自分の魅力に気づいていない人ほど厄介なものは無い



天野美汐は常々そう思い続けていた。
それは今この時、例えば桜花咲く四月の授業中でも、である。
何故か。
その質問の究極たる答えは、詰る所その点―――自分の魅力に気付いていないと言う点―――に於いては誰にも引けを取らない先輩が居るからであった。
下級生、同級生、上級生問わず知り合いが多く、その殆どが女性であり、加えて言うなれば皆美しい人ばかり。
周囲の嫉妬と羨望を一身に集めているその人は、それでもなお自分の魅力に気づいていない。
それどころか否定までし始める。
「そんな馬鹿な」、と。
ああ、始末が悪い。
そんなに疑うのであれば一度自分の一挙手一投足にどれだけの人間が注目しているかを調べてみれば良いものを。
いつでも彼は「面倒くさい」の一言の下に、その提案を切り捨てる。
それもばっさりと。
なお性質が悪い。
どうにかして彼に、自分が他人に与える影響というものを教えてやる事は出来ないのだろうか。
疑問ではなく反語になる辺りに、天野美汐の苦悩と絶望が見受けられた。

そう、今一番彼の被害にあっているのは彼女なのだ。
理由?
そんなものは知らない。
彼の行動に何か規則性、行動理念が在るのならこちらが教えて欲しいほどだ。
神出鬼没、電光石火、奇妙奇天烈、複雑怪奇。
とにかく相沢祐一を形容する単語とは概ね良い意味で捉えられるものが少なかった。
それも本人の所為なのでいたしかたの無い事だが。
問題はその神出鬼没で電光石火で奇妙奇天烈で複雑怪奇な先輩が自分にちょっかいをかける事なのだ。
別に彼の事は嫌いでは無いし、むしろ自分の中にある気持ちは『好き』の部類に属する。

でも。

だからこそ。

彼の、どういう風にでも取れる悪戯の数々は自分を悩ませるのだった。
考えるだけで少し頭痛がする。
こめかみに人差し指を当てながら考え事に耽っている美汐は、クラスの男子から羨望の眼差しで見つめられている事に気づかない。
人の事を鈍感だ朴念仁だと言う割には、彼女もまた、自分の魅力と言うものにいまいち気づいていないのだった。































                         
―――――― 天野美汐の快適な憂鬱 ――――――





























お弁当を忘れた。

美汐は自分の鞄の中を覗いたままきっちり三十秒間だけ硬直した。
そう言えば今朝はとても忙しかったのだ。
当番制であるゴミ捨ては今週自分の番だったし、朝ご飯のおかずの納豆は自分が嫌いなものだし、何より今日は寝坊した。
誰が悪いかと訊かれたならば、涙ながらに私が悪うございましたとしか言いようが無い事態。
兎にも角にも鞄の中には愛用のパンダさんの弁当箱は在中していなかった。

「……どうしましょう」

呟いてみた。
そしてちょっとだけ祈ってみた。
神様に。
仏教徒である自分が困ったときだけ神頼みをするというのは、ひどく意味の無い事に思えたが、それはそれ。
神様ともあろう者が多少の信仰の違いくらいで迷える子羊を見捨てたもう訳がない。
きっと救いはあるはずなのだ。
お願い神様。
どうかお弁当箱が自分の意思で持って家から私の元へと飛んできてくれますように。

ぐー

おなかが鳴った。
顔が熱を持っていくのが判る。
神様の馬鹿。
そう、そう言えばそうだった。
今までの人生で一度だって神頼みが通じたためしなんか無い。
決まって何も起こらないで終わってしまうのだ。
そもそも神様なんて居ないのではないか。
人間が何から出来ているかと訊かれたら水とアミノ酸と有機化合物の塊である。
宇宙が何で出来ているのかと聞かれたら構成元素の八割方は水素である。
神様の手を借りずとも世界はいつでもぐるぐる回っているではないか。
自分は何を期待していたのだろうか。
神なんか存在しない。
神なんか信じない。
こんなにも困っている一人の高校生を救ってくれる事の無い神様なんて、たとえ居たとしても何の存在価値も――――

