――吹き飛ばしてしまってください。 何もかも

人を。
他者の想念を。
どうしようもない程この街に巣喰ってしまった、形を持たない都市伝説【フォークロア】を。
悪魔の飽食を繰り返し続けた口裂け女が、飢餓に喘いで朽ち果てるまで。
何度でも、何度でも。

そこまでを言い終えて、桜は神威の顔をじっと見詰めた。
それは、「貴方が承諾しなければこの話はここで終わり」と云う事を、言外に語る仕草だった。
当然、流としては面白くない。
自分に話が振られない事も勿論そうだが、「まずは篭絡しやすい神威から切り崩そう」と言う魂胆を隠そうともしない桜の態度が、ハッキリ言って物凄く気に喰わない。
何より、桜の要求が至極真っ当なモノである事が、逆に流にとっては不愉快極まりない要因となっていた。
これでは首を縦に振らざるを得ない。
代替案も無いままに感情のみで草薙の提言に反対する事は、他の誰でもない『水里流』自身が許さない。
しかしだからと言って、信頼なんて言葉とは百万光年ほど離れている相手の言う事を鵜呑みにし続ける事なんて、流には到底できそうにもなかった。

――先を続けろ。 ”私達”が返事をするとすれば、それからの事だ

流のそれは、神威が今まさに「承知した」と口にする寸前での発言だった。
腕を組み、壁にもたれかかり、口元をきつく結んだまま、睨むと形容しても過言ではない鋭い眼差しで桜を見据える流。
発言の機会を奪われて口を小さく開いたままポカンとしている神威が、対照的にとても間抜けに見えてしまう構図であった。

私達。
任務上の『ツーマンセル』と言う意味を遙かに超えて用いられたその言葉に、桜は軽い溜息を吐いた。
酷く、嘲りに満ちた行為に見えた。
瞬間的に激昂しそうになった所を、鉄の精神力で何とか押さえ込む流。
ギリギリと握り締められた拳が、傍目に見ても痛いくらい白く成り果てていた。

――何か言いたい事があるのなら、ハッキリ言ったらどうだ?
――口に出したくもない事なら、腐るほどあるんだけど

真正面から流の目を見る事もせず、斜め下に吐き捨てるように呟く。
まるで独り言の様な仕草の割に、声だけはハッキリと聞き取れる音量で発せられている。
流に対して向けられた桜の”それ”は、もはや神威にすら判るくらい、明確な挑発の意味合いを付加された言動であった。

「……どうにかならん物か」

ファーストフード店で屈託の無い笑顔を見せてくれた草薙。
治癒符を発動させながら泣きそうな声で「ごめんね」と謝っていた草薙。
「誰も死なせたくないんだ」と、熱した鉄の様な彩-イロ-を濡羽の双眸に浮かべながら言い切った草薙。
表面に貼り付けただけの薄っぺらい表情や感情が横行している昨今の街並みの中、彼女の真っ直ぐな情動だけが、どこまでも鮮烈に神威の記憶に刻み込まれていた。
それは、側に居て享受する側の身としては、とても心地の良いモノであった。
まだ中学生と言う若い身空のなせる業なのだろうか、兎角に草薙桜の感情と云うモノは、この世の全てを肯定的に捉えている節がある。
『どうにもならない事なんて此の世にはないんだ』と、無条件に『素晴らしきこの世界』を信じているような所さえ窺(うかが)える。
微笑ましくはあるが、危うい脆さも内包しているなと、神威は思った。
一つの信念を胸に抱くことは、逆説的に他の選択肢を否定する事となる。
草薙桜の場合、それが『水里流に対する反発』と云う形で顕著に現れている。
彼女の中に『優れた対抗手段』や『譲れない一線』と云った強固な意志が存在していれば存在しているほど、それに異を唱える第三者は疎ましく思われているに違いなかった。

そしてそれは、水里流も同じ事であった。