『あなたの父母を敬え』
 
旧約聖書、出エジプト記からの抜粋であるこの文章自体が発祥の由来となっている訳ではない。
精神論的な見地から言えば疑う余地も無くこの言葉に帰属するのだが、残念ながら今現在の日本で行われている祭事的盛り上がりとは無関係であると言わざるを得ない。
それでは何が始まりなのだろうか。
 
それは1908年にまで遡る。
最愛の母ジャーヴィスを失った娘アンナは、亡き母を悼んで沢山のカーネーションを捧げた。
この事が参列者一同に大きな感動を与え、やがて百貨店王であるジョン・ワナメーカーの賛同を得、同氏の店頭で五月第二日曜日に盛大な記念祭が催された。
これが、世に言う『母の日』の誕生の由来である。
 
多分に商業的意味合いが強くなってしまった事は非常に残念だが、それでも私はこの日を祝うだろう。
いくら通俗に満ちていようともカーネーションを送るだろうし、ステレオタイプ化された言葉だとしても『いつもありがとう』と言うだろう。
何故なら、私は私の母が大好きだからだ。
 
 
美坂香里、AO入試課題論文 『あなたの好きな祝日』より抜粋
 
 
 
 
 
* * *
 
 
 
 
「おかーあさん」」
「あらあら」
 
初夏の日差しも柔らかい五月の第二日曜日。
キッチンで朝食の準備をしていた美坂伊織さんに、真後ろから妙に楽しそうな声が掛けられた。
声の主は、勿論愛娘である長女と次女。
美人タイプの美坂香里と可愛いタイプの美坂栞である。
香里は兎も角、栞が日曜日の朝食前に起きてくるのは非常に珍しい。
それ故にか、伊織さんは些か驚いた様子で二人を見詰めていた。
 
「どうしたの? 二人揃って」
「お母さん。 今日は何の日だか知ってますか?」
「推古天皇の崩御した日?」
「………一応突っ込んでおくけど、絶対違うと思うわ」
「あら♪」
 
ころころと微笑んで、濡れた手をエプロンで拭く。
その仕草はとても綺麗で可愛くて、実の娘である香里ですら目を奪われるほどだった。
発言内容は綺麗でもなければ可愛くも無かったが。
 
「もう、相沢君みたいなボケは止めてよね」
「あら? あらあらあら?」
「な、何よ」
 
『相沢君』の言葉に異様に目を輝かせ、何処か含みのある笑いを見せる伊織さん。
対する香里は、何だか分の悪い空気を感じて及び腰になっていた。
しまった、失言だった。
 
「お姉ちゃん……最近帰りが遅いみたいですけどまさか……」
「栞まで何言ってるのよ!」
「と、言う事は」
 
頭の上にぺかっと電球を光らせ、伊織さんは胸の前でぽんっと手を叩いた。
 
「今日は祐一君をお父さんに紹介する日なのね?」
「ちっ! ばっ!」
「香里……今の話しは本当か?」
「っ!?」
 
地獄の底から響くかのようなおどろおどろしい声がキッチンに響く。
伊織さん以外の二人の身体が一瞬にして凍りついた。
それでも何とかして後ろを振り向くと、そこにはまあ何と言うか予想通りの形相で鬼が立っていた。
香里は思った。
やば。
 
「祐一? それは前に図々しくも家の中に上がり込んだゴキブリ野郎の事か!」
 
自分の父親の事ながら、香里はその沸点の低さに毎度毎度驚かされていた。
学校関係の事で北川から電話が入れば怒り、名雪に電話して祐一がちょっと電話口に出ればまた怒り、夕食時に栞が祐一の事をチラッとでも話せばまた怒る。
しかも突沸するから尚の事厄介。
一度など、本気で味噌汁の中に沸騰石をぶち込んでやろうかと思ったほどだった。
 
「ちょっと……いくらお父さんでも『ゴキブリ野郎』は聞き捨てならないわよ」
「俺の目を盗んでカサカサと娘に害を及ぼす。 ゴキブリでなくて何なんだ」
「誰が何時害を及ぼされたのよ! 私の友達に変な事言わないでっ!」
「そうですっ! 祐一さんは私の将来の伴侶なんですから!」
「「んなっ!」」
 
美坂栞、参戦と同時に爆弾投下。
愉快犯である事は最早疑い様も無かった。
 
「しししし栞っ! それはどう言う事だ!」
「長い間、育ててくれてありがとうございました。 栞はこの家を卒業します」
 
ぺこりんと頭を下げ、よよと袖口で涙を拭く。
伊織さんも香里も騙せはしなかったが、少なくともこの場での栞の演技は親父さんだけを騙せれば良いのであって、案の定親父さんは騙された訳であって。
 
「……香里。 相沢とか言う奴の家は何処だ」
 
そんな事、口が裂けたって教えられる訳が無い。
台所の棚をガサゴソ漁って包丁を持ち出している親父なんかには、絶対に。
 
「知らないわ」
 
ぷいっ。
学校では絶対に見せない可愛げのある知らん振りの仕方に、栞は思う。
お姉ちゃんは女としての武器を理解しなさ過ぎです、と。
もっとも使いこなされたら使いこなされたで自分が大変になるのだが。
 
「香里ぃぃぃぃ!! お前の可愛い妹がゴキブリ野郎の毒牙にかけられようとしてるんだぞ! それでも姉かぁぁぁ!!」
「とっ」
 
手刀一閃。
伊織さんが音も無く親父さんの背後に忍び寄り、頚椎に手加減とか容赦か言う感情を一切排除して一撃を見舞った。
とっても痛そうだった。
 
「ぐ……くぅ……」
「あら? ちょっと外れちゃったかしら。 ごめんなさいあなた。 痛かったでしょ?」
「し、死ぬほど……」
 
のた打ち回る親父さん。
その横で『一撃で意識を断たないとすっごく痛いのよ』とか笑いながらとんでもない事を言い放つ伊織さん。
転げ回る親父さんの事をつんつん突っ突く栞。
香里は思った。
栞はどちらかと言えば母さん似だ。
 