「天野さん、お弁当届けに来たって言う人が来てますよ」

アーメン。






* * *







「よう、天野」
「あ―――

そのまま「あ」の形のまま開いた口がふさがらなかった。
何で相沢さんが?
たしかクラスの子は「お弁当を届けに来た人が居る」と言っていたはず。
騙した?
ふとそんな考えが鎌首を擡げて来るが、そんな事をしても彼女には何のメリットも無い。
じゃあ何故に彼、相沢祐一が此処に居るのだろうか。

「えっと、弁当、届けに来たんだけど?」
「なんで相沢さんが?」

そう、言葉通り彼は美汐のお弁当箱を届けに来たのだ。
嘘は何一つ言っていない。
多分これからつくのだろうが、今はまだついていない。
従って美汐が「何で相沢さんが私のお弁当を?」と言う質問をするのも無理は無い事だった。
普通ならばそう質問するのが当たり前なのだ。
だがしかし、ここまできて先の展開をよめなかったのは完全な美汐のミスだった。
事実、目の前にいる祐一の口元は「その台詞を待ってましたと」言わんばかりに歪んだ笑みを見せているではないか。

ぞくり。

嫌な予感。
大抵の場合嫌な予感というのは当たって欲しくも無いのに良く当たるものなのである。

「はっはっは、何言ってるんだみっしー。 一緒の家に住んでるんだから当然の事だろう」

嘘をつけ。
いや、つくな。
必要以上に大きな声で告げられたその一言は瞬く間にクラス中の人間の耳に入った。
そして記憶された。
騒ぐ。
叫ぶ。
教室中がお祭り騒ぎ。
―――今この場におけるテンションに比べたら、リオのカーニバルなんて些細なものに過ぎないだろう
後に他クラスの生徒がそう語った。

「同棲よ同棲」「まぁこの年で?」「既に一緒の家にですって」「籍は入っていないのか?」「ちくしょう俺の天野さんを」
取りあえず最後の台詞は聞き捨てならないが、それを否定すべき当の本人はいまだに固まったままであった。
もちろん祐一の台詞の直後から。

みっしーと呼ばれた、いや違う。 お弁当が届いて嬉しいな、いやそれも違う、一緒に、一緒に住んでいる、誰が、相沢さんが、誰と、私と。

私と一緒に住んでいる相沢さんが私が朝忘れたお弁当を届けてくれた何だ普通の事じゃないか

って!?

「誰が誰と一緒に住んでるんですかっ」

その質問は浅はかだった。
その質問『も』浅はかだった。
少なくとも美汐レベルの思考の持ち主ならば、その質問が祐一にとって正に待ち望んでいたものだとすぐに判っただろうに。
混乱はその名のとおり正常な思考回路を乱し、他の思考と混ぜてしまう。
もう一度言おう、その質問は浅はかだった。

「はっ、しまったっ!」

祐一は大げさなまでに口に手をやり「しまった」の表情を造る。
そして周りを見回し、美汐に向かって一言。
耳打ちのような形を取っておきながら、それでもクラス全体にしっかりと聞こえるような声で

「みんなには内緒だったんだよな」

違う違う違う違う違う違う違う違うっっっっっ!!!!!!
誤解です誤解っ!
一年生の教室は二階だし海に居るのはゴカイだしおじいちゃんがたまに行くのも碁会だけれどもとにかく誤解なんですっ。

最早何を言っているのかすら判らない。
顔を真っ赤にして普段の落ち着いた―――本人に言わせれば物腰の上品な―――態度からは予想もつかないような身振り手振りを披露する。
滅多に見られない天野美汐の錯乱姿。
可愛い女の娘がする分にはやはりどんな仕草でも可愛く見え、更にそれが普段見られない姿と相成っては見逃す訳にはいかない。
クラス中の男子生徒の視線は美汐にくぎ付けとなり、それが更に美汐の錯乱振りに輪をかけるのだった。
悪循環。
正にその言葉がしっくりくる、そんな風景だったとか。






