同日
同時刻
同座標 バスルーム内

――覚悟は、できていますか?

鼓膜ではなく、心を強く揺さぶられた。
即答する事が、どうしてもできなかった。
もう何度、その声を脳内で反芻しただろう。
冷たいままのシャワーを全身に浴びながら、流は自分の思考に冷静さが戻ってくるのを、ただひたすらに待ち続けていた。

――私が今から話す内容を、信じる覚悟はありますか?

桜の言葉には、温もりの介在する余地が存在していなかった。
それはただただ純粋に、言葉を音として声帯から発しているだけの行為に過ぎなかった。
まるで機械と対峙しているかの様な錯覚に見舞われた流は、目の前の少女の瞳に人としての彩-イロ-を見付けようとして、そこで愕然とした。
桜の瞳には、何の感情も浮かんではいなかった。
嫌悪や侮蔑に相当する彩すらも、流には向けられていなかった。
何処までも深い、粘質の闇。
怒りや悲しみと云う次元を遙かに通り過ぎた、かつて在った感情の残滓。
そしてその空虚な瞳に、流は確かに見覚えがあった。

自分達が、草薙桜を【口裂け女】だと疑っていた事を。
そして、その思い込みこそが偽身符を変貌させたのだと言う事実を。
何の感情も見せずに淡々と話していた。
『裏切られた』と言う失意の表情すら見せなかった。
桜の瞳はあの瞬間にも突き付けられた、酷く虚ろな代物だった。

他の誰でもない。
まだ中学生の女の子にこんな眼をさせているのは、他でもない自分自身だ。
流はその事実に、酷く愕然とした。

――私があなたにお願いしたいのは、雑霊弾の零距離発動です

だから、桜の口からその言葉が発せられた瞬間。
軽い自責の念に囚われていた流には、『彼女が何を喋っているのか』が理解できなかった。
何を喋っているのかが把握できてからも暫くの間は、それが『何を意味しているのか』が理解できなかった。

【雑霊弾】は、遠距離から敵を射抜くための技だ。
水里流は、遠距離射撃と回復術法による徹底した後方支援型の術者だ。
そして何よりも、『対口裂け女』と言う限定的な状況下において、【雑霊弾】は最も使用してはいけない類のスキルであるはずだった。
何故なら雑霊弾は、口裂け女を暴走させる。
偽身符で作られたフェイクですらあの有様だったのだ、本物が暴走してしまった先の事など、文字通りの意味で『想像もできない』。
まさか『想像すらできない未来』を故意に呼び寄せる事で事態の打開を図ろうとしている訳ではないだろうと思うものの、流はそれに代替する桜の思惑を推測する事ができなかった。

――雑霊弾は、口裂け女を暴走させるのではなかったのか
――直撃させれば、ね

理解不能が、また一つ積み重なった。
草薙桜は『零距離で雑霊弾を発動させろ』と言っておきながら、どうやらソレを直撃させようとはしていないらしかった。
『零距離』とは『必中』のために必要としているのではなく、『発動』と云う言葉は『直撃』と云う意味ではないらしい。
だが、今までの戦闘において『雑霊弾の発動』と『敵性固体への命中』と云う二つの事象を切り離して考えた事のない流にとって、桜の言葉はまさしく理解不能であった。

――零距離で雑霊弾を発動させて、しかしソレを直撃させてはならない? ならば私は、何に向けて発動した雑霊弾を放てば良いと言うのだ

『向けられる先の無い能力の発動』。
それは、振り上げた拳の行き先を見失っている有様にもよく似ている。
自らの置かれた現状との奇妙な符合も相まってか、流はつい強い口調になって桜を詰問する事を自制する事ができなかった。
だが。

桜は、流の向けた感情を、ほぼ完璧なまでに『無かった事』にした。
柳の枝を風が揺らす、そんな比喩ですら大袈裟に過ぎると思われるほど、桜の表情には一切何の変化も無かった。
そして彼女は、何も言わないまま、その細い人差し指を一本ピンと立て。
それをそのまま天に向けてから、ゆっくりと桜色の唇を開いた。

――空に

それは、不思議と良く透る声だった。
身構える隙もなく心の中にまで染み入ってきたその声に釣られて、流はほぼ無意識に桜の指差した空に視線と注意とを奪われた。
排ガスに濁った灰色の空。
暮れ往く夕日に照らされた千切れ雲が、空の『低さ』に拍車をかける。
まるで、今にも落ちてきそうな空の下。
流は、学園の屋上から見上げた空がどれだけの幸福に恵まれた末の青い色であったのかを、今更ながらに痛感していた。

