公序良俗とかモラルとか世間体ってのは、きっと本気で人を好きになった事が無い人が言い始めたんじゃないかと私は思っている。
だって。
そんな言葉じゃ私の動きを一分だって鈍らせる事は出来ないし、もちろん私を繋いでおく鎖にだってなれはしない。
自分の倫理は自分で決めるし、それが他人に迷惑をかけない限りはひたすらに突っ走る。
後悔は後でするもの。
今はただ、あの人の元で幸せだと思い続けていたい。

私の愛する。
私の父親。

相沢祐一の傍で。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
I ――――― I LOVE MY FATHER ――――――
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

『BOUND・DOG』


僅か5歳の女の娘に今後の人生を左右するかもしれない選択肢の決定権を授けるなんて親の怠慢でしかない。
と、両親に対して憤慨していた10歳の頃の私の思考を、15歳になった私は今でも覆さずにむしろまったくその通りだと思いながら日々を生きている。

夢を持ったおとう(お父様)が好きで結婚したお母様は、夢しか見ないおとうに愛想を尽かして離婚したと、家政婦のトメさんから聞いた。
夢を持った自分を好きだと言ってくれたお母様の為に夢を持ち続けたら愛想を尽かされてしまったと、何時ぞやのおとうは力無く笑いながら言っていた。
子供心ながらに、ワガママなのはお母様の方だと思った。

それでも離婚に際して私がお母様の方に引き取られる事を選んだのは、少なからず打算的な考えが無かった訳でもない。
要は、お母様の実家に遊びに行った時に美味しいお菓子が沢山だされたと云うだけの事だった。
5歳児にはそれで充分だったのだろう。
毎日の美味しいお菓子、それだけで世界が埋め尽くされていた甘い季節。
それはほんの短い間の幸福。
小学校高学年になった頃には、私はもう、お菓子を食べなくなった。

「あのなぁ。 俺ん家に入り浸るのも程々にしとけよ? 佐祐理さんが可哀想だろ」
「三日ほっとくと部屋を熱帯雨林にするおとうにそんな事を言う資格は無いのです」
「熱帯雨林とまで言うか。 せめて亜熱帯あたりで勘弁してくれないか?」

そーゆー問題じゃないのです。
脱ぎ捨てられたTシャツを拾いながら、私はわざとらし過ぎるほどわざとらしい溜息をついて見せた。
肺がぺったんこになるまで息を吐いた後に、すーっと思い切り息を吸い込む。
身体に満たされる、おとうの匂い。
大人で、子供で、父親で、男性の匂い。
何とも甘美に、身体の末端までをも甘く痺れさせる。
はふぅ。
これだから、ここに来るのは辞められないのです。

「男の匂いに酔うにはまだ早い。 せめて処女膜やぶられてからにしろ」
「おとうなら、いいですけど?」
「バカ言え。 お前のちっちゃい×××じゃ収まらねーよ」
「それはさりげな自慢ですか?」
「男を挑発するのも、まだ早い」

そう言うと、おとうは冷蔵庫からウォッカのビンとグレープフルーツを取り出した。
私とおとうの間では『バウンド・ドッグ』と呼ばれている飲み物を作る材料だ。
作りとしてはソルティー・ドッグのスノウレスなんだけど、カクテルと呼ぶにはあまりにも原始的に、あまりにも素敵に作られる飲み物を既成の言葉で括るなんて野暮は私もおとうもしない。
ウォッカをグラスに注ぐ。
その上で半切りのグレープフルーツを、おとうが素手で握り潰す。
おとうに向けてだけ、もの凄く敏感な私の味雷が感じる事の出来るおとうの掌の味が加味された果汁は、苦いのに甘くて少ししょっぱい。
そこに熱いスピリットが混ざればもう、私とおとうの間には何も要らなくなる。
いっつCOOL、です。

「ほらよ。 お前の歳で酔うのは、自分と酒だけにしとけな」
「ふぇ? 自分は良いのですか?」
「自分で自分に酔えるくらいじゃなきゃ、誰かを酔わせることなんて出来ないだろ」
「……キザ」
「そんなところが嫌だったんだとよ」