* * *






ひどい目にあった。
あんなに取り乱した姿を皆に見られたなんて……
一人落ち込む美汐。
手の中にあるお気に入りのパンダさんお弁当箱も何処か所在無さげだ。
でもおなかはすく。
のそのそとした動作でお弁当箱の包みを解く。
そうだ、今日は確か大好物のだし巻き卵が入っていたはずだ。
朝、テーブルの上に鎮座していた姿を思い出して幾分か機嫌が直る。

過ぎたことは忘れてしまおう。
人は忘れる事によって覚えていける生き物なのだ。
うん、きっとそうだ。
今はとにかく大好きなだし巻き卵を―――――――


なかった。


開け放たれた教室の窓から心地よい春風が吹き、軽くウエーブのかかった美汐の髪を揺らす。
風に乗った桜の花びらが一枚、ふわりと頬を掠める。

空っぽだった。
お弁当箱は空っぽだった。
帝都が破壊されたかのようなショックを受ける。
こんな非道い仕打ちを受けたのは生まれて初めてだ。
―――カサ
春風に吹かれてお弁当箱の中に入っていた一枚の紙が揺れた。
ショックのあまり気が付かなかった。
そっと手にとって裏返してみる。
ハートマークがついていた。
頭痛がする。
出切る事ならば開けたくない。
でもこの紙を開けたらひょっとしてだし巻き卵の行方が掴めるかもしれない。

空腹はかくも人の思考回路を破綻させるものなのだろうか。
それとも、罠と判っていながらも引くことの出来ない勇敢な戦士の魂でも乗り移ったのだろうか。
美汐はゆっくりとハートのシールを剥がし、中の文章を黙読する。



前略 ――― 

お元気ですか。

ところで私こと相沢祐一はこの度ふと疑問に思った事がありましてこうやって筆を取った訳なのですが。
『卵』と『玉子』の表記の違いは一体何所から来るものなのでしょうか。
確か某牛丼チェーン店では『玉子』の表記で販売されていたはずです。
ですが『ゆで卵』や『卵焼き』などのように『卵』の文字が用いられることも屡(しばしば)。
そう言えば『玉子』って『王子』に似ていると思いませんか?

『ゆでたまご』、そして『王子』。
この二つから連想される言葉としては一番『キ○肉マン』が妥当でしょう。
牛丼一つで八十円だったら良いなと思った今日は金曜日ではなくて火曜日だった訳で。
斯様な事を考え続けた結果、どうしようもなくおなかがすいてしまいましたので云々。
卵焼き、もう少し甘味が強いほうが好きですので、そこら辺は次回に期待します―――早々

追伸 ―――

マンボウのタマゴが全部大人になったら大変ですね。
三億匹のマンボウが海にごった返す訳で、これは姉さん、事件です。



一度通して読み、目を閉じて深呼吸し、もう一度読み返し、天野美汐はその手紙を破り捨てた。





風に舞う手紙の切れ端。
なかなか風情溢れる景観に仕上がっていた。

―――諦めよう。

だし巻き卵なら家に帰ってからでも作れる。
その方が出来たてで美味しいだろう。
うん、そうだ、諦めよう。
ダイエットだと思えば良い。
一食ぐらい抜いたって人は死なないものだ。
それよりも、この件を引きずって今日の残りの時間を不機嫌に過ごすのはその方がもったいない。
きっと相沢さんだって悪気は無かったはずだ。
誰だってお腹がすいている時には少々の事に目を瞑ってしまいがちになるものだ。
うん、きっとそうだ。
悪気は無かったはずなのだ。



ピンポンパンポーン

『あー、あー、マイクテス、マイクテス。 アメンボ赤いなシャア専用』


悪気は―――――――――


『二年C組出席番号22番、天野美汐。 愛しのダーリンが屋上で寂しがってるから膝枕の準備をして至急、いやさ大至急Come‘onっ!』



あの馬鹿先輩はっ!!

