『四月二十三日 四時間目 3-B教室内部』
 
「きたきたきたきたー!」
「……自分の苗字を略して連呼してそんなに楽しいのか? お前は」
 
もしくは何かステキな電波でも受信したのか、そのアンテナで。
やたらな叫び声をあげながら教室にダッシュで入ってきた北川に、教室の最後尾の席で日溜まりを堪能していた祐一が喧しそうに呟いた。
心なしかツッコミ所がずれているような気がするが、更にそこにツッコむ奴は誰も居ない。
それはスルーとか呆れたとそう云う事ではなく、純粋に皆が北川の持ってきた情報に心惹かれているからだった。
この時期に。
この男が。
これだけの声をあげながら持ってくる情報など一つしかない。
曲がりなりにもこの学校に入学して三年目を向かえている祐一以外のクラスメイトは、それだけに情報を察知する術にも長けていた。
少なくとも、この学校の年中行事に関する事では。
 
「ついに来たかっ!」
「どうなんだ北川!」
「おうよ! まずは席に着きやがれてめーら!」
 
一介の教師じゃまず無理であろう猛る男子を従えると云う行為を、この時の北川はあっさりやってのけた。
逸る気持ちを押さえながら席に着く男子。
その眼は目の前に丸々太った子羊を投げ出された断食一週間目の狼みたいだった、と後に祐一は語った。
つまりはそれくらい祐一が冷静に周りを見ていたと云う事で。
はっきり言ってしまえば、祐一には今この教室で何が起こっているのかが全く判らなかった。
 
北川がノリノリ、なのはまぁ祭りに関する事ならば然したる問題ではない。
むしろノリノリにならない方が変だ。
気になるのはむしろ、一般男子生徒の妙な昂ぶりの方。
そして何よりも異様なまでの女子の無関心ぶりだった。
まったく、完全に、これっぽっちも興味を示していない。
男子がえっちぃ話題で盛り上がってる時だってもう少し関心を示すだろうに、何がここまで彼女達を無関心にさせるのか。
兎にも角にも謎が多すぎた。
判らない事が多い時には、動かないのが得策である。
情報を求めてウロウロ歩いている場所が対人地雷の産地だったりしたら本当に笑えないから。
だから、祐一は取り敢えず腕組をしたまま男子の歓声と女子の静観を後ろで傍観する事にした。
 
「まずは開戦の有無だが、これは今年も問題なく通った。 予定通りに開催される」
 
行われるかどうかに許可を必要とするような行事なのか。
って事はえっちぃ系か危険を伴う系になるな。
時期的に体育祭が近いから……どっちだ?
まさかクラス対抗のチアリーディング対決か。
しかも普通のチアリーディングではなく、各クラス思い思いの素敵な衣装を女子に着せたコスプレチアリーディング対決。
そう考えれば女子の異様なまでの無関心振りも理解できるし、男子の興奮も納得できる。
よし、チアリーディング対決でファイナルアンサーだ。
さぁ来いのみさんっ。
 
「次にルール。 これも例年と変わらないな。 勝敗を決する条件は本陣の落城か部隊員の全滅か、だ」
 
本陣っ? 落城っ? 全滅っ?
お花畑全開のコスプレチアリーディング対決とは全く関係の無い言語の出現によって、祐一の頭には三つの”?”がほぼ同時に浮かんだ。
華々しい女子の祭典にそんな無骨な単語の入り込む余地は1ミクロンだって無いはず。
まさか、あるいは、ひょっとして。
北川及び男子が猛っているのは、えっちぃ事が絡んでいるからじゃなくて……
 
そこまで考えて、祐一は気付いた。
何時の間にか自分の手が硬く握られている事に。
本陣、落城、全滅の単語に対して、明確な期待を抱いてしまっている事に。
そして気づいてしまったからにはもう遅い。
この教室の誰よりも『そういう事』が大好きな男の全細胞は、主すら気付かぬままに歩みを始めていた。
自分の興味を惹いて止まぬ話の中心である北川に向かって、ゆっくりと歩み寄る。
いつしか、笑っていた。
 
自らに向かって接近してくる祐一の姿を視界の端で確認し、北川もまた言い知れぬ血の猛りに打ち震えていた。
自然と笑みが零れる。
どうしようもなく楽しい。
それもこれも、この馬鹿げた祭りに初参加する親友の姿が此処にあるからこそだった。
一年の頃は何も出来ずに殲滅させられた。
二年の頃はお前がいなかった。
三年。
三年だ。
俺は三年間もの間、お前の事をずっと待っていたのかもしれない。
 
お前がその気にならないとつまらねぇだろ、なぁ親友。
 
一種の共鳴。
前代未聞であり前人未到でもある『バカ』の極地に居る彼等にとって、五月の陽光と祭りの要綱が織り成すハーモニーはヘリウムの三重結合よりも凄まじい爆発力を秘めていた。
何が起こるかはまだ判らない。
しかしながら、自身の直感は何時でも彼等を裏切らない。
 
今から始まろうとしてるのは恐らく、規模も熱さも最大級の祭りなのだろう?
 
なんの根拠も無い確信だけを胸に、祐一は北川に向かって拳を突き出した。
泣き出しそうなほど素敵な笑みを浮かべる祐一に、周りの男子もまた賛同し、共感し、絶叫した。
彼等とて、男。
弥生時代以前は狩猟を生業としてきた性別の証こそ、戦を前にして燃え上がるこの闘魂なのだ。
幾星霜を経たとて、決して拭い去る事など出来ぬ。
出来るものかよなぁ同志!
 
「ああ諸君、こちらに注目してくれ」
 
北川が机の上に座り、皆の視線を一身に集める。
ちなみに今現在は4時間目のLHR真っ最中で、教卓では香里が学級委員長兼議長として『体育祭競技要綱について』の学級会を開いていたのだが、残念な事に『合戦』の二文字を目の前にした男子共には見向きもされていなかった。
ある意味では例年通りのその光景に、香里は呆れとも怒りともつかぬ深いため息をつく。
やれやれ、バカばっかだわ。
半分以上の女子が香里と同じ感情を抱いているとは露知らず、3−Bの男子総勢20名はその意思を今まさに一つにしようとしていた。
 
「先の大戦から一年にも渡る強制的な休暇。
 生粋の軍人である君達には大変な鬱積を与えてしまった事を此処に深く謝罪しよう。
 そして、そんな君達に朗報がある。
 今年もまた、彼(か)の馬鹿馬鹿しくも壮大な戦が始まるそうだ。
 どうにもこうにも上の連中は一年に一度、この地に多大な若人の生き血を吸わせねば気が済まないようだ。
 まったくもって馬鹿馬鹿しい。
 理由の無い戦など、何の意味も無いとは思わないかね?
 おっと失敬。
 今此処に集っているのは、所謂一つの馬鹿ばかりだった。
 私を含め、理由の無い戦闘ですら嬉々として行う大馬鹿共だった。

 ……だが諸君。
 私は正直言って不安だ。
 まったくもって不安でしょうがない。
 365日もの間、8760時間もの間、525600分もの間、戦闘から離れていた君達が本当に戦えるのか?
 銃を後ろ手に隠しながら偽りの涙を浮かべて命を乞う敵兵を、微塵の躊躇もなく殺せるのか?
 私は心配だ。
 とてもとても心配だ。
 だから、聴かせてくれ、諸君。
 どうなのだ、諸君。
 平和な生活に牙を抜かれたやも知れぬ諸君!
 諸君等は命の危険の全く無い安穏とした生活を捨ててまで、種の根源に関わる同族殺しを掲げてまで、この青い空と私に一体何を望む!」
 
両手を広げて皆に問う。
返事は当然ただ一つ。
 
『戦争!【クリーク!】 戦争!【クリーク!】 戦争!【クリーク!】』
 
「宜しい。
 ならば戦争【クリーク】だ。
 今年も滞りなくこの競技が行われる事になった事をまずは感謝し、そして感謝を終えたなら最早その感情は邪魔だから捨て去ってしまえ。
 己が身体に残しておくのは、命令を忠実にこなす狗のような神経回路と泣き叫ぶ敵兵士を笑いながら十六等分できるだけのとち狂った神経回路のみだ。
 今から一週間後。
 我々は開戦する。
 我々は蹂躙する。
 そして我々は勝利する。
 一人一殺、場合によっては二殺、三殺しても構わない。
 戦績による鉄十字章授与は無いが、それにも勝る何かが確実に君等の胸の内に宿る事だろう。
 とにかく、だ。
 眼前の敵は殴殺しろ。
 死に絶えた兵士に蹴りを入れろ。
 折れた歯と共に唾を吐け。
 石をも穿つ程の鉄血たる意思を拳に宿らせ、三千世界の悉くに我等の熱き思いを叩きつけろ!」
 
完っ全に女子を置いてけぼりにした会話だった。
むしろその内容には明らかな脅えすら覚える女子も居た。
具体的に言うと、教室の隅の方でびくびくしている気の弱い佐伯さんとか。
だが、そもそもの精神構造が違う所為か、雰囲気に酔いやすい男連中がガキっぽいだけか、狩猟本能に目覚めてしまった者共には異性の姿など映ってもいないのか。
いずれにせよ、北川の弁舌は戦を前にした男子を煽るには充分過ぎる効果を挙げていた。
四十のぎらついた眼差しが光る。
そんな中、演説を終えた北川は机から飛び降り、うやうやしく床に片膝をついた。
 
「相沢……いや、大将【マスター】、命令を」
 
何時の間に祐一が大将になったのか。
そんな疑問を投げかける無粋な輩は、誰一人として居なかった。
異常な高揚感が満ち溢れる教室の中、祐一はゆっくりと立ち上がる。
椅子の上。
そして遂には机の上に。
蛍光灯に頭をぶつけないように気を配りつつ、女子からの視線も気付かぬ振りで、祐一は自分に向かって狂信的な瞳を向ける愛すべき馬鹿野郎達に対して悠然と言い放った。
 