「それで、今日は一体何の日なの?」
 
やっと本題に入る事が出来る。
大きく溜息をつきながらも、本来の目的を達成できる事に香里は安心した。
出来れば変な人が転げ回っている人外魔境で言いたくは無かったのだが。
 
「今日は五月の第二日曜日。 つまり―――」
「母の日ですっ」
 
ちらっと栞に目配せをし、決めのセリフを言わせてあげる。
なんとも微笑ましい姉の姿がそこにはあった。
 
「どうせお母さんに『何が欲しい?』って訊いてもろくな答えが返って来ないだろうし」
 
勿論、冗談抜きで。
誕生日に『何が欲しい』って訊いたら、真剣な顔で『龍の牙が欲しい』って言われた。
そう言えば前日の『にっぽん昔話』は『かぐや姫』だった様な気がする。
 
「だから、私とお姉ちゃんで考えたんです。 今日一日はお母さんを家事から開放しようって」
「あら♪」
「これでも家事一般は得意よ。 お母さんは安心して好きな事をしてて良いわ」
「まあ♪」
 
普通のお母さんなら軽く流すか言葉だけ受け取っておいてその実影で手伝ったりするものだが、伊織さんは違った。
何しろ本当に嬉しそうに目を輝かせ、その顔は満面の笑みで彩られているのだ。
その反応には栞も香里も引き攣った笑いを返すしかなかった。
『お母さん、本当に家事とかを煩わしいと思ってたんだ……』
自分達のプレゼントを喜んでもらえるのは嬉しいが、こうまで喜ばれると普段の自分達の生活に漠然とした不安を感じる事もまた事実。
普段からもう少しだけお手伝いをしようと思ったとか思わなかったとか。
 
「と、とにかく。 今日はお母さんの為の祝日だから。 楽しんでね」
「そ、そうそう。 デートとかどうですか? きっと楽しいですよ」
「あら♪ それも良いわね。 でーと。 うふふふふ。 何年振りかしら」
 
ちょっとだけ頬を赤らめ、エプロンの前ポケットを口元まで持ってきて微笑む。
既婚者で二人の子持ちとは思えないほど可愛かった。
そんな伊織さんの表情の変化を見て、床を転げ回っていた親父さんも恥かしげに立ち上がった。
 
「い、いや、まいったな。 そんなに喜ばれるとお父さんも照れるな。 デートか。 何年振りだろうな」
「………何でお父さんなんかとデートしなきゃいけないのよ。 ひょっとしてお父さんバカ?」
「お母さんの休日を蔑ろにする気ですか? 配慮と言う言葉を知らないお父さんなんて嫌いです」
 
美坂姉妹、ステレオで砲撃。
その言葉には揶揄とか茶化すとかの表現は含まれておらず、心底から思った事を口に出しているだけだった。
愛する娘から機関銃の如く発せられる罵倒に、流石のお父さんも鼻白む。
バックには『ガビーン』の擬音が飛び出そうな勢いだった。
 
「なっ、だっ、普通お母さんがデートするって言ったらお父さんとだろう!?」
「寝言は寝てから言ってね」
「だからと言って白昼夢なんか見られても困りますよ」
「あらあら」
 
お父さん、撃沈。
しおしおとリビングのテーブルに突っ伏し、終いには『育て方を間違った』と嘆き始めてしまった。
栞は思った。
そんなんだからお母さんとデートさせたくないんです。
 
「で? お母さんは誰かデートに誘う相手がいるの?」
 
実際に居たら困るんだけど。
そんな事を思いつつ、やっぱり自分の素敵な母親の失楽園には興味が尽きない香里がそこには居た。
ちょっとだけ。
そう、ちょっとだけ仲良くお茶を飲むくらいの関係の人ならいても良いと思う。
例えば私が何時か誰かと結婚したとしても、相沢君や北川君といきなり絶縁する訳じゃないのだから。
そう考えるとお母さんにだって旧友とか幼馴染とかいてもおかしくは無い。
 
「石橋先生とかどうですか?」
「栞、うるさい」
「ぇう」
「なんで石橋先生なのよ。 あの人、もう50過ぎよ?」
「愛に年齢は関係ありませんっ」
「お母さんと石橋先生の間に愛があったら私は家出するわよ」
 
一瞬だけ自分の母親と担任教師の恋路を想像し、香里は想像以上に不快になった。
別に石橋がキライな訳ではなかったが、母親には釣り合わない。
それならまだ、栞の担任である細川先生の方がマシだ。
 
「細川先生は?」
「お姉ちゃん、少し黙る」
「うっ」
「なんで細川先生なんですか。 あの人、既に生え際前線が戦略的撤退の一路を辿ってるんですよ?」
「愛に髪の毛は関係無いわ」
「お母さんと細川先生とランデブーするくらいなら、私は髪を剃って尼になります」
 
全然まったくこれっぽっちも伊織さんの意見が反映されない姉妹の会話。
これはこれで微笑ましいものがあったが、何時までも続くものではない。
その事を地で示すかの様に、伊織さんは例によって例の如くぽむっと手を叩きながらにこやかに言った。
 
「それじゃあ―――――――――」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
H ―――――― 母の日にはデートをしよう ――――――
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「―――で、何で俺がですか?」
「しょうがないでしょ。 お母さんが『祐一君がいい』って言ったんだから」
 
午後1時。
噴水の公園に呼び出した相沢君は心底困惑していた。
そりゃあたしだって北川君のお父さんといきなりデートしろだなんて言われたら困り果てるのだけれども。
 
「お願いっ。 今日が母の日だってのは知ってるでしょ? それでお母さんに一日休みをプレゼントして、それで―――」
 
困り果てるのだけれども、それでもどうしても譲れなかった。
お母さんは普段から苦労ばっかりしてる人だ。
顔には出さないけど、娘だからあたしには判る。
それより何より、今日の母の日は本当に久し振りなのだ。
栞の病気が顕在化し始めてから、お母さんは殆ど笑わなくなった。
祝日も祭日も誕生日も無く、ひたすらに栞の回復だけを祈って生きてきた。
そして、栞が元気になって、今日は始めての母の日なのだ。
楽しんでもらいたい。
一日中、笑顔で居てもらいたい。
 
