前略お母様。
私は、実の父親に恋をしています。
それはもう、ずっと前から。
恐らくは彼が貴女の夫である権利を永久に失った瞬間から、この恋はきっと始まってしまっていたのでしょう。
でも、どうか安心してください。
お母様の男を見る目が確かであったように、私もまた男を見る目には確たる自信を持っています。
だって、そうでしょう。
お母様が愛した男性を、私が好きにならない筈がない。
親子二代でたった一人の男に骨抜きにされてしまう人生も、私の価値観では相当に素敵なものです。
だからお母様、どうか安心して。
私はどちらかを選んだ訳ではないし、どっちもの状態に疲れた訳でもありません。
ただ、お母様と過ごした時間同様、愛する彼とも同じ時を共有したいと思っているだけなのです。
そして彼がお母様と愛し合った時間に負けないぐらいの時を、恋する乙女の私としては持ちたいだけなのです。
覚えていますか?
彼の傍に居られるだけで、何よりも幸せだったと言えた日々を。
過去には想い出があり、未来には希望があり、すぐ傍には彼が居てくれた日々を。
お母様にとっては既に青臭い思い出になってしまったかもしれない時間を、それでも娘である私は現在進行形で生きて―――

そこまで書いて、私は一つだけ大きな溜息をついた。
飾り気の無い便箋に規則正しく並んだ文字は、何処の箇所を抜き取ってもこの家との離別を前提とした言葉にしか読み取れない。
でもそれも、あながち間違いじゃないなとも思った。
時計を見れば、時は既に丑三つを回って久しい真夜中。
これ以上の行動は流石に明日の学業に支障を来すだろうと思い、私は机の上の手紙を下から二段目の引き出しに入れてしっかりと鍵を掛けた。

書きかけのままの、出せない手紙

この手紙をいつか出せる日が来ればいいなと思っているのか、そんな日が永遠に来なければいいなと思っているのか。
実の所、それは私にもよく判っていない。
そしてそれを判る日が来ればいいと思っているのか来なければいいと思っているのかすら、私には判らなかった。
だからもう、考えるのをやめて寝る事にした。
明日もまた素敵な一日が私を待っている。
その事に欠片も疑いを持たずに眠りにつける事こそが、幸せなのだと胸に刻み込みながら。

愛してるよ、お母様。
愛してるよ、おとう……










































L ――――― LOVE LOVE MY FATHER ―――――




































『不良になった日』


つまるところ自分は若さを持て余したお母様とおとうの『一時の過ち』の産物なのだと気付いたのは、私が人知れず『女』になった日の午前0時を回った頃だったと記憶している。
気付いてしまえば後は出来の悪いドラマのシナリオの様に事が運ぶのは簡単で、三日も経てば世間一般的に『グレた』と言われても無理の無いヤンキー少女が出来あがって。
は、いなかった。
バイク、シンナー、薬物【ドラッグ】。
テレビやマンガの中ではそれこそ『はじめてのおつかい』レベルの子供でも簡単に手に入りそうなその不良アイテムはしかし、私の手元には一切入ってこようとしなかった。
バイクに乗るのには免許証が必要であり、その免許証なるものは今の自分の年齢では取得出来ないらしい。
薬局で「シンナー下さい」って言ったら「何に使うの」って訊かれて「吸うんです」って言ったら爆笑された。
同じく薬局で「じゃあ麻薬下さい」って言ったらまたまた爆笑された。
どうやら薬局では麻薬を売ってくれないらしい事を、この時私は初めて知った。
ひょっとしたら処方箋を持っていけば奥に隠してある麻薬を売ってくれるのかもしれないとも思ったが、そこで面倒臭くなってしまって、麻薬を買うのも諦めた。
この世界は私が不良になることをあまり歓迎していないんじゃないかとさえ思った。
そんなこんなで結局はスカートの丈を長くするくらいしか不良になる術が思いつかなかった可愛いおバカさん。
時に倉田祐、中学一年の秋だった。