「命令【オーダー】は唯一つ【オンリーワン】 見敵必殺【サーチアンドデストロイ】、以上だ【オーバー】」
 
身体の内に眠る野性が声帯を震わせた時、それは紛れも無い暁の声となって校舎を包んだ。
それこそがまさに、開戦の証であった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ―――――― 合戦 ――――――
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
かっせん 【合戦】 (名・自スル)
GWを目前に控えた五月二日に開催される華音学園高校体育祭、通称【百華繚乱】における最大にして最高のイベント。
クラス単位で『紅』と『白』に分けられたクラス同士がまさに死力を尽くして戦う、バイオレンスでエキサイティングでアグレッシブなバトル。
ぶっちゃけて言えば騎馬戦の歩兵ヴァージョン。
額に巻いたハチマキを取られたら負けと云う点までは騎馬戦との間に相違点は無い。
だが、【合戦】にはそれに様々な『ルールにもならないルール』が付け加えられている。
一つ、ハチマキを奪う手段は原則的に決められていない。
つまり、反則など無いのである。
鳩尾にキツイ一撃を入れた後に前屈みの体勢をこれ好機とばかりに抱え上げてパワーボムで落とし、気絶している相手からハチマキを奪う手段も、言ってしまえば『アリ』
第参期生がチェーンソーを持ち出して以降は、さすがに武器使用だけは禁止されている。
そしてもう一つ、【本陣】の存在。
これが騎馬戦で言う大将に当たる存在であり、ここを占拠されたら(その場所に巻かれたハチマキを取られたら)負けになる。
その場所は各チームで自由に決めて良いものとなっており、その範囲は漠然と『校内』となっている。
大体は自分の教室を本陣に定めるクラスが多いが、一時など屋上が本陣に設定された事があった。
メチャクチャに難攻不落で不公平だったと言う事で次の年から屋上を本陣にする事は禁止されているが、それをやったのも確か第参期生だった。
ちなみに第参期生筆頭の苗字は『相沢』だったとか言うらしいが、それは今は置いておく。
最後に、篭城の禁止。
篭る敵を叩くにはその三倍の兵力が必要になるとか云々の話しは脇に置いておくとして、何より見ていてつまらない。
最初に【合戦】を考え出した人もそこら辺は良く承知していた様だ。
それ以外ならば、罠、人質、買収、裏切り、何でもアリ。
上に示したのが、【百華繚乱】におけるメインイベントである所の【合戦】の全てである。
ちなみに、今年度の【合戦】の副題は『死んでこい若人よ。 骨は拾って埋めてやる』だった。
 
北川の口から全ての説明を聞き終えた時、祐一の眼はそれはもうものすごい勢いで輝いていた。
新しいおもちゃを買ってもらった子供よりも、バイトの給料を手にした瞬間のフリーターよりも、言ってしまえばアイフルの子犬よりも。
ある意味ではその反応を予想していたものの、その予想以上の輝きにはさすがの北川ですら少しびびった。
 
「正直言って舞踏会の時はこの学校の少女趣味に辟易したが……まさかこんな素晴らしいイベントを用意していてくれたとはな」
「嬉しそうだな、相沢」
「これを歓喜と言わずしてなんと呼ぶ。 最高だ。 最高だ。 有象無象に関わらず、敵の全てを地下共同墓地【カタコンベ】にぶち込んでくれるわ」
 
前言撤回。
祐一の眼に宿っていた輝きは、子供とか子犬とか表現するにはいささか血の気が多すぎる。
他の男子生徒の多分に洩れず飢えた狼のような目付きをする祐一に、斜め後ろの席で香里が小さく溜息をついた。
 
「……バカばっかし」
「聞き捨てならんな香里。 誰がバカだ誰が」
「自覚が無い辺り、救いようが無いわ」
 
香里の発言にはいちいち即死効果が付加されているなー。
傍で祐一と香里のやりとりを聴きながら、ぼんやりと名雪はそう思った。
もちろん、口に出してなんか言わなかったけど。
 
「毎年々々、全学年で100人近い負傷者が出てるのよ? どうしてそれで中止にならないのかしら、このプログラム」
 
そう。
香里の言う通りこの【合戦】は怪我人無しでは語れない代物であった。
当然と言えば当然の事。
殴り合い蹴り合いを容認している競技で怪我人が出ない訳が無い。
出なかったらそれはむしろそっちの方が由々しき事態である。
だが。
 
「それでも中止にならないって辺りが、全てを表してるんじゃないか?」
「……理解不能ね」
「それはしょうがない。 美坂は女だ」
「ふん」
 
忌々しげにそっぽを向く、その拗ねたような横顔が可愛いのだ。
北川は目の前の親友を見ながらそう思った。
もちろんやっぱり口には出さなかったけど。
 
香里は、【合戦】の話しをすると不機嫌になる。
それは先に言ったような『怪我人が多く出るから』と言った理由からではなく、端的に言えば【合戦】に女子の参加が禁止されているからだった。
それもまぁ考えてみれば当然の事。
男女差別だとか封建的だとかぎゃーぎゃー喧しい奴等は置いといて、まずは女子の戦う様なんか見たくない。
そして何よりも女子に怪我をさせたくない。
今も昔もその意見は満場一致で可決されている様で、それ故に【百華繚乱】史上、女子が【合戦】に参加したと云う記録は残されていない。
だからこそ、香里は不機嫌なのであった。
祐一が、北川が、その他の男子が。
楽しそうにすればするほど、「いーなー」って感じの思いがふつふつと湧き上がってくる。
勿論そんな事をおおっぴらに言える訳も無く、かと言って自分が女であると云う理由だけで楽しそうな競技に参加する事が出来ない理不尽な怒りを抑える事が出来ようはずも無く。
結局はこうやって、違う場所に不機嫌をスライドさせるしかないのであった。
 
「そんな不機嫌そうな顔すんなよ。 まるで俺が悪い事してるみたいだ」
「あーあ、あたしも男の子に生まれてくれば良かった」
 
それでも少しだけ気分が晴れたように、香里が背伸びをしながらぽつりと洩らす。
軽く放たれたその一言に、しかし祐一と北川はそろって深刻な表情を見せた。
まるでそう、地球は実は巨大なスーパーボールだったのです、と言われたような感じで。
その不可思議なほどに真面目な表情を見て、香里はふと焦った。
ひょっとしたら自分の不機嫌さはこの能天気な二人をも不愉快にさせてしまったのではないだろうか。
だとしたらだとしたら、悪い事をしてしまった。
自分の不機嫌を他人にぶつけるなんて最低だ。
 
「香里。 そいつは言っちゃいけない事だぜ」
「あ、あの?」
「いくらなんでも今の発言だけは許せないな。 訂正してもらおうか」
「ご、ごめんな―――」
「お前が男になったら! 俺は! 誰の柔らかな胸で死ねば良いんだ!」
「同じくっ、美坂が男になったら! 俺は! 誰の膝枕で旅路の最期を向かえれば良いんだ!」
「さ……い…?」
 
謝ろうとした自分が馬鹿だった。
香里がようやっと我に帰ってそう思ったのは、目の前に居る馬鹿二人が『判ってるじゃないか同志!』とか言いながらハイタッチを交わしているのを目撃してから5秒後の事だった。
早とちりで謝ろうとした恥かしさと、祐一と北川の言った言葉が連想させる光景を思っての恥かしさと、からかわれたと云う悔しさとで。
当然、爆発した。
 
「恐怖の大王が地球に降りてきてポルカを踊ったってあんたたちに胸も太腿も貸さないわよっ!」
「じゃあ二の腕でっ! 一説に拠れば女子の二の腕は胸と同じ柔らかさなそうでっ!」
「俺はうなじでっ! 普段隠れている美坂のうなじを堪能しながら死ぬ事が出来たならそれはもうっ!」
「〜〜〜〜!!」
 
顔を真っ赤にした香里が席を立つ。
祐一と北川が回れ右をする。
香里が走り出す。
祐一と北川も走り出す。
どたばたと走り回る三人を見ながら、名雪はぼんやりと思った。
きっとあの二人の辞書には『反省』って文字が抜け落ちてるんだろうなぁ。
そしてそれ以外にも色々抜け落ちてるんだろうなぁ。
うん、落丁本だねこりゃ。
あー、それと。
 
「祐一になら胸くらい貸しても良いんだけどなー」
 
綺麗なフライングネックブリーカードロップが教室の端の方で決められているような喧騒の中で名雪が呟いた一言は、誰にも聞かれる事無く虚空に消えた。
 
 
 
 
 
* * *
 
 
 
 
 
祐一と久瀬は仲が悪い。
学園史上にも残る程の騒ぎとなった【睦月事件(別名、川澄の乱)】に端を発したその対立構図は、その後も収まる事無くむしろ悪化の一路を辿っていた。
それが顕著に表れたのは、とある日の購買戦争。
飢えた二匹の狼が同時に、残り一つしかない焼きそばパンを掴んでしまったもんだからさぁ大変。
手ぇ放せボケ、それは出来かねる、俺はハラ減ってんだよ、それはコチラも同じ事。
別れてほしいの彼と、そんな事は出来ないわ、愛しているのよ彼を、それは私も同じ事
互いに一歩も引かないまま焼きそばパンは無残にも握り潰され、最終的にその抗争は殴り合いにまで発展した。
勝者は、いない。
殴り合いが白熱してきた瞬間に、双方後ろから頭を思いっきりどつかれたのである。
どついたのは、祐一の保護者である水瀬名雪と久瀬の保護者である枳殻沙紀。
 
