十月には何がある?
体育の日。
うむ、正解だ。
だが、人(学生)は体育だけで生きていけるのか?
答えは勿論、否。
人(学生)が生きていく上で、体育だけで良いなんて事が許されて良いのか。
良い訳無いだろう馬鹿野郎。
 
体育と双璧を成すもの言ったら何か。
決まっている、文化だ。
そう、文化なのだ。
ヒトは文化を持ち、人となった。
ならば現代に生きる、人間である我々が文化を尊ばないでどうするのか。
 
体育祭は既にやり遂せた。
見事だったと言えよう。
あの祭りに関する限り、我々は何も思い残す所は無いと断言できる。
ならば、今の我々に残っているものは何か。
ちょっとそこのキミ、言ってみろ。
キミだ、そう、キミだよ早く立てぇ!
 
…聞こえない。
……聞こえない!
…………そうだ! お前の言う通りだ!
文化の祭りだ文化の祭り!
略して言うと文化祭だ!
これこそが俺達、次代を担う学生である俺達の存在証明と言っても過言ではないだろう、なぁ同士よ!
 
いいか、いいのか?
準備は万端かコノヤロウ!
 
たった今からだ。
午前ぜろきゅーまるまるを持って、この空間は秩序を無くす。
学校であって学校じゃないんだ。
これからの二日間、この場所は完全な無法地帯と化す。
何をしようと、何があろうと、誰にも口出しは出来ないんだ。
そう、それが文化だ。
文化の息の根を止める事なんて誰にも出来やしない。
ペンは剣よりも強い何て事は言わずもがなだろう?
 
もう一回訊くぞ、準備は良いか?
 
歯は磨いたか!?
顔は洗ったか!?
宿題やったか!?
トイレに行ったか!?
若さは有り余ってるか!?
今すぐ爆発させれるか!?
 
なら叫べ!
唄え!
踊れ!
飛べ!
全てをぶち撒ける権利が今の俺達には有る!
諸君等が望むならば、我々は一個の有機体となろう!
授業や規則で腐敗した魂に、今こそ熱い文化の鉄槌を叩き込もうではないか!
全ては今、この瞬間から始まるのだ!
 
いっくぞおぉぉぉぉ!
 
ただいまからぁ!
 
第っ!
 
十五回っ!!
 
私立華音高等学校文化祭、『華雪祭』を開祭する――――――――!!!!
 
 
 
 
 
【第十五代文化祭実行委員会会長 『華雪祭』開祭の言葉】
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
G ―――――― 学園天国 ――――――
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
どうも文化祭実行委員長の言葉は過言ではなかったようだ。
校内の喧騒は普段の『それ』は量も密度も、そこに含まれる意味合いまでもがまったく違う。
どこに溜めておいたのか、こんな元気。
教師陣は最早何も言えないほどに呆れかえっていた。
普段の学校生活ですら自分達が辟易するほど喧しいと言うのに。
まだ隠し持っていやがったのかコンチクショウ。
 
どうも生徒達は『文化祭』の『文化』の部分を何処かに置き忘れてきたようだ。
事実、開祭から小一時間も経っていないのに、とにかく校内は騒がしい。
ここまで来ると、祭りと言うより戦争と言った方が正しい気までもがしてくる。
 
巫女が居る。
メイドが居る。
バニーガールが居る。
女ターザンが居る。
ナースもホストもチャイナも居る。
およそ国籍だとか職業だとか言う垣根を取っ払った服装の生徒がごったがえす校内は、確かに無法地帯だった。
 
「文化はどこに行った、文化は」
 
職員室で濃いお茶を飲みながら、石橋は精一杯の皮肉を込めた呟きをもらした。
勿論、その呟きは校内の悲鳴にも似た喧騒にすぐにかき消されていったのだが。
 
 
 
 
 
 
* * *
 
 
 
 
 
 
体育館
 
殆どの生徒が居なくなったその場所で、我等が相沢祐一率いる3-B有志一同は、今日も今日とて芝居の稽古をしていた。
その表情は、真剣の二文字。
己の存在証明がそこにしか無い様に、彼らはただひたすらに稽古に打ち込んでいた。
 