勿体無い、と思った。
こんなにも独りの似合う男の人を一度は手にしておきながら、自らその所有権を放棄するなんて。
少なくとも私がおとうと対等に恋愛できる年齢だったら絶対に見過ごしはしないし、手に入れたなら一生をかけて首輪を付けておく。
他の誰かを、噛ませたりしない。
噛んで良いのは私の手だけ。
好きなだけ噛んで、好きなだけ舐めて、そして私はおとうをますます愛しく鎖に繋ぐ。
ああ、飼い犬に手を噛まれるってのは、飼い主にとって最大の喜びだと私は思うですのに。

「……なんか不穏な事考えてないか、お前」
「おとうが私の裸を見た時に心の裏で何事かを思う程度には」
「それにしたって、俺を飼い犬とか表現するのはどうかと思うぞ。 仮にも父親なんだから犬扱いは勘弁してくれ」
「……く、口に出てたですか?」
「ばっちり」
「ふぇっ」
 
 
 
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『ハーブ』


例え三者面談がどのような運びになったとしても、その決定ないし結論は今後の私の人生に何の影響も及ぼさないだろう。
なんて事は14歳の小娘ながら確固たる意志を持って言う事が出来る数少ない事柄の中の一つだった。
三人で話したから、何だと言うのか。
親に言いたい事があるなら親に言えばいいし、私に言いたい事があるのならば私に言えばいい。
その二つを一遍にやってしまおうと思って考えついたのがこの三者面談とか云うふざけた怠け制度ならば、私はローファーの踵で思いっきり踏ん付けてやるです。
と、おとうに言ったら「それじゃあまずタイムマシンでも創って過去に飛ばなきゃなはっはっは」とかまるっきり真剣味の無い答えを返された。
ので、発案者の変わりにおとうの足をふみっとしてやった。
その時の私の足は裸足で、なおかつお風呂あがりの所為で柔らかくふやけてはいたけれど、それもまぁ些細な事だと思った。

「お願いです。 ご要望とあらばこのうら若き身体を差し上げても構いませんからどうか―――」
「却下、だ。 第一してお前の貧相な身体なんかいるか」
「こ、こんなにぴちぴちですのに?」
「っは。 この俺を、若さだけが武器の小娘に群がるような腐れオヤジと一緒にすんなよ」

冗談じゃない。
一緒にしてたら、この身体を差し出そうとなんかしない。
誰よりもその感性やら美意識やらを愛しいものだと思うからこそ、十四年間護り通した純潔を捧げても良いとまで言ってるのです。
お風呂あがり故にだけじゃなくTシャツとパンツだけでおとうの膝の間に座り、背中をその広い胸板に預けながら私はそんな風に思った。
おとうの心臓の響きが、私の芯を強く揺さ振る。
気を抜けば心地良さの余りに身震いしてしまいそうな、官能。
ふぇ?
背徳?
それって、快楽と云う名のメインディッシュを引き立たせるハーブの一種ですか?

「と、それよりも。 ねぇおとうってばー。 お願いですからー」
「却下だ却下。 てか俺に言うな。 そーゆー事は佐祐理さんに言え」
「お母様に頼みたくないから、おとうに頼んでるですのにー」
「ふむ? そいつは解せないな。 俺の娘であるからには今後の人生に不利になるような事をわざわざするようにも思えないし」
「当たり前です。 おとうと違って普通にしていれば優等生の評価を得られる学校生活で不良と呼ばれるような事をするほど愚かじゃありません」
「帰れ」
「ふぇっ。 図星はやめた方が良かったですか?」

ばこっ!