「だから―――」
「そんなに大袈裟に言うなよ。 俺はイヤだなんて一言も言ってないんだぜ」
「じゃあ……?」
「あんな美人の誘いを断ったらバチが当たるだろ。 デートのお誘い、ありがたく頂戴するよ。 それに」
 
にかっと笑って、相沢君は言葉を続けた。
 
「香里のお願いを断るってのは、俺の中では相当に難しい事柄でな」
 
五月の蒼い風が、強く吹き抜けた。
風に跳ね上げられる前髪を押さえようともしない相沢君の、普段とは違う様相に目を奪われる。
同時に感じる、ちょっとした胸の高鳴り。
それは本当に一瞬の事だったけれども、少なくとも不快な類の動悸ではなかった。
 
「じゃ、家に帰ってお母さん呼んでくるから」
「ゆっくりで良いぞ。 綺麗な女を待ってる時間ってのは中々に体験しがたいもんだからな」
「はいはい」
 
制服を脱ぐと、相沢君は途端に大人っぽくなる。
言葉使いも、態度も、目付きも。
ブラックジーンズに蒼い襟付きを着ているだけのラフな格好ですら、彼がやるのならば五月のデートに相応しい服装に思えてくるから不思議だ。
きっと産まれ付き、相沢君はそう云う一種の天性を備えているのだろう。
世の中の女の娘に恵まれない男性諸君がファッション誌を読み漁り、それこそ必死になって備え様としているスキルを。
そして、そう云う人に限って自覚が無いんだから……
ま、自覚が有ってやってるんだったらただのプレイボーイになっちゃうんだけどね。
 
 
 
 
 
 
* * *
 
 
 
 
 
「来て下さって光栄ですわ」
「こちらこそ。 五月の休日を伊織さんみたいな人と過ごす事が出きるのは光栄の極みですよ」
「あら♪ ダメですよ、そんなお世辞を言っちゃ。 うふふふ♪」
 
ダメ、と言いつつも相当ににやけた顔を隠そうともしないお母さんは、やっぱり娘の目から見ても可愛かった。
少なくとも、あたしには絶対に出来ない表情だ。
あんなに屈託なく、まるで少女の様に感情を表すなんて、絶対に。
 
「何処か行きたい場所ってありますか? 俺、こっちの街はあんま詳しくなくて」
「あらあら、若い子をエスコートする楽しみを奪われなくて良かったわ♪ デートコースは私に任せてね」
 
巧いです。
情報不足で女性をリード出来ないと云うのは、男の人にとっては相当な劣等感のはず。
付け焼刃の知識で繕おうとしない祐一さんも流石ですけど、それ自体を楽しみだと言って相手を和ませるお母さんは間違いなく『年上のお姉さん』として最高形です。
少なくとも、私には絶対に出来ないですね。
デートの時にあんなに余裕を持って振舞うなんて、私には絶対に。
 
「………」
「………」
 
茂みの中で互いに顔を見合わせ、あたしたちはそれぞれにぞれぞれの理由で少しヘコんだ。
栞がどんな理由でヘコんだのかは判らないけど、それでもその顔には明確に『負けましたえぅー』と書かれているから恐らく間違いではないだろう。
しかも栞の場合は相沢君に本気でホの字だから、普通の女として受けたあたしのショックよりも相当にダメージが大きいはず。
安心しなさい栞。
何がどう間違ってもあの二人が本気で付き合い始める事はないんだから。
って言うかそんな事になったらあたしは本当に家出するわよ。
義弟になるならまだしも、義父さんになるなんて絶対にイヤ。
それならまだあたしが結婚した方がマシよ。
しないけど。
 
「お姉ちゃん、動きましたよっ」
「え、ええ。 判ったわ」
 
栞の声で我に返ると、その言葉通り二人は並び立って公園を後にするところだった。
慌ててあたしたちもその後を追う。
勿論、絶対に気付かれないように距離を置いて。
その距離の所為で二人が何を話しているか間では聞き取れないけれども、相沢君も母さんも思わず見惚れそうなほど楽しそうな笑顔をしている事だけは確かだった。
自慢じゃないけど視力は2.0だし、見間違いではない。
ちょっとだけ思ってしまった。
あの二人、お似合いかもしれない。
 
「……なんかあの笑顔見てると凄く自分が惨めに思えてきます」
「……奇遇ね、あたしもそう思うわ」
 
髪の毛にくっ付いた葉っぱを払いながら、あたしは大きく溜息をついた。
こんなにも天気の良い五月の昼下がりに、自分はいったい何をやっているのだろうか。
その答えは勿論一つしかなかったし、また口に出したくないものでもあった。
故にあたしは無理矢理にでも自分の姿を客観視する事を止め、目的とする任務を強く再確認した。
 
『あたしは、相沢君を守る』
 
 
 
 
 
 
 
* * *
 
 
 
 
 
 
そもそもがストーカーまがいの事をする気なんてこれっぽっちもなかった。
お母さんが相沢君とデートしたいと言い出した時も、あたしが感じていたのは純粋なる驚きの感情でしかなかった。
彼に対する惚気もお母さんに対する嫉妬も、あたしの辞書にはこれっぽっちも載っていない。
むしろ心中穏やかではなかったのは栞の方だろう。
何しろ彼女は目下の所、どうやって相沢君のハートを射止めるかと言うその一点のみを追求して生きているようなものなのだから。
そんな栞が。
一生懸命な作り笑いをしながらお母さんを自分の想い人とのデートに送り出した栞を、あたしは同じ異性として尊敬する。
あたしが同じ立場だったら、きっともっと拙い笑顔しか創る事が出来なかっただろう。
栞は、強い。
自棄食いとして業務用のアイスをサラダ取り分け用のスプーンで食べていた事から察するに、恐らく胃の方も。
そこまでの決意をして送り出したのだ、今更後をコソコソ尾行(つけ)るような真似はしたくなかったはずなのだ。
ならば何故、あたしたちは二人の後を尾行ているのか。
それを説明する為には、ちょっとだけ時間を遡る必要がある。
具体的に言うと、二十分ぐらい。
 