「容赦とか手加減とかの感情を一切持ち合わせない痛烈な一撃だった。 相沢の方なんか通学鞄でぶっ叩かれていたんだぜ、しかも角で」
 
コロッケパンを握り締めた目撃者、斉藤は後に【雪割桜】紙上でそう語った。
ちなみに、角で叩いたかどうかについて名雪サイドはは終始ノーコメントを貫き通している。
 
そんな事があって以来、この二人の仲の悪さは全校生徒の知るところとなっていた。
【睦月事件】の段階では無名の転入生だったが、今となっては華音学園史上最高のトラブルメーカーであり稀代の馬鹿でもある相沢祐一。
片や学園史上最強の権力を有している【第壱参代生徒執行部会】の会長である久瀬光臣。
元々の知名度が一般生徒を遥かに凌駕している二人が、何の因果か対立構図を成している。
焼きそばパン如きで殴り合いをするほどの。
これはもう注目するなと言う方が無理だった。
事実この二人の対立が表面化しはじめてからと云うもの、報道部発行の学内情報誌【雪割桜】の売上は一時期のゲイツをも彷彿させる伸び率を見せている。
今年度の入学式が祐一と北川によってジャックされた事件、通称【春典の獄】を扱った号の売上げなど、創部以来最高の売上げ記録を誇っていた。
 
そして、どうやらその記録は早くも打ち破られる運命にあるようだった。
 
 
 
 
 
* * *
 
 
 
 
 
『四月二十六日 午後五時四十二分 生徒会会長室』
 
「会長」
「何かね?」
「この合戦の組み合わせ。 明らかに作為的な部分が見受けられるんですけど?」
「当然だ。 作為的に作ったのだから」
 
何を今更、と言わんばかりに。
校長よりも高級なんではないかと噂される回転式のソファーに浅く腰掛けた男、久瀬は応えた。
その偉そうな態度に辟易しつつも、それこそが自分の付き従ってきた会長の姿。
久瀬の保護者兼第壱参代生徒執行部会書記長である沙紀は、どうしようもない自分の境遇を憂いてか、あるいは楽しんでか、小さく笑みを浮かべた。
 
「最後のワガママだよ。 どうせこの行事を最後に私はこの椅子から離れるのだ。 もう一度くらい職権乱用させてくれても構わないだろう?」
「ったく……知りませんよ?」
「なに、何処からも文句は出ないさ。 勿論、3-Bからもな」
 
文句など、出る訳がない。
打った手が万全である事を誰よりもよく理解しているが故の確信を持ち、久瀬は事も無げに言い放った。
自分達以外に唯一全校生徒を大きく先導できる報道部とは利害が一致した時点で既に手打ちを行っている。
反生徒会など歯牙に掛けるまでもないほどその活動を収縮している。
そして何よりも。
 
「ここまで舞台を整えてやったのだ。 あの男がカーニバルに参加しない訳が無いだろう?」
「むしろ先陣切ってハイなタンゴを踊るかと」
 
ここまであからさまな挑発をされて、3-Bが。
いや、相沢祐一が。
因縁浅からぬ3-A、ひいては久瀬との『合戦』を拒むか。
拒む理由があるか。
答えは当然、否。
売られた喧嘩を買わない男になど、久瀬とてそこまで執心はしない。
その根底に流れる物が何処かしら自分と同じであると判ってしまうからこそ、半ば同族嫌悪の延長線上で睨み合っているのだった。
 
そして今。
スポーツよりも血腥く、ただの殴り合いよりも健全な方法で決着をつけるに相応しいイベントが目の前に転がっている。
合法的に全校生徒の前で、奴との雌雄を決する事のできるイベントがぶら下がっている。
自身の敗北など微塵も省みない者を馬鹿と呼ぶのならば、今の久瀬は自分を馬鹿だと誰に笑われても構わないくらい熱い一人の男になっていた。
 
「熱いですねぇ」
「そうか? まだ冷房をつける季節には早いと思っていたのだが」
「気温がじゃなくって。 会長が、です」
 
すました表情で揶揄する沙紀に、久瀬の表情から一瞬だけ【策士】の仮面が外れた。
完膚なきまでに張り巡らせた相沢祐一と戦う為のステージ造りは、その完璧さ故にまた久瀬の心情をも表す。
馬鹿ではない以上その事が即座に理解出来てしまった久瀬に、反論の糸口は何処にも見当たらなかった。
何より季節の所為ではなく身体に篭った熱を自分に否定する事など、出来そうにもなかった。
 
そして沙紀もまた、久瀬と同様に自身の身体が熱くなるのを感じていた。
誰が何と言おうと彼女にとって久瀬は現生徒会の象徴であり、現生徒会とは即ち彼女の学校生活の全てだった。
この三年間、楽しかった事も辛かった事も生徒会と共に、目の前に居る久瀬会長と共に在ったのだ。
それはただの生徒会役員であった一年生の頃から、互いに偉そうな肩書きが付いてしまった今まで。
久瀬の『負け』が生徒会の『否定』と等式で結ばれる訳じゃないけど、やっぱり負けるよりは勝ってくれた方が気分爽快には違いないだろう。
何かに『負ける』久瀬なんか、見たくない。
 
負けたら承知しないからね、バ会長。
 
心の中だけで呟かれた沙紀の言葉を知ってか知らずか。
久瀬は五月の光に目を細めながら、沙紀でなくてはそれと気付けぬほど薄い笑みを浮かべるだけだった。
 
負けるものかよ。
 
 
 
 
 
* * *
 
 
 
 
 
『四月二十七日 午後一時四分 3-B教室内部』
 
「野郎………判ってるじゃねぇか」
 
抽選の結果、と嘘臭いながらも銘打たれた【合戦】の組み合わせ表を見て。
祐一はかつてないほど酷薄で、しかし楽しそうな笑みを浮かべた。
いつもの優しい微笑じゃない。
なにしろ目が笑ってない。
人一倍気の弱いクラスメートの佐伯さんなんか、そんな祐一の表情にすっかり怯えてしまうほどだった。
 
【合戦表】の最下部。
対戦順にプリントされている最下部。
つまりは最終戦【ファイナル】
記されたるは二つのクラス。
 
『3-A 対 3-B』
 
なるほど確かに最高の舞台を久瀬は用意したようだった。
『学校』という名の閉鎖された空間での争い事に、これ以上の決着の場所が果たして在るだろうか。
体育祭の、メインイベント【合戦】の、しかもファイナル。
殴り合い、蹴り合い、掴み合い。
およそ世間で顰め面をされがちな行為ですら、その時であれば興奮と好奇のオブラートに包まれるのだ。
嚥下されてしまえば勿論、体内で起こる反応は確実に『熱』を産み出す。
抑え様の無いほどの、膨大な熱量。
闘争。
闘争。
闘争。
なんと心地良い響き。
何と素晴らしい――――――
 
「しかし、俺達が久瀬率いる3-Aに勝てるかどうかってのはまた別問題だぜ?」
「……マジか?」
「お前が久瀬に負けるとは思ってないが、それはあくまで単機での決戦の場合だ。 そして、久瀬は『勝利』の形にこだわって『負け』を選ぶような間抜けじゃない」
 
そう。
久瀬は生徒会の会長である事に代表される様に、一般的な生徒よりかは随分と策士なのであった。
そうでなくては強大過ぎる生徒会の『力』をあそこまで不遜に使役できようはずも無い。
馬鹿が迂闊に手を出せば、自ずから身を焦がすであろう灼熱の炎。
それすらも自在に操っていたのだから、やはり久瀬という男は皆が思う以上に切れる男だという事に間違いは無さそうだった。
 
どうにも久瀬との雌雄を決する事ばかりに目が行きがちな祐一。
奴を嫌うあまりに過小評価をしがちになっている現状。
その様子を見て北川は祐一のあまりの『らしさ』に苦笑しながらも、しかしこれだけは間違えぬようにと釘を刺す意味を持って多少強めに言い放った。
 
「大将【マスター】 勘違いしてくれるなよ我等が主人【マイ・マスター】 これは『決戦』じゃない。 【合戦】だ。
 俺達の勝利はお前の勝利だが、お前の勝利は俺達の勝利じゃない。 そこを決して違えてくれるな我が主人【マイ・マスター】」
 
勝利の条件。
敗北の条件。
その二つを純然たる判断材料だけで考えれば、自軍(敵軍)の完全殲滅と本陣陥落のそれ以上は無く、それ以下も無かった。
便宜上の【大将】は互いに在るものの、それは勝敗に一切関係が無い。
つまるところ、何時何所で祐一が、そして久瀬が討ち死にしようと勝敗には全く関係が無いのだった。
勿論士気には関係ある。
だがしかし、大将の死によって発奮する軍が無いとも言えないのが実際の【合戦】である。
喩えるならばノトーリアス・BIGの様に。
いや、それはどうでもいいのだが。
 
「すまん。 大将としての自覚が足りなかった様だ」
「なに、気にするな。 そういうお前だからこそ大将に相応しいと思ったんだ」
 
ぽんっと肩に手を置き、にかっと笑う。
北川の表情に、祐一を責める気は微塵も見えなかった。
在るのはただ、実に楽しそうな笑顔。
その笑顔に釣られてか、はたまた本来の自分を取り戻してか。
祐一もまた薄くではなく、心の底からニヤリと笑った。
やっぱりその笑みはおっかなくて、運悪く目撃してしまった佐伯さんが脅えていたのだがそれはまた別のお話し。
 