前略お母様。
私は実の父親に叩かれました。
本当の事を言うと叩かれてしまう今の日本は病んでいると言わざるを得ません。
次いで、非常に痛いことをここに明記しておきます、まる。

「で? 何でそこまで俺を三者面談に駆り出そうとする。 自慢じゃないが立派な親を演じきる自身なんか無いぞ」
「立派な親が必要なら真っ先にお母様にお願いします。 そうじゃないからおとうに頼んでるのです」
「お前が必要としてるのは?」
「相沢祐一、その人です」

夢の為に金を稼げば、夢に惚れた嫁が逃げていく。
夢にのみ生きていけば、生活と自分を見てくれないとやはり嫁が逃げていく。
そんな三文小説ばりの人生を送ってきたおとうだからこそ、私の三者面談に来てほしい。
先生が何を言おうと、私が何を言おうと、平然と窓の外の空を眺めて「とんびが鳴いてる」とか言い始めるようなおとうにこそ来てほしいのだ。
お母様じゃダメ。
きっといろいろ悩んじゃう。
学力とか、進学先とか、そのまた先の将来とか。
不必要なほどに様々な事を思い、しかも自分でその設計図を描こうとしてしまう。
そして私が設計図から逸れた道を行けば、それはまた自分の責任だとか思うに違いない。
自分を責めるに違いない。
まったくもって勘弁してほしい。
私の素敵な人生は。
お母様やまして三者面談なんかじゃハンドルすら握れないほどジャジャ馬仕様だと云うのに。

「私の人生の舵を取れるのは、私自身とおとうだけだから」
「取る気は無いぞ」
「いいの。 権利を持ってるってだけ。 それだけでいいのです」

自分の人生の行く末を委ねる事が出来る人が居るって事実は、それだけで私をもの凄く安心させる。
殆どの人はその存在を人生の伴侶としてしか認識してないみたいだけど、それならそれで別に間違ってはいない。
私の伴侶は、恐らくは生まれた瞬間から決められていたようなものなのだから。
無論、私の意思によって。

「来てくれるよね。 私、本気でお願いしてるよ?」
「卑怯な言い方だ。 断る術が俺に無い事を知っててそんな風に言いやがる」
「じゃあっ?」
「やれやれ。 スーツ着るのも髪を上げるのも久し振りだぜ」

ぼさぼさの髪を手櫛で掻き上げながら、心底めんどくさそうに溜息をつくおとう。
だけど、自分の肩越しに見上げたその表情からは確かに『めんどくさい』以外の感情も読み取れた。
娘に頼りにされて嬉しいんだけど、それを素直に表すのはちょっと恥かしいからぶっきらぼうな態度をとっておこう、みたいな感じ。
ああもぅ。
どこまで素敵なのですかあなたは。

「おとう大好きっ」

ぎゅっと。
背中を預けている状態から向き直って、私はおとうの胸にダイブした。
感極まってが、半分。
もう半分は勿論、冷静にかつ情熱的におとうの抱き心地を楽しむ為にだ。
こんな時、おとうは絶対に抱き返してくれないけれども。
その分だけ私が強く腕を首に絡ませればそれで良い。
世界は、おとうの匂いとおとうの身体だけになる。
びばっ。

「あー、北川とかに見られたら絶対に誤解されるんだろーなコレ」
「誤解じゃないです。 少なくとも私にとっては」

三者面談で。
ひょっとしたら言っちゃうかもしれないですよ?

『それでは祐さんは、卒業後の進路をどのように考えてますか?』
『それならもう決めてます。 この人と生涯を共に、死ぬまで共にするのです』

って。
 
 
 
 
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『KISS・IN・THE・DARK』


一体何をどうしたら世間一般の高校生という物はあんなにも辛そうな顔をして一銭の得にもならない『部活動』なるものに汗を流し時間を費やせるのか。
今現在の所、私にはその疑問に対する答えをこれっぽっちも持ってなかった。
「楽しくてしょうがありません」みたいな顔をして汗を流している人を見たことなど今までに一度も無いし、実際に「楽しくてしょうがないよ」と言っているのを聴いた事も無い。
実際には楽しくてしょうがないのに不貞腐れたり無気力を装う事が格好良いと勘違いしているとしたら、それもまた無駄な努力だと思う。
どうしてもっとこう、自分がしたい事だけを為そうとしないのだろうか。