思うが早いか、美汐は屋上に向けて一目散に走り出した。
その顔は羞恥のために真っ赤で、やはり赤い奴は速いのか等とクラス内で話題になっていたとかいないとか。





* * *





『生徒立ち入り禁止』

看板を蹴り飛ばして屋上へと続く鉄製のドアにケンカキックを入れた。
何も悪い事をしていないはずの両物体は、物悲しく金属音を立ててある物は吹っ飛び、ある物は形状を多少変形させられた。
八つ当たりには後六つ足りない。
ならば後の六つを引き受ける、もといぶつけられるのは祐一本人になる。
もっともそれは八つ当たりなどではなくれっきとした報復行為なのだが。



風が吹いていた。
教室で感じたよりも強く、暖かく。
眩しいほどの陽光と、むせ返るような花の香り。
そこには春を感じさせる全てがあった。
そう、然程広くない屋上の真中に立って長い前髪を風に靡かせながら儚げな表情を見せている先輩の姿もまた、春。
一瞬見とれてしまっていた美汐。
だがすぐに自分が何故此処に居るかを思い出し、憤然とした態度で祐一に向かっていった。

「相沢さん」
「よう、みっしー」
「私の名前は天野美汐です」

氷点下の声が麗らかな屋上に響いた。

「なんだ、つれないな」
「ええ、おばさんくさいですから」
「ひょっとして……怒ってるか?」
「ひょっとしなくても」

実の所、そこまで態度を硬化させるほど怒っている訳でもなかった。
元々がおとなしい性格だからなのか、それとも慈愛の精神に満ち溢れている所為か。
美汐はあまり怒りという感情を長続きさせる事が出来ない性格なのだった。
怒りを身に窶す事は精神衛生上良くないやら、そもそも怒り続けているという事は自分にとってもそれはそれは不愉快な訳で。
そんな事で更に不機嫌になる位ならばいっそきれいさっぱりと水に流してしまえば良い。
常々そう思って生きている彼女は、やはり高校生にしてはおばさんくさいのである。

だが、そんな美汐だっていつまでもこの馬鹿先輩にいじられてばかりでは困ると思ったのだろう。
少し意固地な様にも思えたが、それでも厳しい態度と氷点下の声は保ったままだった。

「……そっか」

不意に祐一の声が小さくなる。
目を伏せ、俯いて地面を見つめる。
長い前髪と睫に彩られた瞳からは確かに悲しみと寂しさの色が見て取れた。
瞬間、美汐は罪悪感に囚われた。

そんな。
そんなに悲しそうにしなくても……

「たださ、こうでもしないと俺と天野の接点なんて何所にも無いから……でも、迷惑、だったよな…」
「あの、えと……別に迷惑では」

予想以上に悲しげな声を上げる祐一。
圧倒的なまでに厚顔無恥で自由奔放な『あの』祐一がここまで深刻な表情を見せている事自体驚愕に値すると言うのに。
当然のように美汐はうろたえる。
先ほどよりも強い罪悪感に苛まれながら。

「判ってる。 天野は優しいから「迷惑か?」って訊かれたら「いいえ」ってしか答えられないんだよな」
「ちがっ―――
「俺は馬鹿だからこんな近づき方しか出来なかったんだ……でもそれがお前を困らせているならもう二度と……」
「ま、待ってくださ―――
「ごめん、本当に。 『じゃあな』、天野……」

最後の台詞は涙声だった。
いつもより小さく見える先輩。
すれ違いざまに聞こえた、もう一度告げられた、小さな声で、ごめん。


走りよって抱きしめた。
小さく見えた、だけど今はとても大きな背中を。
ぎゅっと、ぎゅっと抱きしめた。

「同情なら要らない」

まだ涙声のまま、振り返りもしないで祐一は言う。

「大好きです」

まったく意に介さずに美汐が言う。
照れも無く、戸惑いも無く、強固な意志を持ってそう言った。

「嘘だ」
「嘘じゃありません」
「天野は俺の事なんて嫌いなはずだ」
「何でそう思いますか?」
「いつも俺と会うと目を逸らす」
「好きな人と真正面から見詰め合えるほど私は色恋沙汰に馴れていません」
「話し掛けるのだっていつも俺からだ」
「私はあまり多弁な方じゃないのでしょうがないです」
「さっきだって本当は迷惑に思って、俺に怒りながら屋上に来たはずだ」
「本当に嫌いな相手ならそもそも呼び出しに応じたりしません」
「じゃあ……もう一回言ってくれ」
「何てですか?」
「その……あの……」