「諜報部の綿貫! 3-Aの主な戦力を言え!」
「了解【ヤー!】 3-Aには剣道部の宮本、柔道部の嘉納、空手道部の松尾、プロレス部の巽が居ます! いずれ劣らぬインターハイクラス!」
「巽以外は無視して構わん! 柔、剣、空手は素人が突っ込んでっても後の先とられて犬死にだが、逆に突進力は皆無に等しい!」
「サー! イエッサー!」
「サバゲー部の熊谷! 我等に堅固な守りなど性に合わん! 自軍から俺と北川を排斥し、彼我の戦力を確認した上で、最も攻撃的かつ戦局を有利に運べる布陣を組め!」
「本陣の配置は如何様にっ?」
「それは当日まで口外しない。 故に、だ。 本陣の存在しない我々の軍に守りなど必要無い。 不可解を言っているのは判るが、それでも。 出来るか?」
「……三日もあれば」
「二日だ」
「はっ!」
 
荒々しくも精悍な声が教室内に響き渡る。
時に、【合戦】開始五日前の事だった。
 
 
 
 
 
* * *
 
 
 
 
 
『同日 午後一時十二分 同教室内部』
 
「…………」
「か、香里? 顔、恐いよ?」
「不公平よっ!」
「そ、そだね」
 
名雪、ちょっと引きつつ返答。
その額にはマンガみたいな汗が一筋流れていた。
 
これもまた、【合戦】開始から5日前の事。
 
教室がふいに騒がしくなり、その渦中で楽しそうに指示を出している祐一を見た瞬間。
香里は一気に不機嫌面になった。
もともとが『可愛い系』ではなく『綺麗なお姉さん系』に属する顔立ちの為、不機嫌になった時の恐さは名雪の比じゃない。
般若の面が女性の本性を示しているのだという説を一発で信じる事が出来そうなくらい、何て言うか恐かった。
 
「む――――――」
「で、でもさ、ほら、やっぱりぶったりぶたれたりするのは痛いと思うよ?」
「ぶったりぶたれたりするルールを改正すれば良いじゃない。 元々が問題ありまくりなルールなんだから」
「あ、それは言えるかも」
 
ぽんっと手を打ち、何とも古典的な表現方法で納得の意を示す名雪。
『はにゃーん』としている親友の姿に当てられた香里もまた、少しだけ不機嫌オーラの収束に務めた。
でも。
それでも。
やっぱり納得いかない。
いってたまるもんですか。
 
「そー言えばさ、香里がそこまで不機嫌になるのって今年が初めてだよね」
「そう?」
「うん。 去年まではどっちかって言うと『不機嫌』よりは『無関心』の方がぴったりくる感じだった」
 
少なくともコメカミに青筋は浮かべてなかったよ。
思っても口に出さない辺り、名雪は意外と賢いのかもしれなかった。
 
「でね? 今年、香里が不機嫌な理由。 実は私にもちょっと判るんだ」
「……どんな?」
「祐一も北川君も楽しそうなのに。 私達、いっつも一緒なのに。 どうして性別なんかで分けられなきゃないのかなーって。 そんな感じ。 違う?」
「………多分、そうね」
「女子が参加できない競技だからじゃなくって、祐一と北川君が参加できて私達が参加できない競技だから。 ズルイよね、あっちばっかり楽しそうで」
 
諦めが混じりながらも名雪の唇が紡ぐのは、本当にただ羨ましそうな音。
子供っぽいくせに大人びた親友の、言わば何かを悟ったような純粋な物言い。
香里は「はふーっ」と溜息をついた。
 
「どーして名雪が言うと可愛く聞こえるのかしら」
「な、なにがっ?」
「ズルイって、一言」
 
少なくとも自分が言う分にはもう少し、不満かそうじゃなきゃ媚びの気持ちが含まれるだろう。
まったくもって、可愛くない。
自分自身をこうやって冷静に分析している所も、恐らくはその一因なのだろうけども。
素直なのは、時にはその拙さを露呈する事もあるが、概ね美徳だ。
 
「応援しようよ。 思いっきり」
「それは名雪の役目ね」
「じゃあ香里の役目は?」
 
そんな事、決まってる。
 
「背中を思いっきり引っ叩くような、叱咤激励」
 
香里のソレは痛そうだね、ものすごく。
口に出さない、出せない。
名雪が笑った。
 
 
 
 
 
* * *
 
 
 
 
 
『同日 午後五時二十五分 生徒会室』
 
「馬鹿な……本陣を考慮しない布陣だと?」
「らしいね。 流石は相沢君。 定石【セオリー】を道端の石っころ位にしか思ってないもん」
「まさか密偵の存在に気付いたか? ならば納得もいくのだが……」
 
眉間にしわを寄せ、どうにもこうにも『読めない』祐一の行動に頭を痛める。
昼休みの会長室にはそんな久瀬の姿と、それをとても面白そうに見ている沙紀の姿があった。
 
本陣不明。
久瀬の放った密偵が3-Bから盗み出してきた情報は、本来ならば知るはずも無い相手の【本陣】を知る手段を持っていた久瀬にとって驚愕に値するものだった。
知らないのではなく、判らない。
情報を盗み出す事に失敗したのではなく、情報そのものが無かったとの報告。
知らなかったのならまだしも知ってなお判らないと云う状況は、少なからず【冷徹な策士】の仮面を剥す事に成功していた。
 
他に漏らさないのならば兎も角、味方にすら教えていない。
それどころか、【本陣】不明のままサバゲー部の熊谷に【布陣】を考えるよう指示を出した。
密偵の存在に気付いて【本陣】の所在を隠すと云うのならば、後で熊谷を別個に呼び出して【本陣】の場所を告げるはず。
だが、そんな雰囲気は未だ密偵から伝わってこない。
 
理解不能。
 
【本陣】の情報は【合戦】の中でも最重要機密事項にリストアップされている事柄だった。
各機関からの漏洩を防ぐ為に【本陣】の所在申告は【合戦】が始まる直前と定められているし、諜報部や報道部も【本陣】に関しては他言無用と釘を刺されている。
つまり、学園内の公的機関から情報が漏洩することは有り得ないのである。
 
だがしかし、生徒会(体育祭実行委員)が関与するのはそこまで。
愛国心無き売国奴が自軍の【本陣】の情報を何時何所で誰に売り渡そうが、生徒間での情報売買には完全にノータッチを決め込んでいるのだった。
理由は簡単。
そこまで取り締まるなんて面倒臭い。
もとい、数百人からいる生徒一人一人の情報管理の責任まで生徒会が負ってられる訳が無いからである。
ゲシュタポじゃあるまいし。
 
こう書くと【本陣】の情報が個人からならば以外と簡単に手に入りそうにも見えるが、実はそうではない。
むしろ全くの逆で、個人から情報を聞き出す方が公的機関から情報を盗み出すよりも遥かに難しいのであった。
何故か。
それこそが当に、【合戦】の【合戦】たる所。
闘争の炎に照らし出された本能を剥き出しにした野郎どもは、絶対に自軍を裏切れない。
そして、野獣と化した野郎どもに万一自分の裏切りが発覚したら。
死ぬ。
恐らくは冗談抜きに。
そんなこんなで、【本陣】の情報は本来ならば手の届かない物なのであった。
 
本来ならば。
 
自軍が本陣を知らないまま、そして布陣が本陣を守る為に一片も機能しないまま戦に臨む事がどれだけ【合戦】の往く末に影響を与えるか。
まさか相沢とて知っていない訳ではないだろう。
この私が勝利の形にこだわらないと云う事は、友人の北川の進言で肝に銘じたはず。
故に本陣を隠したのだろうが、所詮は本陣の場所など数パターンに限られてくる。
所在が判らなくとも幾らでも対応の仕方はあるのだ。
なるほど確かに幾つかの布陣及び攻撃形態を覚えなくてはいけない分だけ我がクラスの分隊としての統率力にはやや難が生じる。
しかし両軍共に【本陣】を知らないのであれば、不利益はむしろ3-B内部にこそ重く響くではないか。
リスクとリターンの計算も出来ない、そこまで馬鹿か。
否、奴はバカではあるが馬鹿ではない。
ならば何故……
 
理解不能。
理解不能。
理解不能。
 
「まさか会長。 相沢君の行動を論理的【ロジカル】に捉えようとしてません?」
 
ミノタウロスを封じ込めた迷路よりも複雑な思考迷路に迷い込んでいた久瀬の手に持たされた、一本の糸。
出口に続く、道標。
沙紀の声。
一瞬で我に返った。
 
「……しかしあまりに不可解過ぎる」
「初めから知らなかった情報だと割り切った方が良いです。 そもそも相手の【本陣】なんて本番まで知り様が無いのが普通なんですから」
「普通では、勝てぬ」
 
相手は『普通』のカテゴリから距離にして3.8光年ほど離れた位置に存在しているような輩なのだ。
せめてそれ以外を丸ごと罠に嵌めるような策くらいは持っていないと、とてもじゃないが太刀打ちできない。
それに加え、3-Bには久瀬のもう一人の宿敵が存在していた。
学年首席、美坂香里。
何事につけ自分が一位でなくては気が済まない久瀬の自尊心を、傷つけ続けてはや三年。
香里が【合戦】に非協力的な事は既出の情報だったが、それだっていつ気紛れを起こさないとも限らない不確定要素でしかない
学年首席の謀計知略と前代未聞の奇天烈野郎。
久瀬の気分はまさしく、混ぜてはいけない部類の科学薬品を両手に持ったチンパンジーがマカレナを踊っているのを間近で見ているような感じだった。
 
そして更に、もう一人。
久瀬をもってして『危険分子』と言わしめるほどの男が3-Bにはいた。
昨年までは全く目立たなかった、今年度に入っても目立たないはずだったイチ男子生徒。
可も無く不可も無い、その程度だったはずの男。
気がつけば祐一と一緒に入学式をジャックしていた。
壇上で最高の笑顔を見せていた。
第参の男。
名を、北川潤。
忘れはしない。
生徒会長挨拶の途中で、ステージの裾野からターザンキックで奴に蹴り飛ばされて、しかも縄でふん縛られたのだから。
忘れられるはずも無い。
【春典の獄】で受けた屈辱を思い返し、久瀬の奥歯がギリギリと鳴った。
 