そんな考えを持つ私は、当然強制でない高校の部活動に所属するはずも無く、高校時代のおとうと同じように帰宅部街道を爆進中だった。
何しろ私は忙しい。
月曜日には茶道、火曜日には書道、水曜日には華道、木曜日にはお琴、金曜日にはピアノ、土曜日には日舞とバレエで日曜日には教会礼拝。
”あの”倉田家の一人娘である所の私には、世間一般的に言う所の『お嬢様』な習い事が数多く圧し掛かっているのだ。
それ以外にも、それ以外の部分で私自身がおとうの横を歩くに相応しい女であるべく日々の研鑚を積まなくてはいけないし。
さらにこれが一番大切なのだが、意外でもなんでもなくモテまくる実の父親の周辺をウロウロする小生意気な女どもを蹴散らさなくてはいけない。
まったくもって忙しい。
そんなこんなだから、私には部活動とかにうつつを抜かしているヒマなんてこれっぽっちも無いのである。

「おとう。 ちょっとここに座りなさい」
「いや、もう座ってるんだが」
「正座でですっ。 それからチーカマもテーブルに置きなさいああもうグラスも置くっ」
「何だってんだ一体。 一日の終わりに俺を癒してくれる酒を取り上げられるほどの悪行を犯した覚えは俺には無いぞ?」
「癒しが欲しかったら私が後でたっぷりと、って今はそんな話しをしてるんじゃありませんっ。 話しを逸らすなんて卑怯ですよっ」

まったくもう、私を子供だと思ってこの人は。
目の前で「何をぷりぷりしてんだこいつは、生理か?」みたいな顔をしてるおとうを、私は思いっきり恐い顔でぎろっと睨んだ。
どうやら私の推察と全く同じ事を思っていた様で、おとうはぎくっとした表情を見せながらわざとらしく目を逸らして「ははは」とか薄い笑みを浮かべた。

「昨日。 私は何人目になるか判らないおとうの恋人候補の女の人に遭いました」
「……誰だそりゃ」
「まぁ判らないのも無理はないです。 あくまで向こうが勝手におとうを狙ってるだけの様ですから」

加えて。
その女の人が例えば食事に誘ったり飲みに誘ったり、時にはハッキリとデートに誘っていたとしても。
この私を持ってして最終兵器朴念仁と言わしめるほどであるおとうがその背後に渦巻いている好意やら欲望やらに気付くはずも無いのだ。
第一して、この世界の何処に居ると言うのだ。
女の人に「今晩、一緒に食事しませんか?」と訊かれて「おごりなら」と答えるようなバカチンが。
そして、おごりだからと言ってホイホイ付いてく様な節操の無い三十三歳が。
高校生ですかアナタは。

「それで、私はその女の人にこう言われました。
 『相沢さんと真剣にお付き合いをしたいと思ってるの。 前の奥さんの事も祐ちゃんの事も、気にしてなんていないわ』って。
 冗談じゃありません。
 気にしてないって何ですか?
 私の存在を全否定するって事ですか?
 私はおとうを語るときに存在を消されなくてはならないような存在ですか?」

『私は前の奥さんの事も祐ちゃんの事も気にしてないわ』
そんな言葉で自分の懐の大きさを示しているつもりだろうか。
自分は相沢さんの過去に何があったとしても関係無いわ、とでも言いたいのだろうか。
その説からいけば、おとうの過去は『間違い』である事になる。
『気にしない』とわざわざ口に出して言わなくては存在を消せないほど、おとうを縛り付けている事になる。
私が。
おとうを。

「私は……おとうのお荷物ですか?」

不覚。
あんなくだらない女の一言で心を揺さ振られて、しかもおとうの前で涙を見せるなんて。
私がおとうの隣に居るってのは、この世界の中でただ一人私にのみ許された揺ぎ無い特権であるはずなのに。
そんな事を思ってみても、一度流れ始めた涙は私自身の事柄であるくせに私の心一つでは止められはしなかった。
悔しくて泣いているのか図星を指された気がして泣いているのか、それともこれを機に自分は大好きなおとうから離れなくてはいけないかもしれない事が哀しくて泣いているのか。
全然まったくこれっぽっちも判らないけど、何故だか私は涙を流してしまうのであった。