「おとう、タバコ」
「ん。 ほらよ」
「………」
「どうした?」
「どうしたじゃないよ。 おとうこそどーして普通に差し出すわけ?」
「お前が欲しいって言うからだろ。 言わなきゃ出さねーよ」
「そ、そーゆー事じゃなくてですね」
「叱れってか?」
「……もういいです」

一度は受け取ったタバコをぺいっと投げ捨てる。
自分では的外れな方向に投げたはずなのにしっかりとキャッチする辺り、おとうは見かけに拠らず運動神経が良いのだと思った。

それにしてもこの人は何も判っていない全然わかってない完膚なきまでに判ってない。
自分の娘が不良への道をチョッパーに跨ってぶっ飛ばそうとしてるのに、よりにもよってそのバイクにハイオクを注ぎこむとは何事か。
父親と言うものは普通、こんな時にはブレーキの役割を果たすべきではないのか。
いや別にブレーキをかけて欲しい訳じゃないのだけれども。

「珍しく佐祐理さんから電話があったよ。 実に一年ぶりくらいに」
「っ?」
「お前がグレたって、えらく狼狽してた。 電話越しだから判らないと思ってたんだろうが、多分、泣いてたぞ」
「………」
「あの人は根っからのお嬢だし、しかもお前を溺愛してる。 予想外の出来事がしかも自分の娘に起こったらもう、どうしようも無くなっちまったんだろうな」

お母様が?
おとうに電話を?

「その結果が、俺に電話だ。 信じられるか? ”あの”佐祐理さんが俺に電話してきて、お前の事を相談したんだぜ」

信じられない。
倉田家では最早タブーにまでなった『相沢祐一』に、その元凶であるお母様が自ら電話をかけただなんて。
比喩表現抜きで自分が全てを奪った男の人に、事もあろうか奪った品物について相談するなんて。
一体、お母様はどんな思いで受話器を取ったのだろうか。
等とくっだらない事は、私は微塵も思わなかった。

「お母様がおとうに電話をかける事がそんなにも不自然な事になるようにしてしまったのは、私の所為じゃないもん」
「ぬ」
「グレたのは本当。 原因は『複雑な家庭環境』。 怒る権利は、おとうには無いです」

非道い言い草だと自分でも思う。
しかし一度セーフティーを外された私の口はフルオートで、弾装の中に込められている言葉【弾丸】が全て撃ち尽くされるまで止まろうとはしなかった。
止めようとしても、止まるものではなかった。

「バカじゃないかって自分でも判ってる。
 でも実際に私は納得がいかなかった。
 何にって、勿論おとうが一緒に暮らしてくれない事。
 お母様がおとうの事を笑って話せない事。
 私がおとうの事を笑ってお母様に話せない事。
 二人が……私の前で一緒に居てくれない事。
 ねぇ、それって私のせいですか?
 私が何か悪い事をしたから、おとうは私と一緒に居てくれなくなったのですかっ?
 お母様とおとうが別れてしまってだから二人の結婚が失敗だったと言うのなら、私の存在自体が失敗だったんですかっ!」

見る間に血塗れになっていく。
私が放つ弾丸で、私の大好きなおとうが。
痛がってる。
傷付いてる。
血を流してる。
ごめん。
ごめんね。
おとうだって、悪くないのにね。

「………」
「言いたい事はそれだけか?」
「………はぃ」

咄嗟に「ごめんなさい」って言おうとしたけど、その言葉は何故か喉の奥で詰まってしまって出てこなかった。
代わりに、涙がぼろぼろと零れ落ちてきた。
頬を流れる液体を『熱い』と思った。
それは多分、遠い昔以来の事だと思った。

「それは、俺がお前をきつく抱き締めてやる事じゃ解決しないほど大きな悩みか?」

傷だらけの血だらけになりながらそれを微塵も見せない風体で言い放つおとうに、私は何所までも深く嘆息した。
深く深く息を吐き、それから涙でぼやけた視界で思いっきりおとうを睨みつけた。

