二月
 
住んでいる街よりも遥か南の方に位置する国立大学文学部に合格した。
喜びは、僅か一ヶ月強の先にある別れの寂しさを隠すには充分だった。
ひたすらに、友人と喜びを分かち合った。
 
 
三月
 
一年も通っていない高校の卒業式で、涙を流す自分を誇れる気がした。
早咲きの樺桜を見上げ、演出の為にその太い幹に渾身の足刀を入れた。
花びらが舞った。
先生から最後の説教を喰らった。
 
別れはあっけなかった。
大した荷物も無く、大した感動も無く。
駅まで見送りに来てくれたのは、名雪ただ一人だけだった。
そこで、指切りと約束をした。
『一週間に一度は、体調や近況報告の電話をしようね』
『浮気しちゃ、ヤダよ』
守れない約束はしない主義だ。
だから、少なくとも約束をしたこの時点では守らない気など毛頭無かったはずだった。
 
 
四月
 
思っていたよりも忙しい大学生活。
そして、一人暮し。
始めは頻繁だった電話も、月の終わりには次第に回数が少なくなっていった。
どちらからとも無く、では無い。
確実に、俺の方からの電話が少なくなっていった。
言い訳は、その気になればレポート用紙に纏めて出せるほどある。
バイト、レポート、サークル、予習、家事、コンパ、イベント……etc
忙しい、忙しい。
それだけを理由に、たったそれだけの理由で、俺は疎遠になっていく彼女の存在を見ようともしていなかった。
 
 
五月
 
GWはバイトで潰れた。
そもそも穴明き連休だったため、感覚としては黄金よりも金メッキと言った感じの方が強い。
電話した時の名雪は、元気だった。
と、勝手に思う事にした。
聞こえない事にした。
受話器の向こうで寂しげに呟かれた言葉、『声だけは……寂しいよ』とか言う呟きは聞こえない事にした。
気付いたとしても多分、俺には何も出来ないから。
 
 
六月
 
週に一回の約束だった電話は、気がつけば五月の連休前にした一回から今までずっとしていない。
それにも、最早馴れた。
順応性が高いというのは誉められる対象だとばかり思っていたが、どうやら全ての事に当て嵌まると言う訳では無いようだ。
結局、六月中は一度も電話をしないままに過ぎていった。
 
 
七月
 
名雪から電話があった。
『会いたい』
『そりゃ俺だって会いたいさ』
『嘘ばっかり』
『嘘なんかじゃない』
『じゃあ、夏休み中は帰ってくる?』
『バイトもあるから余り長くは帰れない』
『でも、帰ってくるんだよね』
『そうだな、クラス会の前後2・3日はそっちで過ごす事になると思う』
『前後じゃダメ。 はっきり日にちを言って』
『あー、チョイ待て。 バイトのシフト表見る』
『うん』
『………七月の…えーと…二十三からニ十六までだな。 7/23の始発で帰る。 そっちにつくのは一時頃かな』
『一時……うん、判った』
 
気付くべきだった。
名雪の声に混じる、『嬉しさ』の裏に隠れた違う気持ちに。
少なくとも、『彼氏』なら気付いてなくちゃいけなかった。
気付けなかったのは多分、その時既に俺は『彼氏』じゃなかったからなのだろう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
F ―――――― F.M.W ―――――――
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
北の街に降り注ぐ夏の日差しは、都会の『それ』とは違って、まだ何処かに爽やかさを含んでいた。
時折吹く風は、排気ガスの香りもタバコの匂いもしていない。
こんなにも空気が綺麗だったのか、等と小さく一人ごちてみたりもした。
 
久しぶりに見る街は、何故かとても小さかった。
それほどまでに自分の中でこの街の重要性が失われていた事に少なからずショックを受ける。
『あの頃』は、この街が世界の全てだったのに。
 
「待った?」
 
真っ白なワンピと赤いリボンの麦藁帽子。
そう言えばあの頃もこの街に来た俺を迎えてくれたのは名雪だった。
確かあの時は二時間以上待たされたんだよな。
それも、雪の中で。
 
「メチャクチャ待った。 8時間ほど」
「嘘ばっかり。 ちゃんと見てたんだから、祐一が駅から出てくるとこ」
「じゃあ訊くな」
「4ヶ月振りの再会の台詞がそれ? 都会に行くと人はそんな風になっちゃうのかな?」
「悪かったよ。 久しぶりだな、名雪」
「うんっ」
 
笑って、頷く。
久しぶりに見た名雪の笑顔は贔屓目無しで可愛いと思った。
 
「お母さんのところに顔出してく?」
「家に居るのか?」
「うん。 早めのお盆休みだって」
「早過ぎだろ。 まだ七月だぞ?」
「お盆の時期が忙しくなるお仕事なんだって」
 