「沙紀。 校内放送で学内に残っている我がクラスの男子に非常召集をかけろ」
「い、今からですか?」
「主力となる運動部系は全員が残っている筈だ。 早くしろ」
「はいはい。 やー【了解】」
 
言葉とは裏腹に楽しそうな笑顔を浮かべた沙紀が、生徒会室備え付けの放送用マイクに向かって非常召集を告げる。
にわかにざわついた学園内の喧騒を耳ではなく肌で感じながら、久瀬は沙紀の背中を見つめた。
とても華奢なその背中。
そう言えば、こいつとはずっと一緒だったな。
クラスも、生徒会も、それが殆ど飾りだけとなった今も。
はたしてこの学園内に何人居るだろうか。
その、自分が、敬称無しでアンダーネームを呼ぶ事が出来る女子生徒など。
 
「……ふん。 くだらん」
 
鎌首を擡げてきた思考を、自嘲と言う名の刀で根元からスッパリ切り捨てる。
そうして沙紀が振り向くよりも先に、久瀬はいつもの【冷徹な策士】の表情を取り戻した。
 
それでもただ一つ。
何がなんでも負けたくないという気持ちが浮かんできた事までは否定できなかった。
 
 
 
 
 
* * *
 
 
 
 
 
それからの五日間。
学園は戦場だった。
敵対するクラスの男子が廊下で睨み合えば、それはもう開戦の合図。
んだコラ やんのかオウ あ? あぁ?
初夏の陽射しよりも暑くて熱い今の彼等には、旧ソ連とアメリカ合衆国が産み出した素敵な『冷戦』という言葉の意味などこれっぽっちも価値が無かった。
出会ったら即、開戦。
戦ってるのが自軍の野郎だと判った瞬間、周囲の奴等も即参戦。
飯くってようが酒のんでようが女だいてようが、関係無い。
何しろ戦いは既に始まっているのだ。
家に帰るまでが遠足であるように、戦いとは今の瞬間から決着がつくまでが戦い。
止めてくれるなおっかさん。
男には、闘らねばいけない時がある。
2年C組浦木浩、突貫します!
こうして個人間の闘争はクラス単位での抗争にまで発展し、野次馬の中でも個人闘争が始まり、それがクラス単位の抗争に発展し。
四月二十九日の昼休みから五時間目の半ばにかけて起こった争いなどは、二つのクラスを除いてはほぼ全校生徒が参戦したと言ってもおかしくない事態にまで発展した。
参加しなかったクラスは、当然3-Aと3-B。
 
「無駄な戦いで貴重な戦力を減らし、兵士を疲弊させるなど愚か者のやる事だ」
「お前等。 参戦したい気持ちは俺にも判るが、その火はまだ燻らせておけ。 炎にするにはまだ早い」
 
両軍大将。
共に言う事は違っていても、その真意は同じであった。
最高の状態で、最高の相手を、最高の形で叩きのめす。
その為ならば、廊下で捲き起こっている前夜祭とも呼べる狂乱の宴をスルーする事すら厭わない。
……厭わない。
くそう、参加してぇなぁ。
 
3-Bの方の大将はどっちかと言えば自らが参戦したがっていたが、それでも押し留まった辺りは流石と言うべきなのだろうか。
それとも欲求不満をぶつけられた掃除用具箱の側面を誉めるべきなのだろうか。
判らないが、取り敢えず言える事は掃除用具箱の側面には拳大の穴が開いているという事だけだった。
 
日に日に高まりを見せる男子生徒の猛り。
しかしそれに対する女子生徒の冷めた目付きは、やはり日に日に冷たさを増していった。
無理もない。
日常的に暴力沙汰を起こすような野蛮な異性に、誰が好意的な目を向けれると言うのか。
どうにも勘違いしている子供が多いのだが、ワイルドと野蛮は違う。
そこら辺を理解していなさそうな馬鹿っぽい男子が安い武勇伝を聞こえよがしに喋くりまくるたび、女性陣はまた一つ大きな溜息をつくのだった。
 
だが。
女性陣もまた判っちゃいなかった。
ちょっと考えれば判りそうなものなのだが、何しろ嫌悪感と言うものは他の全ての情報を塞いでしまう。
だから気付けなくてもしょうがない。
しょうがないのだが。
 
彼女達に言わせれば『野蛮』である男子生徒達総勢四百余名は、ここ数日間に限っては忌み嫌われるばかりである蛮行を繰り返している嫌われ者どもは。
自分達に向かって軽蔑の眼差ししか向けない存在である女子に、一人だって怪我なんかさせていなかった。
廊下で殴り合おうと、テラスで睨み合おうと、校庭で水平チョップ合戦をしようと、女子には毛筋ほどの掠り傷すら負わせない。
傷付けあう間柄でしかない闘争相手とお互いに共有した、たった一つの盟約。
呆れるほどに紳士的で、愛するに足るバカばっかりだった。
 
【百華繚乱】開始まであと二日と迫った四月二十九日。
諜報部と報道部を除く全ての部が活動停止となった。
代わりに動き出す、体育祭実行委員会。
二日間だけ実質的に生徒会執行部よりも大きな権力を持つ事が許されたこの特殊な委員会は、手始めに全学級の大将を呼び出した。
そこで交わされたのは、まぁかいつまんで言うと『怪我とかしても恨み言は一切ぬかさないし治療費は自己負担します』って内容の書状。
これが無くては何も始まらないし、逆に言えばこの書状に署名をする事で気持ちが固められるのも事実なのである。
勿論、誰一人として署名をする事に異存など無かった。
全員が全員、握り締めた拳を隠そうともしていなかった。
 
 
 
 
 
* * *
 
 
 
 
 
『五月一日 午後五時半 ラーメン屋』
 
「悪いな。 わざわざ校外に呼び出したりして」
「いや。 たまにはお前とラーメン屋デートってのも悪くない。 おっちゃーん、歯舞ラーメンね」
「あいよー!」
 
ラーメン屋、【北方領土】
さして広くも無い店内の奥の席で待っていたのは祐一、それから少しして店にやって来たのは北川だった。
雑多な喧騒が所狭しと飛び交う空間の中で、二人もまたそれに溶け込む様に挨拶を交わす。
予めもう一人来る事を店主に告げていたのだろうか、祐一の横にはちゃんと一人分の空席が用意されていた。
 
「で? どうしたんだ?」
「ああ、実は【本陣】の事なんだが」
「やれやれ、やっと話してくれる気になったか」
「いや、始めからお前だけには話しておくつもりだったんだが……意外と決断に時間がかかってな」
「俺だけにって事は、やっぱクラスの奴等には開戦直前まで言わないつもりか?」
 
そう、開戦まで24時間を切ってもまだ、祐一はクラス内で【本陣】の所在を明らかにしようとはしていなかった。
誰もがそれを疑問に思ったが、しかしそこは祐一の人望が成せる技。
誰一人として祐一に【本陣】の所在を問い質そうとはしなかったし、それによる不信感も高まりはしなかった。
ただ皆が思うのは、『アイツは何かをやってくれる』という信頼にも似た希望だけ。
祐一を信頼に足る人物だと思っているのかどうかは不明だが、少なくとも放任にも似た責任感を双肩に感じている祐一にとって彼等の態度は不快な類の物ではなかった。
 
「相手は久瀬だからな。 与える情報は最低限にしておきたい」
「その言い方だと、うちのクラス内の情報は全てあいつに筒抜けの様に聞こえるが?」
「様に聞こえる、じゃない。 俺は確信を持って言えるよ。 奴は、確実に、俺らの内部事情を知る手段を持っている」
 
それが盗聴機の類か、裏切り者【ユダ】の存在か、全く別の第三者かは判らないが。
昨今の戦争は情報が鍵を握っていると云う事実を、あの久瀬が理解していないはずがない。
だからこそ、祐一はクラス内で【本陣】の所在を明らかにはしなかった。
その事が戦略的に不利に働く事は百も承知。
久瀬陣営に与える動揺よりも遥かに大きく、自分達が【本陣】を知らない事は大きなデメリットだろう。
だが。
 
「知ってるのは、俺とお前だけでいい。 これはそう云う戦いだ」
「ほう?」
「俺達の【本陣】の所在が判らない以上、久瀬は自軍の布陣に対して『突撃力』を重視させる事は出来なくなる」
 
そしてそれこそが、3-Bが3-Aに対して最も恐れるべきものであった。
各個の闘争能力ではなく、『組織』としての統率力。
【本陣】の陥落で勝敗が決してしまう【合戦】において、一糸乱れぬ隊列を組ながら【本陣】目掛けて突っ込んでくる疾風の小隊【ゲイル・プラトゥーン】ほど恐ろしい物はない。
ましてやそれが【冷徹な策士】こと久瀬の率いる悪鬼の一個小隊ならば尚更の事だった。
全くもって遺憾な事ながら、正当なる戦闘における集団統率能力において、祐一は久瀬に遠く及ばない。
 
「対して俺達は拠点制圧ではなく見敵必殺を念頭に掲げている。 この時点で布陣による戦局の優劣はほぼ無いと考えても良いだろう」
「ちょっと待て。 ひょっとしたら数パターンの隊列を指示してるかもしれないぜ? 制圧する【本陣】を、大まかな分類に分けて」
「当然だな。 俺が指導者でもそうする」
「なら、今さっきお前が言った布陣による戦局の優劣って点に矛盾が生じるだろ」
「いいや、生じない」
「……お前、何を?」
 