バカな。
何を言っているのだこの人は。
やっぱり全然まったくこれっぽっちも判ってないじゃないか。

私がおとうに抱きすくめられて解決しない悩みなど、この世の中に在るものか。

タックルと勘違いされそうなほど爆発的な勢いで私はおとうに向かって飛び付いた。
普段なら即座に回避行動に出るおとうも流石に場の雰囲気だけは読み違えなかった様で、さながらふっかふかの布団の様に暖かく私の身体を抱きとめてくれた。
ぐはっとか言う声は、この際聞こえなかった事にしておく。

「おとう」
「ん?」
「おとうおとうおとう」
「はいはい、なんですか」
「全部ぜんぶ、ごめんなさい。 痛くしてごめんなさい。 ヤなこと言ってごめんなさい」
「傷は男の勲章だって、昔の偉い人が言ってた。 気にすんな」

はて、私が聞いたのでは男の勲章は確かつっぱる事だったはずだ。
するとお相撲さんなどは傷付いてしかもつっぱるから勲章だらけになってしまう。
偉いんだね、お相撲さん。

「ねぇおとう」
「はいはい?」
「女はさ。 何を勲章にすればいいの?」

男にばっかり勲章があるのはズルイ。
女の私にも何か勲章になるようなものが欲しい。
まったくもって的外れな男女平等理論に、おとうは笑いもせずに即答した。

「男の為に流した涙。 それが女の勲章だ」
「じゃあ……今の私は?」
「また一つ女を上げたな、娘」

何だか体よくあしらわれたような気がしないでもないが、何しろ間近で『女を上げた』とか言われたその時の私が冷静な思考を保っていられたはずがなかった。
ただただ嬉しくて少し恥かしくて、それら全てを霞ませるくらいおとうは素敵で。
ヤバイと思った瞬間には既に時遅く、私の身体は完全に本能に支配されて愛しいおとうの唇へと向かっていった後だった。

「〜〜〜っ?」
「ん―――ぷはっ」
「………この不良娘が」
「えへへ。 ちょっと照れるね」

実の父に慕情を抱く事が世間的に禁忌とされるのならば。
ああ、こんなにも不良になるのは簡単な事だった。
はぐ。
きす。
やばいなぁ、どんどん不良になっていく。

「ところでお前、グレたって一体なにしたんだ?」
「えーと、スカートの丈を長くしたです」
「…………それだけ?」
「はい」

前略お母様。
安心してください、祐は不良でもなんでもなかったそうです






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『Blue Moon』


ハードボイルド小説とハーレクィーン小説と推理小説を足して3で割ったような人生を地で行くおとうの夢が小説家だと聞いたとき、私は思わず「らぶりー」って叫んでしまった。
人生その物が何処か設定を間違えてしまった物語のような道を辿っているくせに、この上まだ自分の手で物語を創ろうとするその精神。
とってもラブリー。
同時に、別に和服フェチな訳でもないのに一年を通して和服を着ている理由もそれで納得がいった。
小説家と言えば和服。
『何てステレオタイプ化されたビジュアルだろう』だなんて事は、微塵も思わなかった。
胸元から覗く鎖骨は延髄直撃するくらいセクシーだし、立ち振る舞いの際にふわりと揺れる合わせの裾なんかはもう言葉じゃ言い表せないぐらいに素敵。
いつだってそうなのだ。
おとうがするのなら、それはいつだって私の中の真理になる。
コペルニクスなんて知った事じゃない。
なるほど、小説家。
知的な肉体労働者が肉体を誇示する知的労働者の数百倍セクシーだと思ってるのは、恐らく私だけではないはずだ。

「で? おとうはどんな物語を描いてるですか?」
「知りたきゃ買って読め。 ま、十八歳以下に読めるかどうかは謎だがな」
「い、イチハチ禁ですかっ?」
「色んな意味で、な」

そう言って笑うおとうの顔は、九割九分の確率で私の事をバカにしていた。

「買えはするだろう。 文字を追う事も出来るだろう。 だが、字を読む事が出来るのと文章を読めるってのはまったく別のスキルだ」
「私にはその資格が無い、と?」
「ってより、読む必要が無い」