帰って来たご先祖様でも導く会社だろうか。
そこはかとなく怖い想像が脳裏をよぎった。
 
「いや、顔を出すのはまたの機会にするわ」
「じゃさ、ちょっと歩かない?」
「どこまで」
「学校」
「開いてんのか?」
「部活動に夏休みは関係無いからね。 多分今も走ってると思うよ」
 
陸部限定で話が進むが、それもまた名雪らしいので良しと思った。
 
「俺は別に構わないぞ、学校」
「それじゃいこ」
 
 
 
 
 
 
* * *
 
 
 
 
 
 
変わらない校舎。
変わらない校庭。
変わらない雰囲気。
何一つ変わっていないのに、そこに居辛さを感じてしまう俺は、やはり何か変わってしまっているのだろうか。
明確に『NO』言えない自分がもどかしい。
太陽は、真上から少し傾いて西側に位置していた。
 
校庭を横切りながら、西日の中で部活動に励む高校生達を眺める。
偉いな、お前等。
何の報酬も無いのに(大学進学等に有利だと言う報酬は有るかもしれないが)そこまでの肉体労働を自らに課すなど、俺には出来ない。
 
「水瀬せんぱーい!」
「あ、篠ちゃん」
「おおっ! 久しぶりだな、篠ちゃん」
「え、えと、はい。 いえ、え?」
 
混乱してる篠(しの)ちゃん。
はて、俺は何かおかしい事でも言ったか?
 
「祐一。 篠ちゃんをいじめちゃダメだよ」
「何? 俺が何時この初対面の女の娘をいじめたと言うのだ」
「……初めましてだって言う自覚はあるんだね」
「ん? ああ、そう言う事か」
「初めましてで良いんですよね、『祐一』さん」
「おう。 初めましてだぞ、篠ちゃん」
 
自覚が無いのに切れの良いボケをかましてしまう辺り、俺の本質は都会に行っても変わってないらしい。
喜ぶべきか、呆れるべきか。
取り敢えずは喜ぶ事にしておいた。
 
楽しげに高校時代の事を話している名雪と篠ちゃん。
残念ながら、その内容の殆どが部活の話しであるが故に俺の入りこむ余地は無い。
暇を持て余しつつ、さりとて流れ的にこの場を離れる訳にもいかず、暇潰しに足下のアリをふんずけてみた。
大して面白くなかった。
 
「あの人……」
 
後ろの方で篠ちゃんの声がする。
多分俺の事を指しているのだろうとも思うが、過敏に反応して振り向くのもなんだかなぁとも思う。
結局、振り向かずに耳だけ向けていた。
 
「水瀬先輩の彼氏ですか?」
「うん、彼氏だよ………『元』、だけど、ね」
 
振り向かなくて良かった、と思った。
 
 
 
 
 
 
* * *
 
 
 
 
 
「いつから?」
「祐一に電話する、少し前」
「誰?」
「多分、祐一の知らない人」
「寝た?」
「……うん」
 
名雪に背を向けたまま、淡々としたやり取りが続く。
屋上から見る街は、やはりあの頃と何処かが違う気がした。
 
「怒らないの?」
「怒って欲しいのか?」
 
凪いだ夕暮れ時は、驚くほど静かに時間を押し流す。
気が付けば、部活をしていた生徒は誰も居なくなっていた。
 
「怒らないって事は、やっぱりその程度だったんだ」
 
達観した言葉とは裏腹に、感情が意外なほど読み取れる声。
言動が支離滅裂な事に、名雪は気付いてはいないのだろうか。
 
「お前が選んだんだろ? 俺よりも、その、俺の知らない『そいつ』を」
「選んだんじゃない。 元々選択肢なんか無かったよ」
「お前が見なかっただけだろ」
「だって祐一は、私を怒ってもくれないじゃない」
「俺がここで怒ったら、お前が困るだろ」
「そう……かもしれない」
「お前が困る事は、俺にとってあまり面白い事じゃないからな」
「まるで私の事を思ってくれてるような台詞だね」
「それじゃあ他に好きな男が出来たと言っているお前に、『捨てないでくれ』って縋り付いて泣けば良いのか?」
「出来ないくせに」
「したくないだけだ」
「同じだよ」
「お前がそう思うならな」
 
KOOLを取りだし、火をつける。
何時の間にか習慣となったタバコ。
この街にいた頃は、吸ってなかった。
やはり変わったのは俺の方か。
 
「学校内は禁煙、だよ」
「知った事か」
 
遠慮無しに紫煙を吐き出す。
煙は僅かに空気中に漂い、潔く消えた。
 
「……ごめんね」
「謝るような事をしたのか?」
「約束をやぶったよ」
「俺も電話をしなかった」
「浮気の方が、罪は重いと思う」
「浮ついた気持ちなのか?」
「………」
「はっきり言えよ。 じゃないと俺が可哀想だろ」
「その人の事が………好き」
「俺よりも?」
「『遠くに行った』祐一よりも」
「それじゃあしょうがない」
「祐一の中では……『しょうがない』でカタがついちゃうんだね」
 