文化祭前の話し合いで出し物が芝居と決まった時点では、まだ彼らには若干の余裕があった。
たかが芝居だろう。
祭りの雰囲気ならば、多少の失敗はアドリブでごまかせるだろう、と。
 
そして祐一が書き上げた脚本を見て、彼等の余裕は見事なほどに崩壊した。
その時の皆の様子を一言で言い表して見せよう。
「なんじゃあこりゃあ!」
以上。
 
合計枚数が―――それでもギリギリまで譲歩した祐一が泣く泣く枚数を減らして―――七百数十枚もあるシナリオ。
大小数百に及ぶ小道具、大道具。
世界観の徹底、役者の立ち位置、演技指導。
全てが大胆且つ綿密に設定されていた。
 
誰もが祐一の意外な才能に驚き、誰もがその才能を恨んだ。
恨んでは見たものの、やはりその才能は驚くべきものだった。
悔しいが、自分達の手でこの物語を演じてみたいと思わせるに十分なほどに。
 
一番揉めると思われた配役決めは、作監の祐一の鶴の一声で決まった。
ヒロインは美坂香里。
ヒロインに恋焦がれる魔族の男は北川潤。
その恋路を妨害するは勇者、相沢祐一。
勇者の婚約者でありながら、今だ自分の方を振り向いてもらえない姫、水瀬名雪。
その他諸々。
 
劇中での互いの呼び名も、祐一の提案が承認された。
『めんどいからそのまんまで良いや』
作監がそう言うのならば従うしかない。
皆はあっさりその命に従った。
祐一がニヤっと笑ったのには、無論誰も気付いていなかった。
 
時に、文化祭開祭の十三日前の事だった。
 
 
そこからの3-Bは凄かった。
まず、授業を真面目に聞く生徒は誰一人として居なかった。
学年首席の『あの』美坂香里ですら、である。
考えてみれば至極当然の事。
状況説明が大半を占めるとは言え、七百数十枚に及ぶシナリオを覚えなくてはならないのだ。
しかも、自分がヒロイン。
ここで情け無い舞台などをしようモノなら、自分は一生後悔するだろう。
常に冷静な香里の脳裏では、やはり冷静に計算が行われていた。
その結果として、二週間程度の授業内容なら後の自学自習で何とかなるとの答えに達した。
 
もちろん、他の生徒はそこまで考えてはいない。
楽しい方、楽しそうな方を優先させたまでだった。
学生の本文は遊ぶ事にあるのだからしょうがない。
そんな言い訳をしつつも、楽しい事と楽な事はまるっきり違っていた。
テスト勉強なんかよりも密度が断然濃い。
のんべんだらりとやっていたんじゃ、一年経ったって全てを覚えきる事なんて不可能だと思われた。
だがそれでも、熱い高校三年生は止まらなかった。
一筋縄じゃ行かない、これ上等。
一致団結と言う言葉は、まさに今この時の3-Bに贈られるべきだった。
 
そんな状況が続いたある日の授業、全校生徒指導担当の荒川が切れた。
一人の生徒の所へ歩み寄り、シナリオをその手から奪い取り、真っ二つに引き裂いた。
瞬間、祐一が切れた。
テメェこの俺がニ徹で書き上げたハムレットを超える世紀の傑作に向かって何しやがんだコノヤロウ今すぐ撲殺して死体をきっちり十六等分して富士の樹海に埋めるぞボケ!
その眼光から、祐一が本気である事は誰の目にも明らかだった。
駄目だ駄目だ駄目だ。
ここで作監を失っちゃ駄目だ!
一言も発しなかったが、クラス全員が祐一を押さえ付けにかかった。
一致団結。
結局、この件で負傷したのは荒れる祐一によって穴を空けられた掃除用具箱と柄をブチ折られたモップだけだった。
 