表情で疑問を投げかける北川に、祐一は物言わぬ笑みで返した。
ラーメンの湯気で、笑顔が霞む。
気がつけば北川の目の前には先ほど頼んだ歯舞ラーメンが悠然とした佇まいを見せていた。
 
「俺の考える【本陣】を皆に告げれば、士気は飛躍的に上昇するだろう。 だがそれによって情報が漏洩し、【本陣】に危険が迫る事だけは絶対に避けなくてはならないんだ」
 
何時に無く真剣な表情。
【本陣】を護る事を何よりも強く決意した口調。
それは闘争の炎が照らし出すようなぎらついた物ではなく、とてもとても大切な物を護る事を自身に約束させた時に見せるような眼差しだった。
だからこそ北川は、祐一の考えている事を微かにだが理解し始めた。
 
「頼りにしてるぜ、騎士【ナイト】さま」
 
割り箸を握り閉める手が、痛いほどだった。
 
 
 
 
 
* * *
 
 
 
 
 
『五月二日 九時ジャスト 3−B教室』
 
何時の間に決められたのか知らないけど、見れば随分とセンスの良いクラスマッチTシャツ。
クリアブラックの背に、羽根をモチーフにした純白が散る。
自分の体躯よりも1サイズ大きなそれに袖を通しながら、祐一は初めて自分に【合戦】以外の競技が宛がわれている事を知った。
 
当然、驚く。
どうも自分は【合戦】に夢中になりすぎたあまり、他の事には一切感心が無くなっていたようだ。
そう言えば【合戦】はあくまで体育祭のメインイベントであって、それ自体がイベントって訳じゃなかったんだな。
いや、でも、ほらさ。
少しでも体力を温存しておかないと俺の場合は、いや、ゴメンナサイ、なんでもありません。
 
無言の重圧【プレッシャー】に負けた祐一は、香里が提示した条件をおとなしく承諾した。
イヤだなんて、絶対に言えない。
言った瞬間に香里のお説教が始まるし、名雪が恨みがましい目で非難するし、向こうの方で気の弱い佐伯さんが泣いてしまう。
それより何より、【合戦】での勝利は勿論の事として総合優勝の座も捨てがたい。
よし、いっちょやったるか。
なぁ北川。
 
「お、俺もっ?」
「一蓮托生だ。 なに、どうせ香里の事だから俺とお前は全ての競技にフル出場って事になってるだろ」
「当たり前よ。 よくも今まであたし達を蔑ろにしてくれたもんだわね。 言っておくけど、優勝は義務よ」
 
さらっととんでもない事を言う香里。
クラスカラーの白いハチマキで髪をポニーに結い、露わになった白いうなじが綺麗だった。
初めて目にする香里のポニーテール。
引き立たせるは、薄い布地の黒Tシャツ。
普段はどちらかと言えば意図的に自己主張を抑えられているスタイルの良さが、今日だけは薄い布越しにはっきり見て取れる。
北川はおろか、祐一までもが瞬間的に時を止められた。
 
「な、なに?」
 
まさか目の前の二人が自分に見惚れているとは思いもよらない香里は、何事かとたじろいだ。
そんな姿もまた可愛い。
恐らくは同じ事を考えていたのだろう、同時に動きを取り戻した祐一と北川は、香里を直視できなかった。
さり気無く視線を外しながら呟くは、絶対なる意志。
 
「なるほど……こりゃ負けられないな、大将」
「ああ。 奴等に渡すにゃー、ちと勿体無さすぎる」
「へ?」
 
普段から訳が判らないが、今はもっと訳が判らない。
会話の流れにまったく噛み合わない言葉を呟く二人をきょとんとした表情で見つめながら、香里は小さな疎外感に身をやつした。
むー。
またそうやって男の子だけで通じる会話ばっかり。
ズルイ。
 
「相沢。 そろそろ水瀬の1500mが始まる時間じゃないか?」
「おお、ホントだ。 見逃したと判ったら何をされるか判ったもんじゃない」
「どうせ名雪の圧勝でしょ? なんたって本職だもの」
「いや、残念ながらそうでもないらしい。 陸部後輩の……えーと、なんとかちゃんがやたら速いとかで」
「水瀬より速いのか?」
「んー、そもそもあいつは楽しむために走ってるような奴だしな。 得意種目はもっと長距離らしいし」
「とにかく、応援に行くわよ。 特に相沢君」
「は? 何で俺?」
「鈍感っ。 いいから速くっ」
「お、おおーっ?」
「じゃあ俺は美坂をーっ」
「きゃ、ちょっ! あぶっ、ころぶころぶころぶーっ」
 
団子状態になりながら教室を出ていく美坂チーム。
ぐいぐいと背中を押されながらただ笑うだけの祐一は、どうやら本当に何も判っていない様だった。
流石は最終兵器朴念仁。
名雪の想いなんてもってのほか。
背中を押す香里の顔が楽しげなのにも、恐らくは気付いていないのだろう。
そして香里も、その背中を押す北川の表情に気付いてはいない。
誰も何も気付かぬまま、校庭までの距離を三人はひたすらに楽しんだ。
 
 
 
 
 
* * *
 
 
 
 
 
『2-C大将、浦木浩。 本陣、2-C教室。 対するは1-F。 大将、天田四郎。 本陣、1-F教室。
 双方共に、小便はすませたか?
 神様へのお祈りは?
 部屋の隅でガタガタ震えて命乞いをする準備はO.K?
 ……ようし、それなら始めよう。
 
諸君。
 殴ったり殴られたり、叫んだり叫ばせたりしよう。
 敵陣の隊列を崩す為に命がけで突貫し
、その結果周囲の全員からリンチを受けてみよう。
 きっとそれは呆れるほどに面白い。
 
 青い空に白い雲。
 そして、飛び散る真っ赤な赤に敬意を表し!
 五月二日の晴天の下、午後三時ジャストのたった今この時より!
 【百華繚乱】最終イベント、【合戦】の第一戦を開始する!!
 死んで来い若人よ! 骨は拾って埋めてやる!』
 
そんな時代錯誤なアナウンスで始まった【合戦】は、初めて目にする祐一の想像の上空遥か500マイルをマッハ2くらいですっ飛ぶくらい凄まじいものだった。
この法治国家で。
って言うか仮にも教育機関で。
まさか新崎人生が得意とする『高野落し』が大地に決められる様を目撃するとは思わなかった。
絶対に被害者の彼は明日からのゴールデンウィークを自室のベッドで寝て過ごすハメになるだろう、うん、間違い無い。
 
「うわ、二階の窓から何か落ちた」
「ん? まぁ窓ガラスは外されてるし周囲にマットも敷いてるから、二階程度から落ちたくらいじゃ骨折すらしないと思うけど」
 
意外と冷静な見解を淡々と話す北川。
それもそのはず。
初見の祐一と違って、北川は曲がりなりにもこの激戦をを過去二度に渡って経験しているのだった。
この程度で驚いちゃいられない。
祭りはまだ始まったばかりだ。
そしてそのメインを張るのは俺達だ。
 
そう言えば、と北川は自分が一年の頃の【合戦】をふと思い出した。
高校に入りたての可愛い一年生クラスが運悪く三年生とぶつかってしまったあの戦い。
本陣なんかに目もくれず、暇潰しの王道であるプチプチを片っ端から潰す様に、自分たちは殲滅させられていった。
あの屈辱は未だに忘れられない。
特にあの、二階のテラスから階下のマットに向かって華麗なスクリューパイルドライバーをかましてくれたあの先輩は、どうしているだろうか。
今、街でばったり出会ったら。
自分は笑ってあの頃の話しを出来るだろうか。
多分、無理。
絶対殴る。
 
『こちら報道部最前線情報課の葉山! こちら報道部最前線情報課の葉山!
 阿鼻と叫喚が華麗なユニゾンを響かせている校内の交戦状況を皆様にレポートします!
 本陣が二階に位置するため三階に本陣を置く1-Fに対して地理的に不利な2-Cですが、むしろ現在の状況は2-Cに優勢!
 得にテラスの守りは鉄壁です!
 上階からワンゲルよろしくな感じで攻め込もうとしている1-Fの面々、落下して来た所を確実に狙い撃ちにされています!
 片や戦力を守護、迎撃、遊撃の3隊に分けて自由自在に用兵している2-C!
 片や階段からの攻略を頭から念頭に入れずベランダからの奇襲にのみ専念している1-F!
 しかし奇襲とは奇を衒うから奇襲と呼ぶのであり、完全に対処を施している2-C本陣に向かって突っ込んで行くのは最早無謀としか言いようがありません!
 おっと! また一人一年生が豪快な投げっ放しジャーマンでテラスから落下していきました!
 下にはピラニアの様に待ち構えている2-C男子の遊撃部隊! 絶命は確実です!』
 
「この時期の一年間と云うのは想像以上に経験値の差がつきますからね。 当然と云えば当然の結果でしょう」
「なぁ天野」
「はい?」
「2-Cって確かお前のクラスだよな」
「ええ。 それが何か?」
「何でお前、ここに?」
「ヒマだったからです」
「……応援とかは?」
「ヒマだったからです」

何か問題が?
そんな表情で祐一を見上げる美汐は、祐一が知っている中でも一・二を争うくらい可愛かった。
クラスマッチTシャツと体操着。
たったそれだけの装備なのに、普段がアレな美汐が着るとまた違う。
とてもキュートだ。
やはりギャップとはあなどれない。
等と言えば言ったで誉め言葉なのに『暗におばさんくさいと言っているようなものだ』とむくれられる事が判りきっていたので、祐一は何も言わなかった。
代わりに、美汐の存在を歓迎する笑みを浮かべた。
それだけで充分だった。
 