相沢君がデートを快諾してくれた事をお母さんに告げた時には、もうそこにお父さんの姿はなかった。
栞よりも長く生きている分だけ、あたしの方が勘が良かったのかもしれない。
あるいは、あたしがただ単にお父さんと言う人を信用していなかっただけなのかもしれない。
どちらにせよ、本能のある部分が躍起になって警鐘を鳴らし始めたのは事実だった。
それも喧しいくらいに。
 
「栞」
「べらぼーめーです。 うぃっく。 こんちきしょーめーです」
 
アイスを抱えながらやさぐれている妹の姿にちょっとだけ頭痛を感じた。
どうやったらバニラアイスで酔っ払えるのよアナタは。
 
「おっ。 そこのナイスバデーの姉ちゃんも一緒にどうだいですー」
「結構よ。 それよりも……」
 
幾分声の調子を落とす。
気の所為じゃなければ、栞の表情も少しだけ真面目になった気がした。
 
「あたしの妹なら判ると思って言うわ。
 あたしは相沢君に対して一切の惚れっ気は持っていないしお母さんに対して嫉妬も感じていない。
 その上で、やさぐれている可哀想な妹の感情も判った上であえて言うわ。
 相沢君とお母さんのデート、尾行するわよ」
 
ごくっと、息を呑む音がキッチンに響いた気がした。
栞の表情が、冷凍庫に一ヶ月間放置されていたアイスの表面よりも硬くなる。
 
「理由は?」
「お父さんがいなくなった。 さっき探し出した包丁と共に。 これだけで説明は充分よ」
 
リビングに静寂が舞い降りる。
お互いに息をする事さえ忘れたような完全なる沈黙。
耳が痛くなるほどだった。
そして、そんな静寂の中に在ってもこの家の中からお父さんの気配は感じられなかった。
間違いなく、相沢君の命を狙ってる。
 
「異存は無いわね」
「それは、お父さんを殺す事に対してですか?」
 
大好きなバニラアイスよりも更に冷たい温度の答えが栞から返って来た事に、あたしは一瞬だけ身震いした。
だけど、気圧されてなんかいられない。
あたしにとっても相沢君は大事な大事な親友なのだから。
 
「見敵必殺。 見敵必殺よ。 敵を、見つけ、必ず、殺す。 以上が任務内容。 それ以上でもそれ以下でもないわ」
「SAD、『サド』ですか。 久し振りに聞きましたね、その言葉。 私の好きな言葉の一つです。 どちらかと言えば、私もサドですし」
「好き嫌いは自由だけど、プロフィールには書かない方が良いと思うわよ」
「乙女には秘密が必要、なーんて事は100年前から決められている事ですよお姉ちゃん」
「ええ、そうね」
 
秘密が多すぎるのもどうかと思うわよ。
心の中で突っ込みを入れつつ、あたし達は家を飛び出した。
ちなみに。
SADとは『Search & Destroy』の略である。
 
 
 
 
 
* * *
 
 
 
 
 
「ここは……」
「あら? 来た事ないのかしら」
「いや、むしろ常連ですが」
「まあ♪ それはそれは、うふふふ」
 
意味ありげな微笑で、ぐいぐいと祐一の手を引っ張ってゲーセンに入っていく伊織さん。
何と言うかメチャクチャ楽しそうだった。
どちらかと言えば美術館とかが似合いそうな雰囲気の伊織さんであったが、こうやってはしゃぎながらゲーセンにいる姿も妙に合っている。
結局のところ、可愛い人がするならば何をしても似合うのだが。
 
「早く早くっ。 逃げちゃいますよ」
「伊織さん、ゲームは逃げませんよ」
 
本当に、微笑ましい。
祐一は先を急ぐ伊織さんの背中を見ながらそう思った。
どちらかと言えば栞の方が伊織さんの性格を色濃く受け継いでいるだろうか。
例えば、ああやって無邪気に笑えるところなんか特に―――
 
「あら、逃げますよ? ………カモが」
「かもっ?」

今『かも』って言った?
かもって、あの南蛮に入ってる鴨?
いやいやまさか、此処はゲーセンだから鳥が居る訳無いし。

「うふふふ、北家って事はオーラスに親番ですか♪」
「ま、麻雀ですか……」

うきうきしながら画面を見詰める伊織さん。
その眼前に在る機体は、八人掛けの出来る全国ネット対戦仕様麻雀ゲーム『MJ』だった。
紫のボディーが小僧には手の出せない領域である事を如実に語っている。
いや、実際に1プレイするだけで300円かかるし。
 
「ほーら。 此処に座ってくださいな♪」
 
ぽんぽんっと、自分の席の隣をはたく。
多少大きめの椅子とは言え、それは明らかに一人用。
そこに二人で座ると云う事は必然的に、その、密着度が高くなる訳で。
 
「イヤ……ですか?」
「全っ然。 むしろ照れるくらいに大歓迎です」
「あらっ♪ お上手」
 
にっこし笑う伊織さんはやっぱり可愛かった。
肩をくっ付けなければ座れないような状況下で、その可愛さはもはや反則に近い。
ちらっとでも動く度に、柔らかい薫りが鼻をくすぐる。
白い首筋が、不健康な蛍光灯にやけに映える。
真剣な表情で画面を見詰める姿は『可愛い』から『綺麗』に様相を変え、それら全ては確かに祐一の心を揺さぶっていた。
ついでに、その麻雀の腕も祐一の心を揺さぶりまくっていた。
 
