群青色の傘に雨が滲み、その雫がなだらかな斜面に沿って流れ落ちていく。煙る街並みはまるでレースのカーテンがかかっているかのように白かった。既に薄着ではいられないこの季節の雨は本当に気分を滅入らせる。後一ヶ月もすれば雪になるであろう雨の雫は、例外無く冷たい。ふと空を見上げると、今まで上から下へと線を創っていた粒が放射状に顔に打ち付けた。
 
 ああ、思った通り冷たいな。こんな雨を浴びつづけるのは体に悪いだろうな。
 
 そんな事を考えながらも、夕方過ぎの町の喧騒の中、私は一人傘もささずに佇んでいた。動き出す事も出来ずに、雨を拭う事も出来ずに。周りの音がすべて作り物であるかのような錯覚を受ける。
 
 身体が濡れるのと同じようにして、心の奥から一つの感情も首を擡げて来る。忘れたいけれど忘れてしまいたくない。そんな二律背反した感情。
 
 それはちょうど、今日のような日の事。
 秋雨が身体を濡らし、涙もそれに紛れてしまっていた日の事。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
       (裏) ―――――― 秋雨 〜降り止まず今も〜 ――――――
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 夏がその姿を消し去り、新たな季節の使者も街を去る準備を始めているかのような季節。木々の葉は既にその色を変え、長袖にカーディガンを羽織っていても肌寒いと感じる天候が続いていた。晩秋と言うには早く、しかし秋の只中であると言うのは寒さが許さないような日。いつもと変わらない日常が、いつもと変わらない速さで流れている。
 
 そんな中、小さな約束事に私は胸を躍らせていた。母である自覚を暫しの間意図的に忘れ、そこに居るのは些細な事に胸を躍らせている自分。まるで少女のようだ、と自分でも苦笑してしまった。それでもやはり込み上げて来る嬉しさはどうしようもない。実家の母に名雪を預け、子供が出来てからは履かなくなってしまったヒールに脚を通す。背伸びしていたあの頃とは違って、今は私にぴったりと合ってくれる。そんな事までが今日の日を祝福しているかのような気がして上機嫌になった。淡い色のルージュをあの人のために塗り、家を出ようとした所でふと空を見上げた。特に理由があったわけではない。ただ、何かに導かれるようにして。
 寒いはずだ。見上げた空には太陽の姿が無く、代わりに鉛色の雲が張り付けられたように一面を覆っていた。降るかも知れない。瞬間的にそう思ったが、傘を持っていくのはどうしても憚られた。今日のコーディネートに傘は入っていない。それに、雨が降り始めたらあの人の傘に入れてもらえば良い。普段は鈍感なくせに、こういう事になると頬を赤らめてしまうあの人の姿が思い浮かんで思わず笑みを浮かべた。からかう。そんなつもりは無くても結果的に照れて赤くなってしまう。彼のそういう所も、私は好きなのだ。
 
 待ち合わせ場所は駅から少し離れたモニュメントの前。仕事を終えてから会おう、と言う事だった。少しの間を置いて、二人っきりで、と付け加えられた電話の向こう側。何も考えずに、考えられずに、即座に了承した。

 仕事が忙しくなって。名雪が生まれて。幸せではあったけれども二人きりの時間が持てないことが不満でもあった。そんな心境を見透かしての事か、今日の電話。いつもあの人は私の一歩先を歩いてくれている。そして何も知らないような振りをして、さりげなく手を差し伸べてくれる。いつも人から『完璧だ』と言われていた私が、あの人の前だけでは子供のままでいられた。甘える事を許してもらえた。暖かで緩やかな『そこ』は、もうどうしようもなく甘美な私の居場所となっていた。
 遠くに見える駅のロータリーから吐き出される人が忙しなく歩いていく。右へ、左へと。彼らはいったい何処へ向かっていくのだろうか。やはり誰もが自分の大切な人の元へと急いでいるのだろうか。だとしたら、一見無機質なこの人の流れさえも好きになれるような気がした。
 
 あともう少しで待ち合わせの場所。どっちが先に着いているのだろうか。ひょっとしたら、たまたま早く仕事が終わって先に待ち合わせ場所に居るんじゃないかな。そして私はその姿を見つけて、少し小走りで近寄っていくのだ。馴れないピンのせいでよろけながら、それでも一生懸命にあの人の胸の中へ。おそい。ごめんなさい。行こうか。はい。そんな幸せな未来しか見えなかった。
 
 人が少し多いかな?別にその待ち合わせの場所は私たち専用ではない。それどころか、もともと待ち合わせ場所としては非常にポピュラーな場所だった。故に、黒山のようになっている人だかりにもさしたる興味は無かった。皆、それぞれの待ち人を待っているのだろうから。ただ、それにしては様子が少しおかしい。

ちくり、と胸が痛んだ。

 人だかりの中に見えた赤いランプと白い車体。鼓動が早くなる。嫌な予感が募る。少しでも速くその場所に近づこうとして、私は走った。気ばかりが焦って、脚がついてこない。それでも懸命に走った。
 
がっ
 
 目の前にあるアスファルトの地面。掌と膝に強い痛みが走る。見ると、どちらからも血が滲んでいた。足元を見ると、ヒールの踵が折れている。やはりなれない靴を履いてくるんじゃなかった。少しの苛立たしい気持ちと、それにも勝る焦燥感にあおられて、私は靴を脱ぎ捨てた。
 