次に、文化祭十三日前からの学校泊まり込みを校長に許可させると言う前代未聞の荒業を成し遂げた。
首謀者は、3-Bの参謀長官である美坂香里。
3-Bの最終兵器彼氏と呼ばれる北川潤。
そして、3-Bのアル.カポネの異名を取る相沢祐一。
この三人が同一の目的のために動くと知った時、クラスの誰もが計画の成功を確信した。
事実、計画は成功した。
その内容を克明に描くのは止めておこう。
校長の尊厳と名誉の為に。
つまりは校長の尊厳と名誉がぶち壊されたと言う事だ。
 
更に、ある一定の時期を過ぎた辺りから授業中の様相が一変した。
寝てた。
クラス総勢四十一人、全員寝てた。
シナリオを大体頭に叩き込んだ後は、反復練習あるのみ。
その練習は夜を徹して行われており、ならば睡眠時間を補うのは授業中しかない。
俺達には授業中以外寝る時間なんか無いんだ。
だから寝る。
文句あるか。
いや、そりゃあるだろう。
再び、荒川が切れた。
教卓を五回、黒板を八回叩いた。
そこで、名雪が切れた。
普段アレだけ騒がしい目覚ましの中で寝てるくせに、何故かこの時は荒川の発する騒音で目覚めた。
必要睡眠時間を大幅に削られた名雪を止められるものは最早誰も居ない。
頼みの綱の祐一だって夢の中なのだ。
ネコもイチゴもこの場には存在しない。
さらばだ、荒川。
そして完全にキレた名雪は、あろう事か教師に向かって。
授業中にも関わらず。
元はと言えば寝ていた自分が悪いにも関わらず。
臓腑が焼け焦げるような万感の怒りと共に、あらん限りの大声で叫んだ。
 
「にゅっ! にゃにゃう――んにゃぁっ! だー、うにゅあー! だお――――!!!」
 
理解不能だった。
 
 
 
 
 
 
* * *
 
 
 
 
 
 
「うーし、一時間の休憩。 その後、一回通して演るからな」
 
祐一の声と共に、その場の空気が一機に弛緩する。
ある者はその場に大の字に倒れ伏し、ある者は冷たい物を求めて自販機に走った。
無理も無い。
徹底した情報非公開制を取っているため、体育館の窓は全て閉じられ、更には暗幕まで掛けられているのだ。
十月初めの時期とは言え、めちゃくちゃ暑い。
舞台上の役者は更にその上にスポットライトを当てられるのだから、倍率ドン。
実際、ここ数日で何人が暑さと寝不足のために倒れたのか判らない。
 
「この暑さ、どうにかならないかしら」
 
さすがの香里も暑さには敵わない様子で、胸元をぱたぱたさせながら監督の元へと歩み寄る。
セクシーだった。
 
「校長と話し合った時、体育館にクーラーを設置させるべきだったか……」
 
脅迫を話し合いと言うのならば、確かに話し合いだっただろう。
香里のセクシーな胸元に一瞥もくれる事無く、バンダナ代わりにタオルを頭に巻いた祐一が言った。
汗が祐一の髪を濡らし、自慢のもみ上げが普段よりも長く、鋭く、祐一の頬を彩っている。
通常時はヘヤースタイルなどにトンと無頓着な祐一だけに、まるでジェルでも付けてセットしたかのような髪はそれなりに格好良かった。
そう、この汗からも判るように、監督兼主役級の役者である祐一の疲労度は一般生徒の比ではない。
それを言ったら香里もそうなのだが、自覚の無いフェミニストである祐一は香里の負担を極力減らすように勤めていたりする。
その所為で自分が更に苦労する事も厭わずに。
 