ドライジンとバイオレットリキュールがシェイカーに放り込まれ、恐らくは我流だろう適当な手付きでシェイクされた。
本来なら一緒に混ぜ合わされるはずのリキッド・レモンは一足先にカクテルグラスの底に鎮座している。

「読む必要が?」
「俺が書いてるのは、夢にかまけて嫁と娘に逃げられた三流の男がいつか野垂れ死ぬまでの過程だ」


息を飲む音だけが、狭いアパートの中に響いた。
射し込む西日が背中にとても熱く、逆説的に私の影はとても濃く。
夢の為に家庭から切り捨てられたおとうがその過程を夢に描くってのは、一体どれほどの痛みを伴うのだろうか。
自嘲、自嘲、自嘲。
文字通り身を切りながら描く物語。
私もその中に登場する一つの刃なのだろうと思うと、どうしようもなく悲しくなってきた。

「沈むなよ。 読む必要が無いってのはお前が思ってるような意味で言ったんじゃない」
「ふぇ?」

顔を上げた私の目の前に差し出される、まるで宝石を溶かしたかのような綺麗な色をしたカクテルグラス。
もともとは青の強い紫色なのだろうけど、赤い夕日に透かされたその液体は何処までも調和の取れた紫を見せてくれていた。

スポットライトをサーチライトと勘違いして舞台を飛び降りたマヌケな主人公。
今や素敵なストーリーテーラー【語り部】
で、ありながらもやっぱり今でも私だけの主人公。

「俺の描く物語のヒロインはいつだってお前だ。 面白くないだろ? 脚本通りのドラマチックなんて」

私がヒロイン。
ひ、ひろいんっ?
あの吸い込むとイイカンジになれる薬ですかっ?
いやいや、そうじゃなくて。

「そ、そ、そっ」
「ソーラン節?」
「違いますっ。 そ、その物語でっ、わ、わ、私はどうなりますかっ?」
「落ちつけ」

ぺちっとおでこに軽い一撃を入れて、おとうはさっきのカクテルグラスを今度はちゃんと私の手に持たせた。
よっぽど巧く注がれたのだろう、リキッド・レモンとジンベースの層が危うい線で揺れている。
ゆらゆらと、頼りなく。
一度かき混ぜてしまえばそんな境界線など二度と表れず、かき混ぜてしまった方が舌には甘い。
そんな二層が揺れている様は、さながら私とおとうの関係の様だと思った。

「で、質問は?」
「……私とおとうは結ばれますか?」
「っは。 えらく直球だなオイ」

勿論、小説の中での話だけれども。
それでもおとうの手自ら描いた作品の中での事となれば、話しはまた別だった。
極論してしまえば創作活動の全ては願望の具現化でしかない。
つまり物語の中とは言え私とおとうが結ばれる展開が描かれているとすれば、それは現実世界でも捨てたもんじゃないって事になる。
せめて小説の中だけって訳じゃないけど。
期待してもいいよね、お父様。

「そのカクテル。 何だか判るか?」
「ブルー・ムーンです、よね」
「ああ、正解だが……Blue Moonに秘められた裏の意味は知らないか?」
「……裏の、意味?」
「『できない相談』、だ。 例え小説の中だろうが、禁忌を犯すのはそう容易いもんじゃない」

軽く、だけど強く。
青い月の光よりも更に硬質な響きを持って言い放たれた言葉は、少なからず私の心を動揺させた。
そりゃ私だってバカじゃないから、二人の関係が簡単にいかないなんて事は知っている。
でも、そんな事は百も二百も承知の上で喋っているのだ。
恋する乙女の無鉄砲さだけで発言していると思ったら大間違い。
毎回々々の告白も、おとうからすれば『またか』で終わるかもしれない告白も、私からすれば放課後の教室で憧れの先輩を前にしているくらいドッキドキなのに。
それなのに、毎度々々の事ながら、おとうはいつでも軽くいなす。
まさかおとうは勘違いしてるんじゃないですか。
私が惰性でおとうを好きだと言っているんだと。
私がおとうの事を好きでいるのが当たり前だと。
いつかはひょっとしたらもしかしたら、六十億分の一の確率で私が他の人に恋焦がれてしまうって事をも、忘れてるんじゃないですか?
私だって、私だって。