 早くあの場所に辿り着きたい。そうすればきっとあの人は笑っていてくれる。そして少し驚いたような顔で、どうしたんだ?と聞いてくれる。そう、今私が感じている嫌な予感を全て消し飛ばしてくれるような笑顔で。
 
 お願いだから。ただの杞憂であってほしい。じくじくと痛む膝の傷を忘れ、私は一心不乱に待ち合わせ場所へと走った。
 
 アスファルトに飛び散った血痕。車のフロントガラス『だったもの』。思わず目を背けたくなるような光景がそこにはあった。周りに居る人たちは、自分の待ち合わせた人が無事で居る事を喜んでいる。そうじゃなければ、現場の悲惨さを興味本位で覗き込んでいる群集。多少の違いはあれど、その表情は事件に関係していないと言う安堵の表情に満ちていた。
 
 そんな中、私は探していた。人ごみの影に、喧騒の中に、何時の間にか振り出した秋雨の中に。私を待っていてくれるはずのあの人の姿を。私の不安をどこかへと追いやってくれるあの人の姿を。何度も背格好の似ている人の袖を掴んで、そのたびに期待を裏切られて。
 
「ここで誰かと待ち合わせしていた人らしいよ」
 
 そんな話し声が聴こえるたびに涙が溢れて。それでもそんな事ない、と一生懸命に否定して。また、誰かの袖を掴んで。裏切られて。
 
「えー、被害者の身元は――――――」
 
 やめて
 
 お願いだから
 
 言わないで
 
「――――――遺留品より」
 
 何でもするから
 
 もう二人っきりでなんて甘えないから
 
 デートなんて出来なくても良いから
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                     水
                      瀬
                   雪
                  人
                      本
                     人
                        と
                     確
                    認
 
                                          しました
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
うそ
 
 
そんなわけないもの
 
 
ゆきとさんはちょっとまちあわせにおくれてるだけで
 
 
もうすこししたらえきのほうからいきをきらしてはしってきてくれる 
 
 
おそくなってごめんなっていいながら
 
 
またせたかっていいながら
 
 
ちゃんときてくれるもの
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 色とりどりの傘が咲き、あれだけ人が込み合っていたこの場所には誰もいなくなった。残っているのは私だけ。しとしとと、しとしとと。存在そのものを包み込みように雨は降りしきる。もう少しで冬が訪れるこの時期の雨は、容赦なく身体から体温を奪っていく。あの人のためにひいたルージュも落ちて。破れてしまったストッキングには膝の怪我の血が雨に薄まって流れて。
 
 そんな中、私は身動き一つとれずにいた。身体を濡らす雨に抗いもせず、拭う事も出来ず。頬を流れる涙ですらも秋雨に混じって、判らなくなってしまって。
 
 冷たい雨が降り注いでいた。
 
 皮肉にも私の名を冠した雨が、悲しみを助長するかのように振り続ける。秋雨が降っているから私は泣いているのか。私が泣いているから秋雨が降るのか。こんな子供じみた質問に答えてくれるあの人は――――――――――――
 
 
 
 
 
 
 
 
            今まで一度も破った事の無い約束を破った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「秋子さん?」
 
 不意にかけられた声に、私は振り向いた。二度と戻らないあの日の幸せ。それを髣髴させる『この人』の声。何処か飄々とし、それでいて時々妙に核心を突くようなことを言う。何も知らない振りをして、実は何もかもを知っている。そんな所もあの人にそっくり。いつもは安らぎすら覚えるその声が、あの人の事を、あの日の事を思い出した後では酷く不愉快に聴こえた。
 
 不愉快。それは少し違う。ただ、声を聞くたびに悲しみが、喪失感が込み上げてくるのだ。どうしようもないくらいに強く、深く、抉る。傷を、痕を、痣を造る。
 
「ど、どうしたんですか? こんな冷たい雨の中で傘もささずに………」
 
 そう言いながら、そっと私の上にかかる傘。優しい息遣い。柔らかな瞳。本当に心配するような口調。
 
 お願いだからやめて。
 
 ふとすると、二人を重ねてしまう自分が居る。そんな自分を、私は嫌う。『代わり』を求めてしまう自分を酷く嫌悪する。ずっとあの人だけ。それを誓っていたあの頃が嘘になってしまう。私が忘れたらあの人は居なくなってしまう。何処にも居なくなってしまう。このままじゃ………
 
「あっ」
 
 自分の上に差し出された傘の中からすっと逃げる。再び私を濡らす、秋雨。私の涙。自分勝手な贖罪。不可思議な私の行為に驚いたのか、祐一さんが小さな声を上げた。そして再び雨に濡れ始めた私の上に傘をさそうとする。全てを許す/壊す/救う/忘れさせるように。だけど。
 
「止めてください」
 
 おそらくは今までで一番に。冷たくて。無機質で。悲しくて。朧げな声で。けれどもはっきりとした拒絶の意味合いを込めて、私はそう言った。
 
 
秋雨が降っていた
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                                     了
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後書き

かなり昔の作品。
この後、祐一は秋子さんの心に今だ降り続ける秋雨を止める事は出来るのか。
止める事が出来たとして、それは本当に『救い』なのか。
似たような主題を今も扱い続ける私が居たり。