実際、しょうがないとしか言いようがない。
俺が向こうの街に行った事、電話が途切れ勝ちになった事、毎日が忙しくて帰って来れなかった事、名雪が寂しさに負けて近くに居る奴の優しさに縋った事。
何処かで断ち切れそうにも思えるこの構図だが、実際に只中を生きていた俺達にはどうする事も出来なかった。
その結果が今ならば、やはり出てくる言葉は『しょうがない』しか無いではないか。
等と思ったが、言えば言うほど情け無くなるので、言わないでおく。
 
「こんな時、ドラマの主人公ならこう言うんだろうな」
「どんな?」
「『お前が幸せならそれで良い。 俺の事なんかどうでも良いから、お幸せに』ってな」
「じゃあ、祐一はどう言うの?」
「別れちまえバーカ」
「……なんかそっちの台詞の方が嬉しい」
「止せよ。 嫉妬深くて自分勝手で、おまけにたった今お前が振った男の言葉だぞ」
 
フェンスでタバコの火を消し、校庭に向かって弾き飛ばす。
燻った煙は尾を引く事も無く、落下するタバコは音を立てる事も無く、ただ引かれるままに地面へと落ちていった。
 
「さて、そろそろ出るか」
「そだね」
 
 
 
 
 
 
* * *
 
 
 
 
 
 
長い夏の日も落ち、空には十六夜の月がぼんやりと光っていた。
二人で歩く道は、高校の頃に毎日通った帰り道。
懐かしさを覚えるより先に、漠然と『暗い』と思った。
 
「泊まるとこ、決めてあるの?」
「少なくとも水瀬家じゃない事だけは確かだな」
「……そうなの?」
「お前な。 今更どの面下げて俺があの家の門をくぐれると思ってるんだ?」
「だって、お母さんだって会いたいだろうしさ。 真琴もあゆちゃんも祐一には会いたがってたよ」
「明日にでも喫茶店辺りで会えば良いだろ」
「でもー、多分祐一の分もご飯用意してると思うよ?」
「秋子さんもあゆも真琴も関係無い。 問題はお前だ」
「私?」
「夜這いをかけられたいなら、俺を家に呼べ。 それ以外ならお断りだ」
「祐一の頭の中にはそれしかないの?」
「好きな奴を抱きたいと思って何が悪い」
 
その言葉を聞いて、名雪の足が止まった。
まばらな街灯の下、俯いたままの姿勢で小さく呟く。
 
「………まだ、好きだって言ってくれるんだ」
 
長い前髪に隠された表情は、俺の位置からじゃ見えなかった。
だから、何も判らない振りをした。
 
「そんじゃ、俺は適当に宿探しでもするわ。 無かったら北川の家にでも押し掛ければ良いし」
「明日の同窓会、何時に何処でやるか判ってる?」
「七時に『F.M.W』の二階だろ」
「その前にさ、やっぱり一回家においでよ」
「判った判った。 起きたら電話するから」
「約束、だよ」
「はいはい」
「それじゃ、また明日ねー」
「明日は徹夜になるからな。 今日の内にいっぱい寝ておけよー」
 
冗談交じりの言葉を吐いて、名雪と別れた。
てこてこと走り、家に入るその間際。
振り返って、もう一度、笑った。
やっぱり、久しぶりに見るその笑顔は可愛かった。
 
 
 
 
 
 
* * *
 
 
 
 
 
 
午後七時半。
夏の最中にある雪の振る街で、俺は、自分の携帯を川に投げ捨てた。
その足で電車に乗って自分の住む街へと帰った。
この街に来る事は、恐らく二度と無いだろう、と思いながら。
 
 
 
 
 
 
* * *
 
 
 
 
 
 
七月
 
住んでいたアパートを引き払い、携帯も新しく変えた。
バイトは週六で入れ、合間を縫って学校の友達と飲み会をしたり、レポートを書いたり。
忙しいながらも、何故か充実した気になれる。
雪の振る街との接点は、最早何一つ残っていない。
それが、今の俺の『普通』。
何一つ問題など無く、毎日は驚くほど何の滞りも無く流れていく。
 
ただ。
ふとした時に胸を締め付ける、笑った顔の君の思い出さえなければ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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後書き
 
「(F)振りかえって、(M)もう一度、(W)笑った」→「F.M.W」
「(F)ふとした時に(M)胸を締め付ける、(W)笑った顔の君の思い出」→「F.M.W」
 
初めてかもしれないBAD END。
やっぱ物語はハッピーエンドじゃないとダメだと思います(なら書くな