「本番はこれに観客と衣装だろ? 集団自殺としか思えない有り様になると思うんだが」
「同感ね。 死人が出ない事を祈るわ」
 
死屍累々の現状を憂い、冗談抜きの二人だった。
香里は腰に手を当てて、祐一は腕組みをしながら、もう一度体育館内を見まわした。
二階部分の窓は開け放たれているが、何の効果も無い。
教室塔ですらその気温は30℃を越し、室内では38℃を越えている。
おかげで喫茶の模擬店をやっているクラスはうっはうはだった。
かと言ってイベント系のクラスが不調だった訳ではない。
爆発した若さは暑さなど完全に凌駕していたのだ。
問題なのはそこから先。
気力が体力をカバーし切れなくなってきているのが今の3−Bの状況なのだ。
出来る事なら前日の今日くらい完全な休息を与えたいが、それすらもままならない。
最終確認だけですら一日を潰しかねない劇の内容量がその原因だった。
結局はこうやって、皆の体力が尽きない事を祈りながら唸っているしかないのだ。
魔法が使えるのならば、MPが尽きるまでホイミかケアルを唱えてやりたい。
祐一は本気でそう思った。
と、その時。
 
「ボルヴィックスプラーッシュ!!」
 
けったいな掛け声と共に、二人に向かって冷水が浴びせ掛けられた。
 
「ひぃぁあっ!?」
「ぬあっ!!」
 
水も滴るいい男といい女。
透ける香里のブラ(白)なんかに目もくれず、祐一は憤怒の表情で振りかえる。
振り向いた先には、まぁなんと言うか当然の如く北川がいたりした。
手には空になったボルヴィックのペットボトルを持って。
 
「こんな暑い中で考えこんでんなよ。 頭ショートするぜ」
「だからと言って冷水をいきなり掛けるな。 心臓がびっくりして止まるだろ」
「止まったら俺が人工呼吸してやるよ」
「……ギャグだと思うから一応突っ込んでおくけど、人工呼吸と心臓停止はまったくの無関係よ」
「更に言わせてもらえば、お前の人工呼吸で目覚めるくらいなら俺は死を選ぶ」
「………」
「………」
「………」
「………クリスタルガイザーウェーブ!!」
「だぁっ!」
「きゃぁっ!」
 
今度はクリスタルガイザーかい。
思う間も無く、祐一と香里は二度目の冷水シャワーを浴びる事となった。
火照った身体に、心地良かった。
だけれども北川の行為を肯定はできない。
肯定した瞬間、文字通り滝の様に冷水を浴びせられるような事態に陥りかねないからだ。
タオルを絞り、ぎっちり締め直してから何か一言文句を言ってやろうと口を開いたところで、北川に機先を制される。
その目は、妙に楽しそうだった。
 
「難しい顔するくらいなら劇なんて辞めちまえ。 この世は楽しんだ者勝ちだ」
 
そう言って、自らもミネラルウォーターを頭から被る。
飛び散る飛沫、反射するは暗幕内の電飾。
頭からつま先まで、それこそ全身びしょぬれになりながら、しかし北川は笑う。
それはここ十日ほどの期間で日に日に更新される、『今までで一番』の笑み。
ペットボトルが空になり、落ちる水が無い事を知ると、北川は塗れた髪をオールバックにした。
まるで別人のような様相は長きに渡る舞台稽古の賜物か。
あるいは、祭りの雰囲気に照らされたか。
兎にも角にも、北川は今だ滴る雫に彩られながら、祐一の顔をびしっと指差し、不適に言い放った。
 
「楽しめよ。 この二日間に限り、学校は楽園【パラダイス】だぜ?」
 
忘れてたか。
忘れていたと言うのか?
この俺が?
否。
断じて否!
不肖相沢祐一、この世に生を受けてから十八と僅かながら、祭りと名のつくものを楽しまなかった覚えなど一度も無い!
 
「上等」
 
何本買ったか判らないが、未だ北川の腕に数本抱えられているエビアンのペットボトルを分捕り、親指だけでキャップを弾き飛ばす。
勢い良く飛んだキャップの行方を確認もせず、祐一もまた、ミネラルウォーターを頭から被った。
旋毛から首筋を通り、冷気が身体を駆け巡る。
同時に、暑さと疲労で萎えていた気持ちが湧き上がるのを感じた。
それこそ、相沢祐一が相沢祐一たる所以でもある一種の自己同一性【アイデンティティー】
 
そうだ。
これを無くしちまったら、俺は俺じゃないだろ?
先を憂う思考回路なんか捨てちまえ、邪魔臭い。
今の俺がしなくちゃいけない事は、一番したい事は――――たった一つ!
 