「おとうっ」
「でもな、Blue Moonにはもう一つの意味がある」
「わた、し、が……ふぇ、もう一つの意味?」
「『非常に稀な』とか『滅多に起こらない』とか」
「それが……どうしたですか」
「小説家風に翻訳すると、きっとそれらはこんな風に訳される事だろうよ」

言っておとうは私の目を見詰めた。
何処までも落ちていけそうなくらい深い、瞳の海。
夜にも似た漆黒。
映す蛍光灯の光は、瞳の夜に青く輝く。
Blue Moon

「事実は、小説より奇なり」

にやっと笑って自分のグラスを私のグラスに重ねるおとう。
それはまるで恋人同士のキスの様に。
だとすると、キンと高く鳴ったグラス同士の逢瀬の音は、恐らく私の胸の音なのだろう。

無理。
おとう以外の誰かを好きになるなんて、私には。
だって私は既に六十億分の一に出会っちゃってる。
これって奇跡?
ううん、きっと運命。
それが例え実の父親だったとしても、それもまたしょうがない。
事実は小説より、ですもんね。 





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『父の面影』


『もう二度と祐には会わないでほしい』とお母様が離縁の際におとうに突き付けた条件は、当の本人である私の人生の十分の一にも満たない期間しか守られている事はなかった。
もっともその約束の存在を知ったのは私がおとうに逢いに行っている事がバレてからかなり後の事だったし、そもそもバレたのが初めて逢いに行ってから半年以上も後の事になる。
結局は様々な重石を付けて生きている大人の考えなんて、直感で生きている子供を縛る事など出来はしないのだった。

しかし、確かに空白の時間は存在していた。
今ではもう定かではない5歳の頃の記憶を最後に、それから再会までの約7年間、私には『父親』の記憶が存在しない。
だからと言って何か具体的な不利益を被った事は無かったし、例えそれが原因でイジメに遭っていたとしても私はお母様を責めたりはしなかっただろう。
だってお母様には悪気など無かった。
どうせ願っても得られない物ならば、初めから見せないようにしてくれるのは一種の愛情でもある。

完璧な再会を果たす以前、私は『父親』のビジュアルを脳裏に持っていなかった。
5歳児が網膜に焼き付けた最後の『父親』は涙ばかりが輝いていたし、もう少しでお別れだからちゃんと覚えておこうとか思わせるほど『家族』は危うさを私に見せなかった。

そんな不明瞭な記憶だからこそ、私には否定し得る材料が見当たらない。
あの日、あの時、あの場所で。
まだ小学生だった私が出遭ったあの男の人が、ひょっとしたらおとうなんじゃないかって事を。

忘れもしない小学校四年生の冬の日。
いつもの曲がり道をふと逆に曲がってみたくなった私は、何故かその日に限って欲望に忠実に動いてしまっていた。
給食にキライなレーズンパンが出て不貞腐れ気味だったのか。
それとも算数のテストが100点で気分が良かった所為か。
今となっては理由など忘れてしまったしそれ以前に理由があったのかどうかも定かではないが、とにかく私はハーメルンの吹く笛に操られるようにてくてくと歩き続けていた。

家に帰る道と逆に曲がったのだから、家に辿りつくはずも無い。
いくら歩けど見知った通りは出てこない。
有り体に言えば、私は完全に道に迷ってしまっていた。
右を見る。
木。
左を見る。
木。
道はただ前と後ろにのみ続いていて、それ故に私はとても心細くなった。
心細くなればどうするか。
決まっている。

「ふぇ……ふえぇぇぇ」

泣いた。
私は泣いた。
どうか非生産的だと責めないでほしい。
何故なら彼女は泣きながらも歩き続けたのだから。
例えそれがまたしても実家とはかけ離れた方角に向かってだったにせよ、立ち止まるよりは遥かにマシだった、と思う。