――雑霊弾は、残留思念になる前の雑霊を呼び集め、気の塊として撃ち出す。 間違いはないですよね

桜の声に、流の意識が急速に地上へと引き戻される。
何気ない顔でそちらの方に視線を遣れば、驚くほど真っ直ぐな眼光と鉢合わせになる。
まさか話しの最中に呆けていたとは言えない流は、桜の問いに軽く頷くだけにして、無言で先を促す事にした。
そして。

――嘗(かつ)て在った生命の残滓より産霊(むすひ/び)を紐解き、編み直し、自らに都合の良いように使役する。 恐らくは今この世界に存在する中で、最も神の領域に近い能力

桜の口から発せられる言葉の一つ一つに、流は驚愕以外の感情を抱く事ができなかった。
何故なら実家が高名な霊媒師の家系だったとは言え、彼女が受け継いだのは類稀なる能力者としての資質だけだからである。
系統だった思想や宗教的な教育などは、主に彼女の意思によって脳内から叩き出されている。
学園で充実した毎日を過ごしている今となっては、実家が仏教系だったか神道系だったかすら定かではない。
流石に知識としての様々な単語の意味までを追い出す事はできなかったが、今はそれがとてつもない恩恵を彼女に齎していた。

――産霊、ときたか

恐らく神威は理解できていないだろう。
自分自身が霊媒師である私ですら、実家で過ごした十数年が無ければ耳にする事もなかった単語だろう。
日本神道の根幹に位置する霊構造的概念を表す言葉が、まさかこんな中学生の口から飛び出してこようとは思いも拠らなかった。
産霊とは、読んで字の如く『産み成す御霊(みたま)』を指す。
御霊とは即ち『神』であり、全ては神より産まれいずると説くのが日本神道である。
天地(あめつち)開け、神は神を産み。
神は国を産み、国は神で満ちた。
八百万とは『数多』の比喩に過ぎない。
全ての物に神は内在している。
だが、ここで言う『神』とは絶対の善性を誇るモノでもなければ不可思議な力を有しているモノの事でもない。
神とは霊(タマ)であり、霊とは魂(タマ)である。
そして、この魂と霊とを結んで神と成す構造をこそ『産霊』と呼ぶのである。

――口裂け女が背負わされている上位概念を、あなたが直に引き剥がし、空へと放つ。 虚空へと放逐された寄る辺無き雑霊は、藤咲さんの『風』に吹き飛ばしてもらう。 後には何も残らない。 ただ一つ、運悪く依代となっていた『彼女』の肉体を除いては。

桜の語る計画に、特に綻びは見られない。
と云うよりもむしろ、彼女の言う所である『風説憑依型ゴースト』を根本から滅する手段は、ほぼそれしか無いようにすら思われる。
だが、桜の提唱する理論が完璧に近ければ近いほど、流はそこにある種の胡散臭さを感じ取らずにはいられなかった。
何しろ話が出来すぎている。
役者が、あまりに整いすぎている。
『それ』しか方法が無いと思われる場所に、『それ』を行いうる二人が偶然にも居合わせていて、ご丁寧にナビゲート役として『それ』に説得力を持たせるための能力をもった女までもが用意されている。
こんなお膳立てされたような状況で素直に『ハイそうですか』と言えるほど、流は無垢でもなければ無知でもなかった。
何より、この不快感には嫌と言うほど覚えがある。
忘れられようはずもない、時間にすればつい先程の事だ。
僅かな想像すらをも貪欲に食い散らかし、全てを現実に繋げていく驚異の化け物。
都合の良すぎる現状は、まるで口裂け女に誘導されているかのようだ。
一から十まで、何もかも――

――戦闘の矢面には、私が立ちます。 極僅かの時間になるとは思うけど、隙も私が作ります。 具体的な手段に関しては、何も言えませんけど。

言えば、それは即ち共有認識となる。
そして、共有するのはここにいる三人だけではない。
最も情報を与えたくない相手が、最も情報を有利に扱う術を持っている。
流もそれが判っているだけに、桜の提案に反駁する余地を失っていた。
だが、その分を差し置いてもなお、桜の言い分には無茶が山積しすぎていた。

草薙桜は、符術師である。
符術師とは、ものすごく簡単に言ってしまえば『符を用いるスキルしか持っていない完全後衛職』である。
その主なスキルとは回復支援と状態異常付与であり、直接的なダメージソースとしては『呪殺符』と言う符術が唯一あるのみ。
そして『呪殺符』と言うスキルですら、『呪(しゅ)を刻んだ禍々しき符で相手の精神と肉体を同時に打ち据える』と云う、非常にアレな物だった。
「ある意味では」なんて曖昧なフォローを入れる隙間もないくらい、『対口裂け女』としては最低最悪レベルに相性の悪いスキル。
雑霊ですら喰らい尽くす口裂け女にとって、負の感情の塊とでも云うべき呪殺符は、一体どれだけ甘美な『ごちそう』になるのか。
想像しただけで背筋を怖気が走ったので、流はそれ以上を考えることをやめた。
おそらく、正解だった。