「………そこで四萬切りリーチですか?」
「祐一君は、七萬切りを選ぶのかしら?」
「ええ、『待ちは多く』が確率的に一番信じれる道ですから」
「うふふふ。 若いわね」
「だって234457ですよ? 七萬切って三・六の平和で待つのがベストの―――」
「ろーんっ♪」
「一発っ?」
「りーち、いっぱつ、たんやお、ドラ1。 ね♪ ちょーど満貫っ」
「一発で出なきゃ5200止まりじゃないですか。 平和付きなら確定、一発でツモった事を考えれば跳ねるじゃないですか。 何で間六待ちですか?」
「そこが、若いのよ♪ 『いつか出るだろう』でリーチなんかかけてちゃダメ。 河と自牌の流れを読んで、『出る』って確信した瞬間に攻めなきゃ」
「はぁ……難しいですね……」
「恋と、同じよ♪」
 
振り向く。
目が合う。
たおやかな、笑顔。
めっちゃ可愛い。
祐一は思った。
秋子さんと同じく、この人には死ぬまで勝てない。
 
「栞はもうオープンリーチ掛けてるみたいだけど、祐一君としてはどうなのかしら?」
「………そう簡単には振り込みませんよ」
「あら♪ それは残念。 じゃあ香里は?」
「いや、香里はテンパってないでしょう」
「うふふふふ♪ あの娘はダマで回して仕留めるタイプよ? 迷彩も得意っぽいし」
「………まさか」
 
だとしても、テンパイ色が濃厚ならいくら俺だって気付くだろう。
どんなに迷彩を施そうが筋だけは必ず通っているはずなのだから。
とは思うものの、伊織さんが自身満々に宣言すると不思議な事に『そうなんじゃないか』とか云う気になってくる。
 
いっぱい考えてくださいね♪」
「………やれやれ、これならまだ麻雀の方が楽ですよ」
「恋は、楽じゃないけど楽しいわ」
 
口語じゃ判らない、言葉と漢字の掛け合わせ。
瞬時に理解して感嘆の念を抱く祐一の眼差しを、さも気付かない風にして伊織さんは椅子から腰を浮かせた。
 
「デートはまだ、これからですよ」
 
嬉しい、と素直に感じる祐一が其処には居た。
 
 
 
 
 
 
* * *
 
 
 
 
 
 
「ここは、通しません」
「栞。 貴様、誰に向かってモノを喋っている」
「十五年ほど前に私を産んでくれた最愛の母の、一時の過ちの相手。 で、合ってますか?」
「賢しい口を!」
 
止める事すら出来なかった。
お父さんの背中を見た瞬間に走りだし、背後から飛び後ろ回し踵落としを繰り出す栞を。
とんでもない高度と、速度と、気合だった。
だが、お父さんはそれを紙一重で避けた。
完全に死角からの攻撃だったはずなのに、まさかニュータイプ?
それと栞、あなた今パンツ見えたわよ。
 
「私は今日一日、女を捨てました。 
 想い人が自分じゃない女性とデートする事を容認した、その瞬間に。
 身が千切れそうなくらい痛かったけど、それでもお母さんが笑ってくれる為ならと、私も笑って今日を捨てた。
 それなのに今、お母さんの笑顔の邪魔をしようとしている人が居る。
 許せる訳が無い。
 許せる訳が無いんです!
 引かぬと言うのなら、お父さん。
 死んでもらいます、今すぐに」
 
不退転の闘志を込めた質量のある言霊【こえ】
間合いに入っていない私ですら、その重圧【プレッシャー】には気圧された。
今の栞は、ヤバイ。
 
「許せない……カカカカカカッ! 許せない、か」
「何が可笑しいんですかっ!」
 
癇に障る、笑い声。
心底バカにしたような粘ついた笑みに、栞の怒りが臨界点を突破した。
小さな身体をより小さく縮め、地を這うかのような姿勢で滑走する。
アレはもしかしてっ!
 
膝蓋骨に、両の掌打。
そこを支点にして身体を相手の股に潜らせながら、地を蹴って敵の後頭部を狙う。
観神【みさか】の奥義、『旭(イズルヒ)』
 
身体の小さい栞。
その短所を長所として用いるのがこの『旭』だ。
力に任せた攻撃力ではなく、急所を的確に狙う攻撃。
力も持久力も無い栞が、瞬発力を糧にして最も好んで使う技の一つだった。
そして多用される技なればこそ、その完成度も高くなる。
少なくとも『旭』に関する限り、私は栞に遠く及ばない。
速度も、正確さも。
だから栞が本気になって『旭』を発動した瞬間、完全に決まったと思った。
だが―――
 
「カカッ!」
 
第三者視点だから、見えた。
恐らく栞には何が起こったのか全く判らなかっただろう。
 
お父さんが、片膝で座った。
いや、座ったんじゃない。
所謂『クラウチングスタート』の姿勢になったのだ。
そこから、突進する栞を飛び越す形での超低空前方回転。
回転がちょうど栞の背中に到達した時、お父さんの姿勢は地面に対して真逆だった。
そして掴む。
栞の細い腰を、お父さんの両手が。
驚くべきは、いくら体重の軽い栞とは云え慣性の力が付随した栞の身体を抱えて更に回転を続けるお父さんの背筋力だった。
振り下ろされるマサカリの如く、限界まで湾曲された筋肉の反動までをも用いて、栞の頭部がアスファルトの地面に叩きつけられる。
陳腐な表現力で言えば、パワーボム。
確実に死を覚悟しなければいけないほどの速度と回転力が付いていた事を除けば、最終形はパワーボムそのものだった。
 
「栞っ!」
「……許せないから――――――どうするんだ?」
 
すっくと立ち上がり、地面に仰向けの状態で寝ている栞に向かって言い放つ。
その行為は、栞がその言葉を聴き入れる事が出来る状況に在ると言う事を暗に示していた。
生きていると云う事は、どうやら実の娘の頭部をアスファルトに叩きつける事だけは勘弁してくれた様だ。
お世辞にも元気な状態ではないけれど。
三半規管を死ぬほど揺さぶられた栞は、未だ起き上がる事もままならない様子で、だけど必死にお父さんを睨んでいる。
そんな栞を嘲笑うかのように、お父さんは遥か高みから見下すかの様に言葉を吐き捨てた。
 