「おかぁさまぁ……おかぁさまぁー……」

暗く、どんどん暗く。
比例して街路樹の影は大きく、恐怖心もまた大きく。
街灯も疎らな遊歩道はまるで巨人の食道を胃に向かって真逆様に歩いているような錯覚さえ幼い私に起こさせた。

「おい、そこの」
「っ!!」

だから、突然背後からかけられた声に到っては心臓が止まるんじゃないかとすら思った。
一瞬の硬直。
直後の、冗談抜きで命を掛けたダッシュ。
パニックを通り越してワニワニパニックな状態に陥った私は、恥も外聞も無く文字通り泣き叫びながら暗い道を全速力で疾走した。

「や、やぁぁぁぁ! お、おか、おかあさまぁぁぁぁ!」

ハッキリと覚えている。
私はこの時、たった一回を除いては遂に最後まで『お父様』とは叫ばなかった。
後ろから追ってきたのがもし仮におとうだったとしたら、無自覚の内に私はおとうを何度も傷付けていたのだろう。
父親の声を覚えていない娘。
父親の声を聞いて脅えながら逃げる娘。
泣き叫びながらも、父親の名を口にしない娘。
そんな私の後ろ姿は、あの時の男の人の目にはどう映っていたのだろうか。

「待て、落ちつけ、別に食ったりはしないし犯したりもしない」
「ふぇ、ふぇぇぇぇぇっ! やめ、やめぇぇぇ!」

小学生の女子の脚力が大人の男に勝てるはずもなく。
実にあっさりと私は掴まった。
だがしかしそれでも泣き喚く当時の私。
必死でもがく。
必死で足掻く。
後で見たら爪に血が付いていたのは、きっと暴れている最中に男の人の頬でも引っ掻いてしまったのだろう。
とにかく必死で抵抗した。

そして。
遂に。
私は。

「助けてぇぇぇ! ぉ、お父様ぁぁぁぁっ!」

”その”言葉を叫んだ。
たった一回。
意図的にではなく、本当に自然に。
もうどうしようもないくらいのピンチになって、初めて口をついて出た。
お父様。
もう何年も口に出していないその言葉は、私よりもむしろ私を後ろから捕まえている男の人に効果があった様に思えた。

聞き違いだと言われれば、私はそれを否定できない。
古い古い記憶の中の事だし、当時の私はワニワニパニック状態だった。
とてもマトモな思考回路を持っていたとは思えない。
ただ。

「………呼んだか? 祐」

背後から聞こえた声はとても小さくて、何故だか判らないけど涙に震えていた。
その声を聞いたらもう、私は抵抗なんて出来なくなっていた。

あの想い出がおとうだったら良いなと思うし、おとうじゃなきゃ良いなとも思う。
ドラマチックな出会いに憧れたりもするけど、あの涙の意味が明確に判らない以上は配役におとうを当て嵌めたくない。
どっちでも構わないのであれば、どっちつかずのままにしておくのもまた粋ってもんだ。
故に私は今になっても『あの日』の思い出を胸に仕舞い続け、決しておとうに問い質したりする事は無いのだった。





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『楽園【パラダイス】』


『文化とはなんぞや』ってな感じの問いに対する答えを高校生に対して説得力を伴いながら説明できる”自称”文化人の存在を、私は知らない。
もっともらしく繕われた言葉に納得するほど私を含む高校生は権威に対して盲目的ではないし、率直過ぎる言葉に共感できるほど若くもない。
何しろ私達は、うら若き中学生の時分で既に文化の死を体験しているのだ。
再構築は、酷く難しい。

思い起こされる中学校の文化祭ってのは、体育祭に比べて非常に『祭り分』が少ない行事だった。
簡潔に言えば面白くなかった。
ゲームもマンガもお絵描きもそれこそ格闘術やSEXですら人類が長い年月を経て積み上げてきた文化だと言うのに、およそ先生と呼ばれる人種はその全てを否定したがる。
『楽しむ事は罪だ』とまるで戦時中に贅沢を禁じるかのごとくして”楽しい事”を封じ、その代償として文字と数式の羅列を文化と称して祭り上げ、遂にはそれが三年間続いた。
まったくもって品が無い。
家庭科で強制的に作らされた出来の悪いエプロンを教室一杯に飾って『子供の心身の健全な育成』をこれ見よがしに表現している教室は、私にとって嫌悪の象徴でしかなかった。
これならまだ歌舞伎町ホストの顔写真を収益順に並べて貼る方がよっぽど文化的だと思った。