――無茶苦茶だ。 まるで話にならない。

生粋の前衛能力者である神威ですら、数多の傷を負いながらどうにか踏み留まっていられる領域の敵なのだ。
後衛の、それも能力者として遥かに戦闘力の劣る草薙が、徒手空拳で太刀打ちできるはずがない。
仮に相打ち覚悟の術式発動を切り札にしているとしても、その札自体が口裂け女を活性化させる呪殺符では本末転倒に過ぎる。
結局、現状で自分が知っているすべての要素を加味したとしても、桜一人ではどうにもならないと云うのが流の出した結論だった。

――うん、私もそう思う。

だが、それでも桜は動じなかった。
『そんな事は最初から判っていました』と言わんばかりの圧倒的な普通さで、桜は流の否定をあっけらかんと受け流した。

――でも、だからこそ私は、さっきあなたに尋ねたんです。

信頼関係なんて欠片も構築していない、まったくもって信用できない私の言葉を。
戦力としてもこれっぽっちも当てにできない、完全無欠に非力な私の能力(ちから)を。
それでも、何かを担保に信じなくてはならないのだとしたら――

――『覚悟』は、できていますか?

信じるべきを信じるのは、覚悟ではない。
妥当な提案を妥当に受け入れるのであれば、覚悟なんてモノは必要ない。
何故ならば。
『覚悟』とは本来、受け入れがたい事態や真実を血を吐くような思いで胸に抱え、その上で暗闇の荒野に進むべき未来(みち)を切り開く行為なのだから。
だから、疑ってくれて構わない。
信頼なんてしてくれなくて結構。
ただし、その感情を丸ごと抱えたままで、私の計画に付き添う『覚悟』をしてくださいと。
桜は、濡羽の瞳で流に訴えた。

――……お前は

どうして――。
ふと、口から零れ落ちた言葉のその先を。
流は、ついに最後まで口にする事はできなかった。
まるで自らを切り売りするかのような桜の態度に、感じたのは一瞬の憐憫か、それともただの率直な疑問か。
ほんの僅かに逡巡しただけで春の雪のように消え去ってしまったその問いかけは、もう二度と形を確かにする事はなかった。

――待ってるよ。 明日もまた、今日と同じ、この場所で。

一方的と云うには余りに親しげな、桜色の響きに彩られた言葉が空気を揺らす。
だがそれは、桜が言うにはあまりにも、そして銀誓館組が言われるにはあまりにも場違いな『約束』だった。

『共に戦う意志有らば、明日の午後四時、件の路地裏にて再会しよう』

昨日、流はそう言って桜と別れた。
それは確かに、『約束』と呼んで差し支えのない物のはずだった。
だが、実際には――
我等は彼女を裏切った。
彼女は我等を謀った。
何とも何とも見苦しい、疑心と権謀の残骸だけが両者の間に澱の様に沈殿した。
そう、昨日の『約束』の結末なんて、そんな惨憺たる物だったはずなのに。

それでも、桜はもう一度『約束』をしようとした。
今日と同じこの場所で、もう一度ここから始めようと口にした。
口裂け女だと疑われて。
『草薙桜』が化物に変容していく様を見せつけられて。
自分がそんな風に見られていたのだと、もう本当に、泣きたくなるくらい痛いほどに見せつけられて。
それでもまだ、明日に向けて新たなる一歩を踏み出す意志を持ち続けるのであれば――

――お前の覚悟は、出来ているんだな。

それが、草薙桜の覚悟なのだろうと流は思った。
たとえ明日もまた、今日と同じように裏切られる事があるとしても。
自分の提案なんか一つも受け入れてもらえず、全てが徒労に終わるとしても。

――わっかんない。 もしすっぽかされたりしたら、泣いちゃうかも。

軽口を叩ける程度には、心の準備は出来ているらしい。
それを確認した所で、流はこれ以上の会話を打ち切る決意をした。
主導権は、あくまでこちらが握らせてもらう。
たとえ明日の戦術が、彼女の指示通りの物になるとしても、だ。
即答の必要はない。
熟考の余地は充分にある。
反故にするかもしれない『約束』なら、しない方がお互いのためになるのだ。

だから。

「考えておく」とだけ曖昧な返事をする自分が、何だかとても卑怯者のような気がした。
困ったような顔で頷く桜の視線にも、急に踵を返した自分に慌てて追いすがる神威の視線にも耐えられそうになくて、流はほぼ駆け足のようにしてその場を立ち去った。

それが今から二時間ほど前に起こった事柄の全てである。

「……私は、どうしたいんだろうな」

零れ落ちたその呟きは、誰の鼓膜も揺らすことはなかった。