「小娘。 八億年早いわ!」
 
久し振りに見る、お父さんの本気の目。
さっきの栞よりもあるいは強いかもしれない、殺気。
そうだ。
私は何か思い違いをしていた。
お父さんがここまで猛り狂っているのはなにも相沢君が憎いからじゃないのだ。
そりゃ憎い事は憎いんだろうけども、本質は其処ではない。
お父さんは、お母さんの事が本当に好きなのだ。
他の誰にも触れさせたくないくらいに。
………だけど。
 
「それが、お母さんの笑顔を奪う行為に直結される事は戴けないわね」
「香里。 貴様も邪魔をするか」
「邪魔? そうね。 お母さんの楽しい休日と相沢君の命を守る事がお父さんの行為を邪魔するのだと言えば、邪魔ね」
「俺の最愛は伊織だ。 その為には『二番目以降』を手に掛ける事も厭わぬぞ」
「あらそう? なら私も、『最下位』を手に掛ける事は厭わないわ」
 
横目で栞を見る。
雰囲気も何処と無くネコっぽい栞は元々の三半規管機能が強いのだろう、多少青ざめながらもしっかりと立ちあがっていた。
その目に宿る炎は、未だ消えてはいない。
 
「栞。 いけるわね」
「当然ですっ!」
「懲りぬか……愚考の極みだ!」
 
怒号。
瞬発。
眼前に顔。
 
「っ!」
「遅い!」
 
胸にゆっくりと当てられる掌。
感じる、『同調』
あたしの身体に流れる『全て』が、掌を通してお父さんと一つになった。
なってしまった。
そして次の瞬間。
 
「撥っ!」
 
内部(なか)から爆ぜた。
血液が沸騰し、逆流しているかのような熱さを感じる。
それは今までに感じた事の無い種類の衝撃だった。
身体は街路樹まで吹っ飛び、一瞬だけだが意識は成層圏にまで吹っ飛んだ。
 
「おねーちゃんっ!」
「だ、いじょうぶ……ではないけど、死んではいないわ」
 
咳き込む。
鈍痛。
胸骨が少し、軋んだみたい。
だけどそんな痛みじゃ、あたしは退かない。
 
「年頃の女の娘の胸に気安く手を置かないでほしいわね、まったく」
「ふん。 発展途上が戯言を」
「だ、そうよ。 栞」
「わ、私にその話題を振らないでくださいっ!」
 
言いつつ、肩を貸してくれる可愛い妹。
ついでに言えば、胸の隆起も可愛い程度。
大丈夫よ。
ああ見えても相沢君は結構ロリ好きだから。
 
「……なんか不愉快な電波を感じます」
「あら、鋭い」
「むー、お姉ちゃんっ! 今は―――」
「―――それどころじゃないわ。 倒すわよ、お父さん」
 
セリフの先読み、得意なのよね。
心の中で舌を出しつつ、栞の肩を離れて自身の足で地面を踏みしめた。
ぐらつかない。
大丈夫。
 
「宣言するわ。 今から私達は、一流ホテルのルームサービスがそうするように、ファーストクラスのフライトアテンダントがそうするように、お父さんに確実な届け物をする」
 
意図的にじゃなく、あたしはその時笑顔になった。
笑った理由は自分にすら判らない。
くすぐられた訳でもなく、面白かった訳でもなく、ましてや楽しかった訳でもないのに。
気がつけば、微笑んでいた。
それと同時に、指を銃の様に曲げてお父さんの眉間に向ける。
きっと本能的に識っていたのだろう。
『こう云う時』に、『こう云う役』の人は、『こうする』んだろうって事を。
 
「そう、その届け物の名は、圧倒的な【敗北】」
 
ぶちっ。
音がした気がした。
勿論、お父さんの『何か』が切れた音だろう。
さっきまでより、更に異質。
『殺意』に人間の皮を被せたらきっと今のお父さんみたいになるんじゃないかと、そんな事を思わせるくらいの形相だった。
あたしの中にもお父さんの遺伝子って入ってるのよね。
ちょっとブルーだわ。
名雪の髪ほどじゃないけど。
 
「来ますよっ!」
「栞。 月に祈りなさい」
「らじゃっ!」
 
瞬発力は、栞の方が上。
加速力は、あたしの方が上。
同時に駆け出したのならば、お父さんがさっきと同じかそれ以上の速度で反応したならば。
お父さんが今の位置から三歩前進したその場所が、あたしたちの特異点。
このタイミングなら、到達した時の位置的誤差は数ミリ以内。
伊達や酔狂で学年一位を取ってる訳じゃないんだからねっ。
 
疾る。
あたしの加速が栞に重なる一瞬前、栞が飛ぶ。
刹那にあたしは身を伏せる。
逃げ遅れた髪を掠める、お父さんの鬼人の如き前蹴り。
カウンターで当たったら、全治一ヶ月の入院コースにオプションで意識不明が三日間は付いてくるだろう。
栞の跳躍が、あたしの伏せが、コンマ数秒でも遅れていたら。
考えただけでも恐ろしい。
だから、考えるのをやめた。
 
真正面から、お父さんの足を後ろ側から刈る様に放つ下段回し蹴り。
全くの同時に、頭上で繰り出される栞の飛び後ろ回し蹴り。
上下で、そして前後で同時に挟む蹴撃。
逃れる術は、常人には無い。
 
全ての力を抜いた、浮遊とも言えるジャンプ。
地面と全く平行になるように位置されるお父さんの身体。
考え得る限り、たった一つの避け方だった。
やっぱりお父さんは常人じゃない。
あたしの蹴りも、栞の蹴りも、まるで空を切る様にその力を流される。
お父さんが、笑った気がした。
完全同時の挟み撃ちと云うのは、それに付随する方向に回転する事によってその効力を失う。
判ってたって出来る事じゃないけど。
 
そして。
しなきゃ良かったって思う事でもあるのよ。
 
狙う。
宙に浮いた姿勢じゃ、もう逃れる事は出来ない。
がら空きの脊髄。
下段回し蹴りの回転をそのままに、もう半回転。
足首に多大な負荷が掛かるけど、そんな事はお構いなしで自身の身体を跳ね上げる。
そして、昇竜の如き膝を。
 
お父さんの顔が笑った。
勝ち誇った笑み。
狙う。
お姉ちゃんが下から狙うであろう、その一点を。
後ろ回し蹴りを空振りした横回転を身の捻りによって無理矢理縦回転に。
無理な捻りで悲鳴を挙げる私の身体。
お構いなしで。
渾身の力を篭めて振り下ろす。
雷【いかずち】の如き踵を。
 
ドンッ!
 