そう、欲望は何よりも説得力を持った文化だ。

「おとう。 これ、あげるです」
「なんじゃこりゃ」
「私達のクラスの模擬店で使えるご優待券。 飲み物と女の娘の指名が無料なんだって」
「指名?」
「……クラスの模擬店がそーゆースタイルなのです」

『そーゆー』スタイル。
早い話しがおねーちゃん系の店。
女子の多大な反対を押しきる形で決められた私達3-Bの模擬店は、まさしく欲望が何よりも説得力を持った文化である事を象徴していた。
悔やむべきは多数決が主張されたときに自分のクラスの男女比を把握していなかった事だろうか。
それとも、欲望にパイルダーオンされた男子の団結力を甘く見た事だろうか。
どちらにせよ民主主義国家で決定された多数決と云う数の暴力を覆す事は非常に難しく、結果として文化祭を今週末に控えた状態となってしまったと云う訳だった。

「……指名ねぇ」
「も、もちろん私は反対したですよっ?」

おとう以外の男の人と『そーゆー』カタチで馴れ合いたいだなんて誰が思うものか。
汝、姦淫する事なかれ。
自慢じゃないが倉田家は敬虔なカトリックのクリスチャンだ。

「でも……クラスの決定だから……」
「ああ、知ってるよ。 学校ってのはそんなもんだ」
「だから……ね、おとう。 怒っちゃやだよ?」
「怒る?」
「他の男の人と仲良くする私を。 例え一時だけでも、おとうよりも他の誰かを近くに置く私を。 嫌いになっちゃ……やだよぉ」

特等席(投げ出されたおとうの両足の間)から逆様の視界で見上げるおとうの顔。
何度見ても吸い込まれそうに感じるその瞳は、明確に『何を言ってんだこの阿呆』と言っていた。
ひ、ひどいんじゃないですかそれわっ。

「思春期と発情期を足して2で割ったようなガキが何匹群がろうが、俺の知った事じゃない」
「お、おとう?」
「それともアレか。 文化祭の模擬店すら笑って流す事の出来ない狭量な男がお前の好みか?」

そんな訳じゃない。
そんな訳じゃないんだけど。
……ちょっとだけ、嫉妬してほしかったのも事実だった。
だっていっつも追いかけてるのは私の方。
おとうはいつだって遥か手の届かない所を悠々と歩いているのだ。
必死で走って、まるでメロスの様に走って、やっと手が届きそうになると、おとうはまた手の届かない所へと走り去ってしまう。
だのに私が走り疲れて泣きそうになると、その場で立ち止まって手招きをするのだ。
それはもう、呆れるほど素敵な佇まいで。

「楽しんでこいよ。 祭りの二日間に限り、学園は楽園【パラダイス】だぜ?」

そう言って私の頭をくしゃくしゃと撫でるおとうのは、見間違えじゃなければ確かに少年のような笑顔を見せていた。
時に【華雪祭】、開祭三日前の夜の事だった。





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『巫女祐』


男性の異性に対する愛情はそのまんま征服欲に直結しているらしいと云う事を、私はお祖父様の書斎に在る心理学の本を読んで既に知っていた。
なるほど確かに私がおとうを想う時は、私以外の誰にも占有権を持たせたくないなと常々思っている。
女の私ですらこれほどまでに独占欲が強いのだから、きっと男の人の”それ”は物凄いのだろう。