「……絶えず身体に纏わりつく暖かで柔らかで幸せな重みを荷物と呼ぶのなら、確かにお前は俺の大切な荷物だろうよ」
「ふ、ぇっ?」

一瞬、おとうの言葉が意図する所が判らなくてぽけらんとする。
その隙をつかれて、私は両頬をがっしりと掴まれた。
そしてそのままぐいっと引っ張られ、キス寸前の位置まで引き寄せられる。
目の前にあるおとうの顔。
素敵。

「いいか。
 お前は既に独立した奴隷だ。
 鉄製の足枷も主人の鞭も無い、自由を約束されている幸福な奴隷だ。
 その気になれば今すぐにでも俺の元から飛び立つ事が出来る奴隷だ。
 だのに未だ主人の元に残ろうとする愛しき奴隷を、俺はどうして疎ましく思う事が出来る?
 言っとくがな、荷物ってのは必要だから背負うもんなんだ。
 必要無いものまで背負って生きようとするほど、俺はマッシヴな生き方を望んじゃいない。
 酒と、泪と、俺と、お前。
 この部屋の中にあるのはそれだけで、俺が必要としているのもそれだけだ。
 お前が俺を嫌ってじゃない限りは、頼むから訳の判らん理由で俺の元から消えようとかしてくれるなよマイラブリー」

そして。
おとうは。
頬にでもおでこにでも手の甲にでもなく。
私の唇に、そっと口付けをした。
ドライ・ジンとドライ・ベルモットとチェリー・ブランデーと、おとう。
混ざり合って出来るのは、私にだけ作用する世界にたった一つで世界最強の媚薬。
はぅ。

「こら。 自分から舌を差し出すんじゃない小娘」
「だ、だって何だかおとうの唾液から美味しい雰囲気がしたものですから」
「唾液いうな。 それは多分このカクテルの味だな。 待ってな、お前のも今創ってやるから」

判ってない。
ぜんっぜん判ってない。
私が求めてるのはカクテルそのものじゃなく、カクテルの薫りと味を含んだおとうとのキスなのです。
カクテルなんか含んでいなくても、おとうと交わすキスなのです。

「おとー」
「ん?」
「とぅっ」
「のわっ!」

べちっ

前略お母様。
祐はおとうにキスを求めて飛びついたら、ものの見事に避けられました。
しかも「のわっ」とか言われました。
これは流石に非道いと思うのですが。

「な、なんで避けるんですかっ」
「何で飛び掛って来るんだお前は」
「キス」
「やだ」
「きすー」
「さっきのは特別だ。 特別ってのは普段しないから価値があるんだ」
「もっかいだけでいいですから、ね?」
「断固拒否。 俺の唇はそんなに安いもんじゃない」
「そーですか。 そーーですか! いいですー! 判りましたぁー!」
「はぁ? お前それは何ギレだ―――」

おとうに最後まで言わせず、私は彼我の距離を網膜にきちっと焼き付けてから室内の照明をばちっと切った。
辺りを支配する宵闇。
粘質の黒。
瞼の開け閉めは意味を成さない。

だけど、私にだけははっきりと見えていた。
決して安くはないだろう、その唇。

KISS・IN・THE・DARK

いただきますっ。
 
 
 
 
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『ウサウサテロリスト』


『祐。 よく聴いてね?』
『うん』
『祐は、お父様とお母様、どっちと一緒に住みたい?』
『なんでー? どっちかなのー?』
『……ごめんね。 どっちか、なの』
『んーとねー、じゃーねー、えーっとねー』
『………』
『ゆうは、おかあさまといっしょにいく。 おかあさまといっしょのいえにいく』
 
「――――っ!」
 
がばっと跳ね起きて辺りを見まわすと、そこは私が幼少の頃に過ごしていた小さなボロパート、では勿論なくていつもの通り私の家で私の部屋で私のベッドの上だった。
おとうにはいつも「ふん、発展途上が」と貶されているけど自分では年相応にはあると思ってる胸に手を置くと、感じられたのはまるで脅えたウサギの鼓動のような8ビート。
とくとくとくとく。
ほっとくとパンクしてしまいそうな、そんな私の身体の中を流れている血液以外の何か。
その呼び名を陳腐に呼んでしまえば、それはきっとこう定義されることだろう。
罪悪感、と。