打撃音が完全に一致した。
下からの攻撃であれば上に、上からの攻撃であれば下に。
ある程度は貫通し分散する衝撃が、この一瞬に限っては何処へも逃げる事なく、その全てがお父さんの身体に留まった事だろう。
だから、言ったでしょ?
圧倒的な敗北を届けるって。
 
「奥義、下弦」
「同じく、上弦」
 
聞こえているかどうかも判らない、恐らくは聞こえていないんじゃないかと思うけど、兎に角そんなお父さんに向かって。
 
「お父さんが倒せたのは、あたしだったから。 そして、栞だったから」
 
任務達成の晴れやかな気持ちと共に。
 
「初めてでしょ? 『満月(フルミツキ)』を味わったのは。 ちょうど良い機会だから教えておいてあげるわ」
 
隣に居る栞の肩を抱きながら。
風に揺れる髪を抑えながら。
五月の日差しを身体に浴びながら。
きっと今までのどんな気分よりも清々しい気分で言ってあげた。
 
「美坂の技は、表裏で一つ。 努々(ゆめゆめ)忘れぬ事ね」
 
ひょっとしたら自分もサドなんじゃないかと思った瞬間だった。
 
 
 
 
 
* * *
 
 
 
 
 
「それにしても、大丈夫なんですか?」
「なにが、ですか?」
 
本当に『何が?』と言いた気に首を傾げる伊織さん。
オプション、笑顔。
ダメージ800。
時折見せる仕草やら笑顔やらが実の娘である香里よりも少女っぽいと云うのは一体どう云う原理になっているのだろうか。
露店で売っていたソフトクリームを伊織さんに渡しながら、祐一はそんな事を思った。
もっとも、答えなんて始めから求めていないのだが。
 
「何がって訊かれると困りますけど……あえて言うとすれば美坂夫婦の仲、でしょうか」
 
正直言って、親父さんはかなり面白くないだろう。
祐一自身、他の人にはそうとは思われていないのだが、実は結構独占欲が強い方なのである。
好きな人が楽しいと感じる時間には、一分の例外も無く自分が関係していたい。
知らない所で泣いて欲しくない、笑って欲しくない、出来れば息すらも。
残念ながらそこまでの情愛を祐一はした事が無かったが、それでも自分の潜在意識の中に『そういう』欲がある事は自覚していた。
だから、判る。
生涯の伴侶に選んだ、それこそ一生をかけて愛していくと誓った相手が、他の男とデートする事が、いかに苦痛かを。
 
「そうねぇ……祐一君は、食べ物では何が好きかしら?」
「は?」
「た・べ・も・の。 ああ、でも『伊織さんを食べたい』とか言っちゃダメよ♪ もう、おマセさんなんだからっ♪」
「は、はぁ」
 
祐一は困惑した。
何しろ話に脈絡と云うものが全く無い。
具体的に喩えれば豚の角煮とローマ法皇くらい。
 
「えーと、あー、カレーとか好きですけど」
「まぁ、インド人ね♪」
 
誰がっ?
祐一の心の奥底で行われた激しいツッコミは、残念ながら伊織さんの心には届かなかった。
 
「カレーね。 うん、カレー」
「あの? 伊織さん?」
「じゃあね。 祐一君の望みが叶って、世界で一番美味しいカレー屋さんのフリーパス権が貰える事になったの」
「いや、そんな事望んで、いえ、はい、望みました、カレーが食べたいです」
 
僅かに眉が動いた。
たったそれだけの事で、祐一は伊織さんに逆らうのをやめた。
可愛いだけに、少しでも機嫌を損ねると恐い。
とても賢い判断だったと、後になってからも祐一はそう思うのだった。
 
「昨日もカレー。 今日もカレー。 明日もカレー。 明後日もカレー。 やの明後日もカレー。 そのまた次の日もカレー」
「………」
「どう?」
「どうって……多分だけど飽きるんじゃないかと」
「世界一のカレーなのに?」
「……そう云う事ですか」
「一概に同じ、とは言えないけどね」
 
言って、伊織さんはベンチから立ちあがった。
そして微笑みながら、祐一に向かって手を差し出す。
白魚のような、本当に家事をやっているのかと疑いたくなるような、細くしなやかな手。
あまりの神聖さに、祐一は一瞬だけその手を掴む事を躊躇った。
だが、結局は躊躇った瞬間を伊織さんに制される。
ぎゅっと握って、ぐいっと引っ張って、にこっと笑う。
 
「面白くないじゃない? 安心しきって暮らしていくなんて」
「そうなんですか?」
「偶には心配されてみたい。 嫉妬もされてみたい。 そしてまた、少しだけ絆を強くして生きてみたい。 それは、我侭かしら」
「……既に『切れない絆』を手に入れているからこそ言えるセリフですね、それは」
 
ガキの恋愛じゃ出来やしない。
不信感と不安と不満が募って崩壊するのがオチだ。
多少の傷じゃびくともしない確たる絆があればこその、ちょっとした悪戯。
やれやれ、本当に今日一日は『伊織さんデー』だな。
振り回されてるよ、完全に。
 