珍しく口篭もる祐一を美汐は可愛いと思った。
そしてその願いを叶えてあげるためにもう一度はっきりと言った。

「大好きです、相沢さん」

―――カチッ





変な音がした。





美汐が抱きついている学生服の上着のポケット辺りから。
不審に思った美汐は一先ず祐一から離れてその表情を伺った。

笑っていた。
それも極上の笑顔だった。

あれ?
確かさっきまでは涙声のはずで……

「これ、何だと思う?」

そう言って祐一が取り出したのは誰がどう見ても目覚まし時計だった。
知らないうちににゲームギアがモデルチェンジをしたとかじゃなければ。

「……時計、ですよね」
「半分正解」

そう言ってにやりと笑う。

あ。

また嫌な予感。
大抵の場合嫌な予感というのは当たって欲しくも無いのに良く当たるものなのであって――――――

「これはなんと、録再生ができる素適な目覚し時計なのだ」
「録……再、せ、い?」
「おう、ここをこうやってこうするとだな―――







『大好きです、相沢さん 大好きです、相沢さん 大好きです、相沢さん 大好き――――――






春麗らかな屋上に、二年C組出席番号22番の女の娘の羞恥の悲鳴がこだましたとか。






* * *






あの録再生機能付き目覚し時計事件から早や一ヶ月。
桜はすっかり葉桜に衣替えをし、祐一も初めての夏服に袖を通し、美汐もまた一般的高校生の例に違わず夏服を着用している。
真っ白なシャツ。
学年カラーの大きなリボンと肩にかけるケープは冬服と変っていない。
他校とは完全に一線を画している一見中世的なこの学校の制服は、夏冬共に人気が高い。
きっと恐らく多分それはこの学校に通っている女子生徒の見目麗しい姿も手伝っての事なのだろうが。


さて、その見目麗しい中にランクインしている―――本人は完全否定するだろうが、所詮容姿などというのは他人からの評価な訳であって云々。
とにかく自分の魅力にまったく気づかないで居る天野美汐はどうなっているかと言うと―――

「遅いぞ天野」
「相沢さんが速すぎるんです。 どうして授業終了のチャイムから一分以内に此処まで来れるんですか」
「愛の力」
「それはもう聞き飽きました」
「そんな事よりもメシ。 俺はもう腹が減って腹が減って、今なら天野の事だって食べれそうだ」

別の意味で、と言おうとしたが、命が惜しいので止めておいた。
祐一の判断は正しかった。
何しろ、パンダさんのお弁当箱が美汐の手の中で異様な形に変形を成し遂げているではないか。
にっこり笑いながらエルクゥ並の握力を発揮する美汐はとても怖かった。
可愛かった。

「まったく……そもそも私は好きで相沢さんにお昼を提供している訳じゃないんですからね?」
「あれ? 違ったっけ?」
「白を切らないでください。 そもそも相沢さんが――――――
『大好きです、相沢さん 大好きです、相沢さん 大好きです、相沢さん 大す』
「ふぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
「相沢さんが…………何だって?」
「ううぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっっっっ」

これは一種の脅迫ではなかろうか。
にっこりと笑いながら可愛らしい目覚し時計を手にする祐一の顔は、それはそれは爽やかで。
やり場の無い羞恥と怒りを一身に溜め込んでいる美汐の唸り声も、それはそれは可愛くて。
傍目には非常に仲の良いカップルに見えない事も無くて。