頭に巻いたタオルを取っ払い、汗とミネラルウォーターで濡れたTシャツも脱ぎ捨て、祐一は天にまで響くようにと声高らかに吼えた。
 
「起きろコラぁ! 祭りはこれからだぞてめーら!!」
 
その熱き猛りに、体育館に残っていた野郎も、全員吼えた。
 
 
 
 
 
 
* * *
 
 
 
 
 
 
熱い一日が終わる。
未だその興奮冷め遣らぬ生徒は、一時的に集められた体育館の中ですら祭りを終える気は無い様子だった。
もっとも明日も祭りは開催されるのだが、一般開放の日は今日とはまた雰囲気が違う。
校内だけで騒ぐから、楽しいのだ。
それに、一般開放される日は先生も本気を出す。
今日の様に何から何まで好き勝手な事は出来なくなると思っても良い。
具体的に言えば、野球拳は禁止だぞ2−D。
 
完全自由な祭りは今日で終わる。
高校の文化祭が初めての一年ですら、その事は理解している様だ。
少し、名残惜しい。
出来るなら、この祭りが終わらなければ良い。
退屈な日常には戻りたくない。
授業、テスト、課外、模試。
真四角な教室で真四角な生活を送るのは嫌だ。
 
だけど、そう思う事が無駄だって事も判ってる。
曲がりなりにも高校まで進んできたんだ、馬鹿じゃない。
『どうにもならないこと』くらい弁えている。
ただ、ほんの少し寂しいだけだ。
 
「ただいまより、華音高等学校文化祭、第一日目の閉祭式をおこあぁっ、ちょっ、何をするんですか!」
 
寂しさ故に俯き勝ちになっていた生徒が、一瞬で上を向く。
目の前では、今まさにマイクが何者かによって奪われようとしている真っ最中だった。
だ、誰だアレは。
って言うか何をしているのだ。
誰も、誰一人としてその問いに答えられる者は居なかった。
ただ呆然と壇上で行われているもみ合いを見ているだけしかできない。
あ、司会進行の生徒がカーテンの裾に蹴飛ばされた。
って言うかあれってホラ、三年の………確か………
 
「あー、あー、マイクテスマイクテス。 びーばっぱぱらっぱ ぱっぱっぱらっぱ」
 
マイクを手に取り、さも自分の持ち物であるかのように弄ぶ。
どうでも良いが、何故に今ごろスキャットマン・ジョンだ。
 
あまりに唐突な出来事に一瞬我を忘れていた生徒指導教師が、己の責務を果たそうと壇上に駆け上った。
そして、数人の体格の良い男子生徒に取り押さえられた。
多分、事前に話をつけられていた柔道部員だろう。
なんて手際の良いマイクジャックだ。
 
「えー、あー、げふんげふん」
 
一つ二つ、セキ払い。
照れ隠しのつもりだろうか。
いや、壇上で照れるような人物はマイクジャックなどはしない。
 
普通の話し声では隣の奴までですら声が届かないほどのざわめきが巻き起こる。
それは、ひょっとしたら本能的なものだったのかもしれない。
これから起こるであろう『何か』を敏感に感じ取った熱き若き魂。
ざわめきは次第に一つに集結し、大きな奔流となって体育館を揺らそうとした。
まさにその時。
 
「お前等、まさか祭りがこれで終わりだとか思ってないよな」
 
一声。
たった一声で、今にも天を突こうとしていたかのようなざわめきが完全に消えた。
息を呑むのすらも禁止されたかのような沈黙。
長い、永い、数秒間。
無性に、楽しかった。
 