「美坂さんも来てるはずですよ? ほら、あそこに」
「香里のポニテ引っ張ってるあれか? あ、叩かれた。 間違い無くアレだ」
「時に相沢さん」
「ん?」
「私でも、構いませんよ?」
「………」
 
また一人、テラスから誰かが放り投げられた。
報道部の葉山が、一年生が全滅した事を告げた。
観衆が、順当とは言え勝敗の決した第一戦を祝福する歓声をあげた。
そんな中、物言わぬ二人。
語りかけておきながらまったく祐一の方を見ず、じっと校舎を見詰め続ける美汐。
その横顔に、祐一は全くの驚きを隠しきれなかった。
 
「いつから?」
「つい先程から」
「何で?」
「女のカン、でしょうか」
「……おっかねぇ」
 
女のカンってのは絶対に超能力の類だ。
祐一はそう思った。
 
「ん、まぁ心遣いは感謝するが」
「結構だ、と」
「ああ。 俺はともかく、全体の士気にも関係するからな」
「じゃあ、相沢さんは?」
「へ?」
「あの人と私と。 相沢さんの士気はどちらの方が向上しますか?」
 
ようやっと視線を祐一に戻す美汐。
その表情は、明らかに答えにくそうにしている祐一の反応を楽しんでいた。
えーと、とかうーと、とか。
遂には助けを求めるような表情で北川の方を向いてしまった祐一を見て、美汐の表情が悪戯に綻んだ。
 
どうやら少しいじめすぎた様だ。
ごめんなさい。
真面目に困ってしまった貴方に。
真面目に困ってくれた貴方に。
こんなにもいじわるな私から、謝罪と敬愛の証を。
 
「相沢さん」
「はいっ?」
「何もそんな反応をしなくても、取って食べたりしません。 これ、プレゼントです」
 
そう言って美汐から手渡されたのは、彼女のクラスカラーである桃色のハチマキ。
先程までカチューシャの様に頭の上に乗っていたそれは、まだ少し暖かかった。
突然のプレゼントに意味を見出せず硬直する祐一。
その姿を見て、またいたずらに笑い、美汐は手際良く桃色のハチマキを祐一の右手首に結び付けた。
 
「これは?」
「私、です」
「……マジで?」
 
言葉では応えず、代わりにこくこくと頷く。
自分の手首に括られたハチマキの意味を察したのだろう、祐一は微妙に困ったような表情を見せた。
だけど、迷惑そうな顔ではなかった。
察しの良い男の人は嫌いじゃない。
心の中でそんな事を思いながら、美汐は意図的に逸らしていた視線をもう一度祐一の元へと戻した。
 
「奪られたりしたら、許しませんから」
 
着々と、『その時』は迫りつつあった。
 
 
 
 
 
* * *
 
 
 
 
 
初夏の陽射しも永久(とこしえ)ではない。
ゆっくりとしかし確実に、陰りは現れる。
影が、輪郭を無くす。
周囲の闇と同化する。
初めに気付いた者は誰だったか。
声から察するに男子生徒だっただろう。
一際大きな声で放たれたその一言は、やがて全校を扇動した。
 
火を灯せ
 
松明を。
電気ではなく、炎を。
闇と我等を同時に照らす灯を。
燈せ。
準備が無いとは言わせぬ。
知っているぞ体育祭実行委員会。
貴様等が商店街で松の薪を大量に購入していたと云う事実を。
 
かくして灯りは燈された。
当然それだけでは賄い切れないので野球部とサッカー部御用達のナイター設備も併用されてはいたが、それでも。
校庭に点在する一種異様な炎の揺らめき。
種の起源に立ち戻るなら本来恐れるべき存在であるその朱は、しかし現実にはより一層の猛りを皆に与えていた。
 
夜と炎と空に月。
神代の時よりいつの日も、人を唄わせ躍らせて。
心を狂わす三重奏。
今宵も此度も変わりなく、素敵な素敵な舞台を創る。
主演は勿論、彼しかいない。
 
大接戦だったセミファイナルが終わった。
瞬間、空気が変わった。
 
この学園で『最強』と云えば、それは久瀬だった。
時に反体制の者が出るほど、決して曲げる事の無い確固たる『信念』と『正義』を自身の中に持った男。
学園史上最強とまで謳われた執行部の権力を用い、抗う者は全て叩き伏せてきた。
勿論、完膚なきまでの『正義』で。
平和な学園。
安全な学園。
鉄の掟に護られた学園は何処までも平穏に、しかしゆっくりと淀み始めていた。
 
そして昨年の冬、事件は起こった。
一階廊下部分窓ガラス全損から始まった『それ』は【鹿鳴殿の変】(別名、舞踏会事件)をも引き起こし、遂には教室塔での刃傷沙汰にまで発展した。
学園史上に残る未曾有の大事件、【睦月事件】
誰もが知っている事件の陰には、誰も知らない一人の男子生徒の影があった。
名を、相沢祐一。
誰も見た事がないその男子生徒は、しかし一ヶ月後には学園の誰もが知っている男になっていた。
 
何も知らぬが故なのか、全てを識っての行動か。
相沢祐一は『最強』である久瀬に真っ向から挑み、噛み付き、尚且つその威厳を幾許かでも失墜させる事に成功した。
”あの”生徒会が、一度は下した『正義』を覆した。
誰の目にも妥当であると映っていた『川澄舞の退学』を、取り消した。
勿論その背後にどのような実情が内包されていたかを識る者は皆無に等しく、だからこそ群集はこの事件の顛末を『生徒会の敗北』として受け取った。
新たな風が、学園を吹き抜けた。
 
闇の中動き出す。
幾許かの陰りを見せて尚学園史上最強の権力を持った男が率いる部隊と、学園史上類を見ない『何か』を持った男。
知名度は共にMAX。
学園内に知らぬ者など一人も居ない。
久瀬と、祐一。
頂上決戦。
直接対決。
誰もがこの瞬間を待ち望んでいた。
誰もがこの展開を待ち望んでいた。
 
『只今より、百華繚乱を締め括る最後の合戦を執り行います』
 
若干ではあるが興奮気味のアナウンスが校庭に響き渡った。
フラットな声がお昼の放送でも一部に大人気な、報道部アナウンス課所属、一年D組の『柊 奈々佳(ひいらぎ ななか)』
小さな三つ編みを両に揺らした可愛い彼女は、事前に行われたアンケートで得票数ぶっちぎりでの最終戦ウグイス嬢指名だった。
 
張り詰める空気。
睨み合う両軍勢。
観客までもが掌を拳に変えていた。
 
『3-A大将、生徒執行部会会長、久瀬光臣 本陣、用務員室』
 
教室塔から完全に独立している用務員室。
その内部を本陣に選択した場合、墜とすのは非常に困難である。
誰もがそれを瞬時に理解したのか、感嘆とも歓声ともつかないどよめきが群衆を支配した。
何故なら、難攻不落が判っていても用務員室とはおいそれと【本陣】に設定できるような場所ではないのだから。
具体的に言えば、用務員の内藤さんはとんでもなくおっかない。
この前なんか『燃えるゴミのゴミ箱の中に空き缶が入ってた』って言って教室まで怒鳴り込んできたのだ。
出来る事なら卒業するまで目を合わせたくない部類に属する用務員、それが内藤さんだった。
にも関わらず、平然と其処を【本陣】に指定する不遜さ。
目的のためなら手段を選ばぬ。
久瀬の、久瀬足る所以であった。
 
『対しますは3-B。 大将、相沢祐一』
 
呼ばれた自分の名に小さく腕を上げ、大将である事を自身とそして久瀬に見せつける祐一。
その仕草に、期せずして観衆が沸いた。
知名度は互いにMAXだが、『何か』を期待させられるのはいつだって悪役【ヒール】の方なのであった。
『正義』は、その正当性故に道を外す事が出来ない。
そして後先考えない若人が求めるのは、いつだってオフロードでしかない。
さぁ、今回は何をしでかしてくれるのか。
今宵五月の蒼の日に、どれだけ素敵な悪戯を。
頼むぜ、我等が期待のバッドボーイ。
 
『本陣 ……本、じ……え、えぇ?』
 
突如として歯切れの悪くなるアナウンス。
見れば、先だって提出された【本陣】指定の紙を見たままの姿勢で固まっていた。
おろおろと辺りを見まわし、あわあわと注がれる視線に脅え。
何事かと周囲がざわつけばざわつくほど、ウグイス嬢である柊さんは困惑しきった表情を見せるしか出来なくなっていた。
最終的にその瞳が辿りついたのは祐一の元。
助けを求めるような潤んだ眼差しに、祐一はさも楽しそうに不適に笑って言い放った。
 
「構わん。 読め」
『は、はいっ』
 
アナウンスが再開されようとした事を感じ、一言一句聞き漏らす事が無いようにと皆が息を潜めた。
五月の夜に、何処までも静寂は心地良く。
蒼を含んだ風が吹き。
松明が弾ける音が小さく響き。
何時の間にか北川が戦列から居なくなっていた。
 
『発表しますっ!』
 
今度は確かに判る。
アナウンスの女の娘も、確実に興奮している。
あの相沢がたくらんだ、今の時点ではどんな類の物かは判らないが悪巧みに参加できることを喜びに感じている。
正しい判断だ。
まったくもって正しい判断だ。
見ているだけの阿呆はなんかちっとも面白くない。
踊る阿呆が彼等なら、俺達は叫ぶ阿呆だ。
天地開闢以来の雄叫びを、皐月の空へとぶち上げる壮大な阿呆だ。
さぁ相沢!
幕を上げてくれ!
引鉄を引いてくれ!
 