あの日。
愛する妻に愛想をつかされ、夢を追う自分の人生を否定されたおとうに。
私は更なる追い討ちを加えたのだ。
私は確かにあの瞬間、おとうを捨てたのだ。

心の奥底に仕舞ってあるだけの『あの日の情景』は、私が望めばいつだって克明かつ鮮明に蘇ってくる。
そしてそれは、私が望まなくても半年に一度以上の確率で夢の中に出てくるのであった。
良心ある殺人犯が自らの殺した相手の顔を夜な夜な夢に見るように、私は私の殺したおとうのある部分を、夜な夜なではないけれど確実に夢に見る。
死にたくなるほどの切なさと共に。

5歳児の記憶なんて多分に妄想の捏造が入るもんだから、と10歳になるまでの私は必死に自分にそう言い聞かせてきたけど、13歳になった頃にはそれも既に諦めた。
私の網膜に焼き付いている映像は純然たる『映像』のままで、ごまかしなど一切入る余地の無い一枚絵のような存在になっている。
初めて見た。
大人の男の人の。
涙。
キラキラ。

ただ一つの言の葉の欠片すらも持ち合わせず、たった一瞥も私にくれる事無く。
目の前ではっきりと告げられた、幸せだった家庭から自分一人だけが不要だったのだと知らされる言葉。
悪い父親だったとは思えない。
悪い夫であったとも思えない。
だのに、全てから見捨てられた瞬間。
せめて私だけは居てあげるべきだった。
己惚れとかじゃなく、過信でもなく。
私が傍に居てあげるだけで、おとうはそれでも笑顔で日々を送れていたはずだ。
父娘二人だけで、暖かい家庭なんかいくらでも。

『ゆうは、おかあさまといっしょにいく。 おかあさまといっしょのいえにいく』

ああ!
幼さゆえの残酷。
『家に帰る』と言っていたのだから、お母様には迎えてくれる暖かい家族がそこには確かにあったのに。
大きなお屋敷と、私にはやたら甘いお祖父様と、私の舌にすらやたら甘いお菓子がたくさんあったのに。
じゃあおとうには?
誰も居なくなってしまったボロアパートで、おとうは一体どんな顔で生きていけばいいの?
あの無理して創った事がバレバレな、だけど私が大好きだった薄い苦笑いは、もう二度とあの家で誰にも向けられる事が無いの?

もうダメだった。
涙が、次から次に溢れてしょうがない。
おとう。
おとうおとうおとう!
今すぐ会いたい。
抱き締めたいよ。
一人じゃないよって、言ってあげたい。

ぼろぼろと涙を流しながら、私は一心不乱にパジャマを脱ぎ捨てた。
ベッドの上にぽてっと落ちたパジャマに恥じらいを感じているヒマも、ノーブラに構っているヒマも無い。
寝癖を隠すための帽子と、藍色のワンピース。
たっとそれだけを身につけた花も恥らう乙女の私は、未だ涙を流しながら倉田邸内を素足で駆け巡り、隠してあるニューバランスを履いて外へと飛び出した。
後ろの方でお祖父様とかお母様とかトメさんとかが騒いでた気がするけど、そんな事に構ってるヒマも当然無かった。

「おとうっ!」
「う、うわっ! なんだっ? テロリストか!」

ドバン! とボロアパートの扉を開けて、靴をぽいぽいっと脱ぎ捨てて乱入。
煎餅布団の中で愛くるしい寝顔を見せていたおとうに、私はやはり恥も外見もなく思いっきり抱きついた。
どちらかと言えば華奢なおとうの身体。
この薄い身体の中に、どれだけの悲しみを溜め込んでいたの?