「終わりたい奴は帰れ。 この場に残る事を、俺は強制しない」
 
淡々と。
まるでシナリオを読むかのように淡々と。
壇上の生徒は語る。
だけど、その内にある熱いモノは確実にその場に居る皆に浸透していった。
 
そこで少し、間を置く。
焦らすように全校生徒の反応を確認する。
そんなもの、確かめなくったって判っているくせに。
 
小さく一息つき、目を閉じ、そして見開き、彼の口が再び言葉を紡ぐ。
もちろん、始まりの言葉を。
 
「だがな、祭りの終わりなんてのはそう簡単にはやってこないもんだぜ」
 
ニヤリと笑う。
不適に笑う。
ああ、この先輩は何かを企んでいる時にはこういう笑い方をする人だったなぁ。
一部の、彼を知る人間は即座に感じ取った。
彼を知らない人もまた、その笑みに何かを感じ取ったのか、今にも叫び出したい衝動を胸の奥に感じていた。
だが、まだだ。
まだ『早い』。
 
人生の中で、本気で叫べる瞬間なんて言うのはそうそう訪れない。
痛くても、悲しくても、嬉しくても、楽しくても。
年を重ねるほどに、ソレは難しくなる。
恥とか体裁とか余計なものが纏わりついて、人はその内面に全てを圧し留めてしまう。
だけど今は。
 
感謝しよう。
多分、明日になったら生徒指導担当の先生にこっぴどく怒られて、下手したら停学になってしまうかもしれない壇上の彼に。
彼が誰で、何の目的であそこまでやっているのかは判らないが。
感謝しよう。
久しく忘れていた、感情をそのまま声に、身体に表せる機会を与えてくれた喜びに。
ハレルヤ!
 
「……何をやってるんですかあの人は」
「良いじゃないですか。 みんな、楽しそうですよ?」
「本当に学校が無法地帯になってしまいますよ……」
「北川さんが、この二日間だけは何をやっても良いって言ってました」
 
それにしてもやり過ぎだろう。
天野美汐は、鈍い諦観の意を込めた眼差しで壇上の先輩を見やった。
 
なんて活き活きとした表情だろうか。
出会った頃とはまるで違う。
あの頃は何処か憂いを帯びた瞳で、偶に見せる笑顔も贖罪を背負った儚げなものだったのに。
いや、むしろこっちが本質なのだろう。
見抜けなかった自分が浅はかなのか、いや、それも含めて自分はきっと彼の事を………
 
「ふぅ。 惚れた弱み、ですね」
「何か言いましたか?」
「いいえ? それより、美坂さんはこのまま体育館に残るんですか?」
「勿論です。 こんな機会、滅多に無いですから」
「滅多にあったら困ります」
「天野さんは帰っちゃうんですか?」
 
問われて、ふと周りを見まわす。
オールスタンディングだった。
自分が落ち着きすぎているのだろうか、皆のテンションが上がり過ぎているのだろうか。
奇妙なギャップがそこにはあったが、不思議と不快感は無かった。
 
「どうせなら水瀬先輩や美坂先輩の所に行ってみましょうか」
「あっ、それナイスです」
「多分、私達以上に呆気に取られてるでしょうけどね」
 
呆気に取られると言うか、むしろ呆れた気になっていた。
 
「相沢君だけじゃないのよ? 北川君も斎藤君も佐々木君も佐藤君も、って言うか男子ほぼ全員が何時の間にか列から居なくなってるんだから」
「学級委員長の監督不行き届き、ですねっ。 お姉ちゃん」
「男子だけで何かコソコソ話してると思ったら、こう言う事だったんだねー」
「一言ぐらい言ってくれたって良いと思わない? 何でこんな……」
「誘って欲しかったんですよね、お姉ちゃんも」
「ばっ、なっ、何言ってるのよ!」
「うー、私にも教えてくれなかった」
「………」
 
教えたら参加しようとするだろう。
参加したら、その後の処分も免れないだろう。
その事を見越して、だから。
相沢さんは先輩方を巻き込みたくなかったんですよ、きっと。
楽しみだけは共有し、その背後の様々なものは自分だけが背負う。
何とも相沢さんらしい考えじゃないですか。
 