『3-B本陣っ!』
 
 
 
 
 
 
 
 
『美坂香里っ!』
 
 
 
 
 
 
 
 
叫ばれる【本陣】の名前に一瞬だけ全校が凍り、一陣の風が皆の間を吹き抜けた。
美坂香里。
美坂香里?
何所だそれ。
いやほら美坂って確か一年の頃からずっと学年首席を守り通してるって噂の。
ああ、って言うか可愛い事で有名なあの。
はいはいはい、いっつも相沢と北川のコンビとドツキ漫才してるあの。
 
僅か10秒で全員が【本陣】の所在を理解し、その全ての視線が3-Bの陣地に注がれた。
3-Bのみんなは、まるで引き潮の様にざざーっと後ろに下がった。
突発的なドーナツ化現象に気がつけば彼女の周りには誰も居なく、ただ一人、護衛を仰せ付かった騎士【ナイト】のみが姫の手を取って恭しく片膝をついていた。
月明かりと松灯りの照らし出す最高の舞台。
ポニーテールの姫とアンテナの騎士。
騎士は姫の為に。
姫は世界の為に。
世界は二人の為に。
一時的に異世界【ファンタジア】に迷い込んでしまったかと全校生徒に思わせるほど、その光景は幻想的で叙情的で、尚且つ素敵だった。
 
「ちょ、ちょっ、え、ぇえっ? き、きたっ、えぇーっ?」
 
見ろあの姫を。
顔を真っ赤にしながらあたふたしてる、ポニーテールの可愛い姫を。
見ろあの騎士を。
姫の反応をまったく全てお見通しで笑ってやがる、何とも不敬なあの騎士を。
最高だ!
そうだ、これは祭り【フィエスタ】だ!
さっき殴られた頬が痛いけど。
さっき蹴られた腹が痛いけど。
もう忘れた。
そんな事はどうだっていい。
30分前までは敵だった男と肩を組み、1分前までは赤の他人だった女の娘と一緒に。
手を叩こう。
足を鳴らそう。
楽しい、楽しい、楽しい!
阿呆になれる瞬間は、何物にも代え難い程に楽しい!
今まさに俺達は、叫ぶ阿呆だ!
グラッツェ相沢最高だ!
 
「ちょっと待てぇ!」
 
突如、久瀬の怒声が響き渡り、色めき立った歓声はそれによって一気に払拭された。
次いで訪れる、気まずさを伴った沈黙。
地面を揺らすほどの歓声から一転した為、その静けさは耳が痛いほどだった。
 
「本陣が人だとっ? そんな事を認めると言うのかっ!」
 
何時の間に奪ったのだろう、マイクを片手に叫ぶ久瀬。
成る程いちいちごもっともだった。
それもその筈、誰が考え付くと言うのか、こんなにも馬鹿げた【本陣】を。
少なくとも前例は一度だって無い。
だからこそ、そうだからこそ祐一は香里を【本陣】に選んだのだった。
 
「おいおい久瀬。 仮にも生徒会長がイチャモンつけるってのは良くないんじゃないのか?」
 
何所から持ってきたのか、やはりマイクを持ちながら自軍の一歩前に歩み出る祐一。
【合戦】の前哨戦としてはこれ以上なく明確な構図だった。
大将同士の一騎討ち。
祐一の右手に結わえられた桃色のハチマキが揺れていた。
 
「い、イチャモンだとっ?」
「【合戦】規定の何処に書いてあるんだ? 【本陣】は建物でなくてはいけません、なんて」
「そんな事言われずとも判断できるだろう! 呆けたか!」
「いいや。 規定には『校内』と書いてある。 『校内』とは即ち範囲だ。 その中に在るものならば全て許容されるはず。 違うか? 生徒会長さんよ」
 
どこまでも不遜に言い放つ祐一に、遠くの方の観客から拍手が捲き起こった。
”あの”久瀬が論争で遅れを取っている。
信じがたい。
信じがたい、が。
何故だか妙に心地良かった。
 
と、そこで祐一がふいっと踵を返した。
やっぱりマイクを持ったまま。
ゆっくりゆっくり足を進め、辿りついたのは3-B陣地。
未だに片膝を着きながら肩で笑う北川と目だけで意思疎通を成し、直後に【騎士】は【姫】の手を離した。
 
真っ赤になって涙目で非難がましく自分を睨みつける姫。
大人びた容姿とは裏腹に驚くほど衆人環視に弱い、そんな所もまた魅力。
 
どうにもこうにも【姫】を褒め称える言葉しか浮かばない自分の思考を笑いながら。
3-Bの大将は。
相沢祐一は。
全校生徒が注目する中で躊躇いも戸惑い恥じらいも一切無く、最高に可愛い【姫】を思いっきり抱き寄せた。
それはもう擬音にすれば『だきっ』ってな感じで。
 
あえてこの時の観衆を表現するのなら、それはもう『爆発』としか言い様が無かった。
嬌声と、怒声と、罵声と、歓声と。
それとあと『何か』が混ざった混声合唱は、比喩表現抜きで校舎を揺らした。
叫ぶ阿呆は健在だった。
 
「久瀬ぇー!」
 
マイクを通した祐一の声が響く。
 
「こいつが!」
 
胸に抱いた香里をびしっと指して。
 
「俺の!」
 
そこで一瞬の溜めを作って。
 
「俺等の守るべき本陣で護るべき姫だ! 奪えるもんなら奪ってみやがれ!」
 
ひゃー。
混乱しまくってる思考回路の隅で、香里はそんな悲鳴とも嬌声ともつかぬ間抜けた声をあげていた。
ひゃー、ひゃー、ひゃー。
一体全体何がどうなっているのか。
まったくもって判らない。
取り敢えず今は頬が熱い。
とても熱い。
きっと相沢君の体温が高い所為だ。
それ以外に理由なんて、考えつかない。
ひゃー、ひゃー、ひゃー。
 
「あー、あー、あー、うん、まぁ大体はウチの大将が言ったよーな、そーゆー事なんだが」
 
何時の間にかマイクが北川に渡されたらしく、観衆はまた聞こえ始めた声に耳を澄ました。
注目の中、膝立ちの姿勢からゆっくりと立ちあがる【騎士】
風に吹かれ、靡くアンテナ。
月光に輝く金髪。
女子生徒の幾許かは思った。
あんな騎士なら私もほしいなー。
 
「もう一つ付け加える事があるとすればな」
 
言ってから一度マイクを下し、両手を大きく広げる。
そんでもって北川は。
祐一に抱かれてこれ以上赤くなったら死ぬってくらい赤くなってる姫を。
まったくの容赦無しに。
更にその上から思いっきり抱き締めた。
腕の中から『ぼんっ』って音がしたような気がした。
 
「覚悟しろよ会長! こと美坂を守る為にだったら、俺は冗談抜きで命かけれっからなぁ!」
 
宣言の後、天高く投げ捨てられるマイク。
地面に落ちて『ガゴン!』とか云う音が校内に響き渡ると共に、再び校舎が激しく揺れた。
3-Bの面々に限っては、祭りの上での発言と取られがちな北川の言葉の、その裏に在る真意をも理解した。
恋と戦い。
長い長い人類の歴史の中で、この二つ以上のものなどかつて無かった。
そして恐らくはこれからも。
ならばやはり、叫ぶしかないだろう。
何に対して?
それは勿論。
 
「きたっち頑張れー!」
「身分を考えろー!」
「美坂先輩は俺のモノだー!」
 
北川、走る。
マイクを拾う。
あー、あー、あー。
 
「バカ言ってんじゃねー! 美坂は俺のだ!」
 
全校生徒、大熱狂。
祐一、はしっとマイクを奪う。
すーっと息を吸って。
 
「いや、俺のだ!」
 
北川、更にマイクを奪う。
 
「いーや俺のだ!」
 
自分の意思を差し置いて俺だ俺だと言い合う二人に、無責任にやんややんやと囃し立てる観衆に、ついに香里がキレた。
だんっ!と足を鳴らし、ばっ!と逆ダッコちゃん状態から抜け出し、キッ!と二人を睨みつける。
普段の冷静な表情でやられたなら多分に恐れるべき対象であるだろうそれは、涙目で顔を真っ赤にしながらしかもポニテの状態では『可愛い』以外の何モノでもなかった。
 
「ばかばかばかばかっ! 何で勝手にそんなこと決めてんのよっ! 何で―――」
 
相談してくれなかったのよ。
相談してくれたら、喜んでじゃないけど頷いてあげれたのに。
もっと前々から、このお祭りを楽しむ事だって出来たのに。
一緒に。
みんなで一緒にお祭り騒ぎを楽しみたかったのに。
……でも。
だけど。
最後にはこうやって誘ってくれたから―――
 
「〜〜〜〜〜命令よっ!」
 
祐一からマイクを奪い、顔面をびしっと指差し、【姫】は【大将】と【騎士】に向かって高らかに告げた。
厳然たる風格を持って。
燦爛たる気品を持って。
めっちゃくちゃな、可愛さを持って。
 
「最後まで守ってくれなかったら、承知しないんだからっ!」
 
言って数瞬後、【姫】が笑った。
【大将】と【騎士】が不退転の意思を瞳に宿し、拳と拳を突き合わせた。
それを見た3-B兵卒全員が、既に頭打ちだったボルテージを更に限界突破させた。
開戦の準備は整った。
 
夜は深く。
月は蒼く。
灯火は紅く。
 
人々は唄った。
この好き日に、自分が出会えた喜びを。
 
人々は笑った。
この好き日に、自分が今此処にいる楽しさを。
 
人々は叫んだ。
この好き日に、それ以外にする事が見付からなかった。
 
 
『合戦! 始めっ!』
 
 
後日の【雪割桜】は、やはり史上最高の売上げを誇った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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後書く
 
言うまでもないけど一応、『B』系列の世界。
どっちが勝ったかを気にするなんて野暮ってもんだぜ次元。