だけどちょっとだけ祐一が真面目な顔になったりした。

「あー、えと、その、なんだ……」
「……?」
「本当に嫌なら……その…別にもうこんな事しなくたっていいぞ?」
「………」
「この目覚ましだってちゃんと消すし……メシも学食に行くし…だから……」

先程とは一転、強気なのか弱気なのかまったく判らない。
だが、美汐は既にこんな祐一に慣れっこだった。
別に情緒不安定だとか二重人格とかじゃない、要するに相沢祐一と言う先輩は優しすぎるのだ。
何を馬鹿な、と数週間前の自分がわめき散らすであろう事はそれこそ目に見えているが、あえて無視する。
優しい優しいこの先輩は、調子に乗ったその後はすぐにこうなるのだ。
調子に乗りすぎて本当に誰かが傷付いてしまう前に。

そんな心配をするぐらいなら始めから何もしなければ良いのに。
それを判っていても何かしなければ気が済まないのが、相沢祐一が相沢祐一である所以なのだ。
しょうがない。

「だし巻き卵」
「へ?」
「明日のお弁当の中身はだし巻き卵ですけど、他になにかリクエストはありますか?」
「えっと、あの?」
「それとも、そろそろ学食の味が恋しいですか?」

ぶんぶんぶんぶんぶんぶんぶん!!
それこそ首がすっぽ抜けるかと心配するほどの速度で祐一は首を左右に振った。
そして今度は抜けるような笑顔で

「楽しみにしてる」
「過度の期待はしないでください」
「愛妻弁当」
「妻になった覚えはありません」
「もう既に結婚はできる年齢だ」
「相沢さん、誕生日はもう迎えられたんですか?」
「俺の誕生日は四月の頭だからな、鬼も十八、番茶は江頭」
「いろいろ間違ってます」
「結婚しよう」
「定職にすら就いていない人の元に嫁ぐ気はありません」
「卒業したら即就職だ」
「この前ご自分で『俺は大学に行ってマンボウの生態研究をするぜ』って仰ってましたよね」
「就職しながら研究する」
「しかも志望学科は児童教育でしたよね」
「大学行きながら就職して児童教育を学びながらマンボウを研究する」
「頑張ってください」
「そして天野と結婚する」
「嫌です」
「俺も嫌だ」
「何がですか?」
「天野が俺と結婚してくれないのが嫌だ」
「子供ですか」
「三つ目の魂百まで」
「それも微妙に間違ってます」
「いつまでも純粋なままで居たいんだ」
「どうぞご自由に」
「そして天野と結婚する」
「はぁ……繰り返しですか?」
「天野が『うん』って言うまで繰り返す」
「うん」
「おおっ?」
「言いましたよ、うんって。 結婚云々に対しての返事ではないですけれど」
「卑怯だぞ」
「ずるい卑怯は敗者の戯言です」
「天野がそんな奴だったなんて……」
「幻滅したのならどうぞお帰りになってください」
「愛してる」
「私は愛してません」
「聞こえない」
「聞いてください」
「天野の愛の告白を?」
「………」

頭痛がする。
天野美汐はしばらくこめかみに指を当てて黙り込んだ。
風が地上よりも幾分か強く吹き付け、二人の髪を揺らしていった。

二人きりのお昼。
いつもいつもこんな調子。
ずいぶん慣れてしまったものだと美汐は思う。
同時に、少しだけこの時間を心待ちにしている自分にも気づく。
いつからだろうか。
多分ずっと前から。
何だかんだ言いながらも、結局は自分も魅入られてしまっていたのだ。
厚顔無恥で自由奔放で神出鬼没で奇妙奇天烈で電光石火で複雑怪奇で朴念仁で―――――――どうしようもなく素適な先輩に。


きっとこれから先、少なくとも相沢さんが自分に興味を無くすまではこの関係が続くのだろう。
そう思うとやっぱり少し頭痛がして、でもちょっとだけ楽しみでもあったりする。




天野美汐の快適な憂鬱は、夏の予感と共に、いよいよこれからが本番を迎えるのだった。



















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後書き

リハビリ中。