「ごめんねごめんねっ。 おとうを一人にしたねっ。 祐は悪い子でしたねっ」
「………ああ、俺の安眠を妨げるとは確かに悪い子だな。 いいから寝せれ」
「……悪い子の祐が一緒に寝ても?」
「構わんよ。 ほら、おいで」

ずるい。
慰めに来たのに何時しか私の方が泣いている。
なんで、どーしていつもおとうのペース?
とか思いつつも、おとうの隣に設けられた自分のスペースに抗う術を持てないのが私の弱みか。
気がつけばちゃっかりおとうの横に収まっていた。

「ねぇ……おとー?」
「んー」
「寂しく、ない?」
「別に」
「私が居なくてもですか?」
「お前は居るだろ」
「居ないじゃん」
「俺にとって居なくなるってのは、死ぬ事だけだ」
「……」
「それと、お前が俺に会いたくなって思う事だけ」
「思わないですっ」
「ああ、そう願うよ」
「でも……私はおとうより後には死なない」
「おい、親より先死にするきか」
「おとうに死なれたら、私は生きていけないです」
「俺も、お前が先に死んだら生きていけないよ」
「じゃ、さ。 一緒に死のうか」
「それも…わる……くな―――」

ぐー。
寝た。
こんなに一種ロマンチックな会話の途中に寝るだなんて、どんな神経をしてるのかこの人は。
まったくもう。
大好き。

一度寝るとなかなか起きないおとうの手を取り、私は自分のワンピースのボタンを二つほど外して、その中におとうの手を誘った。
外見に相反して大きくて無骨なおとうの手は、いとも簡単に発展途上の私の胸をすっぽりと包み込む。
手ブラジャー。
私の胸には、だいぶ大きい。
ふぇ。

「こ、これからこれから」

そう言えば揉まれると大きくなるって風の噂で聴いた事がある。
自分じゃダメだっても、言ってた。
よし。

ふにゅふにゅふにゅふにゅふにゅ

「な、なんだなんだなんだ!?」
「あんっ、ちょ、おとうまだー」
「何がまだだボケ! 欲求不満を俺で解消しようとすんな!」
「ち、違うですっ! 発展途上が先進諸国に追いつく為の言わば聖域無き構造改革でありましてっ!」

ぱこっ

お母様。
祐はまたぶたれたですよ?



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『Country Road』


そもそもが倉田の家の人々はお母様とおとうの結婚に賛成ではなかったようだという事を、私は何も聴かずともかなり早いうちから理解していた。
何も知らないふりで、もしくは何でも知っているふりで。
おませでありながら無垢な少女の役を演じる事は、それなりに私の周囲の環境を住みやすいように変える効果を持っていた。

逃がしてしまった可愛い小鳥が、孫鳥を連れて生来の住処へと返ってきた。
この事がどれだけお祖父様を喜ばせたかは私には皆目見当がつかないが、それでも漠然と『まぁ私はこの家にいる事で疎まれると云う事はなさそうだ』くらいには感じていたと思う。
願わくは、どうか小生意気なガキだと思わないで欲しい。
小さな子供には、安心して身を委ねられる暖かな毛布が必要なのだ。

そんなこんなだから、私がおとうの元に通い妻をしているってのは実を言うとけっこう問題視されている事柄だったりする。
表立ってバシッと注意された事は一度も無かったが、それくらいのことを肌で感じられないほど私は怠惰に生きていない。
気付いていながらもなお別れた父親の元に足しげく通う私をお母様がどう思っているのかを考えると、少しだけ心が痛むこともある。
でも、それ以上に私が感じるのは『?』でしかないのだ。

どうして?
お母様はどうして、私に『or』の選択肢しか与えようとしないの?
おとうか、お母様か。
『Even』ではなく『or』。
その考え方は私をじゃなくって、誰よりもお母様自身を苦しめてるよ?
矛盾と痛みはほぼ同義。
だってそんなのおかしいじゃないですか。
ほら、私はこんなにも1/2だというのに。

「残りの半分はお前が自身で埋めていく為の余白だ。 大切にしろ」
「またそーゆー事を言うですかおとうは!」
「喜べよ。 俺はお前に『欠けた人生』って云う素晴らしい贈り物をしてやったんだぞ」
「ふんっだ! おとうだって色々と欠けた人生のくせにっ」
「欠けたパズルの1ピースが偉そうな口を」

むぐっ。
それを言われると私も辛いのですけど……

「だ、だから身も心も一緒になろうといつもいつも言ってるですのにっ」
「だーめ。 佐祐理さんにとってお前は1/2じゃない。 完全な『ONE』だ。 居なくなったら泣くぜ?」
「おとうだってお母様の『唯一』だったよっ」
「だった、だろ」