美汐は祐一の思いを悟り、だけどその思いを誰にも教えようとしなかった。
 
相沢さんのさりげない優しさを知って、これ以上恋敵が増えるのは御免ですからね。
判っているのは私だけで十分です。
 
とか思っていたとかいないとか。
 
額に大きな怒りマークを張りつけた香里と、汗マークを貼り付けた名雪。
祐一の主催する無法地帯の雰囲気に嬉々としている栞と、達観した微笑を見せる美汐。
そして、その場に混在する全ての人々の様々な感情を乗せ、更に高まる体育館内の熱。
それはもう、臨界点に達する寸前だった。
 
「てめーら準備は出来たか!?」
 
先ほどとは打って変わった、叫ぶような口調。
鋭い眼光。
そして、最高に楽しそうな笑み。
そうだった。
そう言えばそうだった。
この学校には、自分達の代には、目の前の壇上には、不可能を可能にしてしまう先輩が居たではないか。
 
じわり、じわりと湧き上がる『何か』の胎動。
何時の間にか拳は堅く握られ、座っていたはずの椅子に登っていた。
終わらない。
祭りは決して終わらない。
何時だって望めばすぐそこに。
 
「大道具! 問題は無いな!?」
 
演劇仕様の滑車によって手際良く配置されるスピーカー、ドラム、シンセ。
勿論、軽音部の部室から無断で持ち出してきたものである。
だが、それを咎めるような野暮な奴はこの場には居なかった。

「照明! 抜かりは無いか!?」
 
祐一の叫びに呼応するかの如く、眩い光りが帯となって壇上を照らし出す。
じりじりと肌に熱を感じたが、それすらも今はどうでも良かった。
 
天井に吊るされたバスケットゴールの上から颯爽と飛び降りた北川が、観客にもみくちゃにされながら壇上に上った。
二人は笑い、拳を付き合わせた。
 
華音学園内において、この二人を知らない人間は何処にも居ない。
春には入学式ジャック、修学旅行事件、生徒総会事件。
夏にはプール事件、模試廃止クーデター、体育祭での一騎当千の活躍。
教師陣は推して識るべきだった。
春も夏もやったのだから、秋にも彼等は何かを仕出かすものだと。
無論、多少の警戒はあったのだろう。
だが悲しいかな、何時でも彼等は最悪の予想の斜め上を行くのだった。
楽しそうに、笑いながら。
 
黒いベースを数回鳴らし、下がってきた前髪をもう一度ミネラルウォーターでオールバックにし、北川は準備が出来た事を祐一に目で知らせた。
合図を受け、深く息を吸う。
そして、ボタンが千切れ飛ぶのもお構いなしで荒々しく脱ぎ捨てられた祐一の、最後の夏服が、宙を舞った。

「一番相沢祐一、歌うは『学園天国』っ!」
 
そこから先はもう、何も判らなかった。
ただ、誰もが楽しいと感じる時が過ぎていった。
体育館を揺らすストンピング。
割れんばかりのオールスタンディングオベーション。
怒涛の歓声は遥か遠くの商店街に居た人々を驚愕させ、丘に住んでいる動物達をも脅えさせた。
果てしない開放感は、体育館の端で誰にも聞こえない怒声を張り上げている教師の存在を完全に無視させた。
誰一人、その場から立ち去ろうとするものは居なかった。
 
叫ぶのも。
踊るのも。
唄うのも。
その世界は、この小さな体育館の中だけに凝縮され、それ故に濃密に光り輝いていた。
学園は、楽園だった。
 
 
 
 
 
 
「Are You Ready?」
 
歓声が、爆発した。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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後書き
 
『D』の続編。
『学園天国』を歌うには相当に高い声が必要である。
ちなみに、フィンガー5の方。
 
 
用語解説
 
ボルヴィック → ミネラルウォーターの名前
クリスタルガイザー → ミネラルウォーターの名前
エビアン → ミネラルウォーターの名前