「ま、俺も楽しかったから良いんですけどね」
 
夫婦の絆の礎にされたとしても。
言い方を変えればダシにされたとしても。
間違い無く今日は楽しかった。
それだけで、祐一にとっての『今日』は十分に有意義なものだった。
だが
 
ちゅっ
 
「私も、楽しかったですよ♪」
 
頬に、口付け。
掠める様に、ほんの僅かに。
だけれども確かに感じた、唇の感触。
とても柔らかく、触れた個所を溶かす。
 
「あ、あ……」
「あら、ごめんなさい。 ひょっとしてイヤだったかしら?」
 
ぶんぶんぶんぶんっ!
軽い脳震盪が起こるほどの速度で、祐一が首を横に振った。
心なしか、頬が赤い。
それを見た伊織さんは、とても嬉しそうに。
最後の最後まで隠しておいたんじゃないかと思われる、最高で極上で妖艶で愛らしい笑みを浮かべながら。
祐一の頬をはしっと掴んで。
 
「祐一君が良いなら、口にもしちゃおっかなー♪」
「「ダメ――――――!!!!!」」
 
声、二つ。
完璧にハモって。
ベンチのすぐ後ろから飛び出してきたのは、他の誰でもない美坂姉妹だった。
 
『見敵必殺』の任務を終えた後、速やかに家に帰ろうとしたのは香里。
そしてそれを頑として許さず、それどころか香里に向かって新たな任務を発したのは栞であった。
新たな任務、『尾行』
前の任務に比べるととんでもなくやりがいの無い任務内容だったが、それでも香里はその命令に対して『サー』と答えた。
理由は一つ。
『出掛けに公園で見てしまった仲睦まじい二人の事が頭から離れないから』
どうしてそこまで気になるのか、理由が判らないだけに尚更この任務を遂行する事に躊躇いは無かった。
そして。
キス。
何でだかどうしてだかさっぱりと判らなかったが、とりあえずこれ以上黙って見ている事は不可能っぽかった。
 
「香里っ? し、栞もっ?」
「おかーさんっ! デートは認めましたけどそこまでして良いなんて言ってませんよっ!」
「……香里、覗きとはあまり良い趣味とは言えないぞ」
「ちがっ! あたしじゃなくて栞がっ」
「ほらね。 香里もテンパってるって言ったでしょ♪」
「だ、誰がよ! あたしはただっ」
「ただ……何かしら?」
「ただ……ただ……」
「お姉ちゃんも祐一さんがお母さんとキスするのが気に喰わなかったんです! 文句ありますか!」
「ちょっ! そんな事言ってないでしょ!」
「じゃあ香里はいいのね?」
「へ?」
「栞。 今なら祐一君とキスし放題よ。 お母さん公認っ♪」
「ほ、ホントですか?」
「い、伊織さんっ?」
「あら♪ 栞がイヤって事は、やっぱり私との方が……うふふふふ♪」
 
がしっ。
もう一度、頬を掴む。
祐一、抵抗、不可能。
迫る、唇。
理性、逃避。
 
「ダメダメダメダメ――――!!」
「あら香里。 何がダメなの?」
「お姉ちゃん……やっぱり」
「違うのっ! お母さんが、そうっ、お母さんが誰かとキスするのがイヤなのっ。 そうなのっ」
「あらあら♪ 苦しい言い訳ね♪」
「それじゃあ私ならお姉ちゃんも問題なしって訳ですね?」
 
がしっ。
今度は栞が下から、頬を掴む。
祐一、理性、皆無。
顔、真っ赤。
栞は思った、こんな祐一さんも素敵です。
 
「ダメったらダメったらダメ―――!!」
「むぅ、また邪魔ですかお姉ちゃん」
「いい加減に認めなさいな♪」
「な、な、何をよっ」
 
思わずどもりながらも、一生懸命に抵抗する香里。
勿論、無駄だった。
 
「ずばりっ、祐一さんの事好きなんでしょっ!」
 
ぅぼっ。
香里の顔が、燃えた。
近年稀に見る赤さだった。
香里は思った、これ以上赤くなったら多分死ぬ。
 
「ち、ちがっ、だ、誰が好きなもんデスカっ!」
「あらあら、非道いわね香里ったら。 そんなに祐一君の事を嫌わなくったって良いじゃないの」
「嫌いなんて言ってないっ!」
「じゃあ好きなんですね。 ラブなんですね。 恋に恋焦がれて独りで火照る身体を毎夜々々祐一さんを思いながら自らの指で慰めていたんですねっ」
「〜〜〜〜〜〜〜!!」
 
やたら生々しいなオイ。
祐一はカヤの外でそんな事を思っていた。
振り回されてばかりいる自分を思いながら、依然として赤みの引かない香里の顔を見ながら、五月の風に吹かれながら。
 
ま、取り敢えずはコイツ等と居れば退屈する事は無さそうだわな。
親父さんも伊織さんも、個性の固まりみたいな人だし。
栞は元気で可愛いし、香里は香里で可愛いし。
この中に入って『家族』をやれたらきっと楽しいんだろう。
等と、まるでプロポーズする寸前のような事を思う自分が居た。
 
「だが、まだだ。 まだ終わらんよ」
 
いずれどちらかを選ばなくてはならないとしても。
今だけはどっちつかずのクラゲでいよう。
考え得るどの選択肢よりも、それが一番心地良さそうだから。
 
そんな事を思いながら、祐一はもう一度アイスクリーム屋の方へと歩いていった。
やたらとヒートアップしている二人の可愛い『友達』の為に、美味しいアイスを買うために。
 
五分後、今度は親父さんが乱入してきて公園はそれはもう大変な事態になった。
死人は出なかった、とだけ明記しておく。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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後書き

えーと………10,000Hit記念のSSなんデスヨ?(現在120,000Hit)
リク内容は『SbMの14話みたいな感じで美坂母と父が出てくるコメディー』みたいな感じだったデスヨ?(実際は似ても似付かぬ内容)

あの、えーと、その。
色んな意味でゴメンナサイ。