いつからだろうか。
おとうの苦笑いを目にする事が無くなったのは。
寂しさと自嘲と引け目をCOOLのオブラートに包んだ、綱渡りの微笑み。
誰も傷付けないように創ったその笑顔が、今、何よりも私の胸を抉っていると云う事実におとうは気付いていないのだろうか。
 
夕暮れ染まる部屋の中。
私はいつもの指定席(投げ出されたおとうの脚の間で背中を預ける姿勢)に座りながら、とある一つの事を思い出した。

「ね」
「ん?」
「私ね、この前学校で習った歌があるんですけどさ」
「ふむ」
「歌ってる途中に、何でか判んないけどおとうの顔が思い浮かんじゃって、何でか判んないけど泣いちゃったんだ」
「あぁ?」

音楽の授業中。
CDプレーヤーから流れてきた、いつか聴いた事があるようなメロディー。
まるで私とおとうのために創られたかのような言葉の羅列。
織り成す、一つの歌。

「CountryRoad この道 ずっとゆけば あの街に続いてる 気がする CountryRoad―――」

田舎道。
私はこの歌を、ただののどかな歌とはどうしても取れなかった。

この歌は、後ろ向きに歌われている。
自分の歩いてきた道に対して、歌われている。

故郷は、おとう。
あの町も、おとう。
とても居心地の良い、毛布。

私は歩いている。
田舎道を。
故郷に背を向けて。
あの町に背を向けて。
おとうに、背を向けて。

振り返って、歩んできた道を逆巻きに辿れば、私は再び故郷に帰れる。
前になんか進まなければ、いつだっておとうの胸に飛び込める。
だけど。

「―――この道 故郷へ続いても ボクは…行かないさ 行けな……い」

Country Road
ずっとこのまま生きていけるだなんて思ってない。
だけど、独りぼっちを恐れずになんて生きていけない。
歩調なんて速めたくない。
強い自分なんて欲しくない。
私はずっと。
Country Road
さよならは歌えない。
もう、歌えない。

「だ、ダメですねぇ。 こんな、わ、わけ判んないこと、っで、な、涙ぼよぼよよながひっ、て……」

1/2の私は、おとうが居なきゃダメなんだよって。
まだまだおとうから離れたくないんだよって。
言おうとしたのにこれだ。
私は何処まで人生を拙く生きれば気が済むのだろう。

「Country Road この路 ずっと往けば」
「ふぇ?」
「あの町に 続いてる 気がする Country Road―――」

ふわっと。
絹のローブの様に柔らかく。
おとうの身体の重みが、ほんの少しだけ私の身体に覆い被さってきた。
それと同時に耳元で囁かれる様にして唄われる、Country Road
不思議と涙は流れない。
 
「唄おうぜ。 一緒に」
「ダメ……きっと泣いちゃうですから……」
「一緒に、唄おう。 お前の思ってるような悲観的な歌じゃないよ、この歌は」
「ら、らって……」
「路の先に、俺が居る。 もちろん前に向かって歩く先にだ。 早くしないと置いてくぞ?」

もう少しだけ、ぎゅっと。
私を包み込む暖かい毛布がその拘束力を強めた。
たったそれだけなのに、私はもう未来に不安を感じなくなった。
なんて安上がりな不安の解消法。
ぎゅっとされるだけで世界を信じる事が出来るなんて、私はそこまで……
いや、きっとそうなのだろう。
恋は、人をおバカにする。
そしてそれを補ってなお余りあるほど、人を幸福にする。
もう、涙は流れない。

何度も何度もリピートで唄われる、私とおとうの混声二部。
気分次第では、ずっとユニゾン。
合間に交わされる、ついばむような口付け。
背中のおとう。
暖かい。

明日はきっと、いつもの二人に戻るけど。
今だけはいいよね。
私達、溶け合ってるもんね。

さよなら Country Road







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後書く
 
TOPでやってたSS×4+書き下ろし×1+書き出しの文章。
実は題名を考えるのが一番難しかった。
ビバ、娘。