「……だからと言ってこれは無いんじゃないかと思うですけど」

千早、緋袴、半襦袢、花簪、白衣、鉾先舞鈴、神楽鈴、五色絹。
何処からこんな物を用意したのだろう、今の私は前から見ても後ろから見ても紛う事無き巫女だった。
接客業に従事するのに鉾先舞鈴や神楽鈴は要らないと思うのだが、それを言い始めたらそもそも接客業に巫女服は適当ではない。
するとひょっとしたら男子は私に盟紳深湯でも執り行ってほしいのだろうか等と混乱気味な思考が頭の中でサンバを踊り、私は小さく「ふぇ」と呟いた。
勿論その悲痛な叫びはあまりにも小さく、祭りの喧騒に一口に飲み込まれてしまったのだけれども。

男性の異性に対する愛情はそのまんま征服欲に直結している。
だとするとこの巫女装束もその流れの中に在るのだろう。
考えてみれば巫女とはそもそも神に仕える女性の事であり、その本質は何者かに従う事であるとも考えられる。
ふと周りを見まわすとメイド服やらナース服やらタイトなスーツがウロウロしていたので、この時点を持って私の仮説は正しく立証された。
メイドはご主人様に、ナースは患者さんに、秘書は社長に。
それぞれ仕える者は違くても最終的に根底に流れる物はただ一つ。
従順に、ひたすら従順に。
何とも判りやすいおとうの言葉を借りれば思春期と発情期を足して2で割ったような考えしか持たない男子に軽い嫌悪感を感じながら、それでももう逃げる事など出来なかった。

暗幕によって完全に日光が遮断された教室。
照らし出すは赤とピンクのセロファンで着色された蛍光灯の光。
各テーブルにはキャンドルの炎。
そして指名された女の娘。
どのようにして教師から許可を得たのかが信じられないくらい、イカガワシイ雰囲気大爆発だった。

それにしても、と私は思う。
この教室の飾り付けを考えた人間は只者ではないだろう。
適度な暗闇は互いの表情をぼかし、それ故に親密度を大幅に上げる。
これは一般的にも知られている事だが、赤い色の照明は人間の感情をより興奮へと導く効果があるのだ。
それに加えて炎と異性。
此処まで完璧に計算し尽くされた人を堕落させる為の部屋を神様が見たら、きっとこう額に手を当てながら大いに嘆いてこう言われることだろう。
『OH MY GOD』と。
いやいや、神はあなたですよ、この役立たず。

「倉田さーん。 3番テーブルご指名でーす」
「ふえぇぇ」

既に5番テーブルに座っている私が呼ばれたと云う事は、特殊システムの一つである倍額指名【ダブル・スコア】が入ったのだろう。
殆ど泣き声に近い返事をしながら、私は今まで同席していた自称3-Cの男子生徒二名にお別れを告げた。
今の時点でのテーブル売上げは、指名料300円(テーブル15分)+延長料金100円(5分)+ファーストドリンク100円(×2)+スナックバケット300円の合計1000円。
高校の文化祭レベルでテーブル1000円を回収できるとは、クリスチャンながらお釈迦様でも思うまいと思ってしまった。
初めこの値段設定を聞いた時、私は内心でガッツポーズを取っていた。
こんなふざけたボッタクリバーに入る高校生なんかいる訳ないと思ってたし、だとすれば接客に従事する必要もなくなるはず。
閑古鳥バンザイ。
本気でそう思っていた。
なのに。

「こ、こんばんわー」
「こんばんわー。 ね、俺のこと判る? 同じ学年なんだけどさ」
「ばっかお前なんか知るかよ。 ねーねー、俺の事は判るっしょ。 このクラスにも結構きてるんだけどさ」

何やら泣きたくなってきた。
残念ながら私は貴方達の事なんて全然まったくこれっぽっちも知らないし、仮に知っていたとしてもそこから先に話題は発展しない。
なるほど別に悪い人達では無さそうだが、かと言って彼等を形作る要素ではどれ一つとして私の心の琴線を震わせる事は出来ないのも事実だった。
じゃあ何故に私の指名なんかにお金を払うのだろうと思い、考えても一向に判らなかったのでとりあえず訊いてみる事にした。

「あのー」
「はいはい?」
「な、なんで私を指名したんですか? それも倍額指名までして」
「倉田さん今フリーでしょ? それでコイツがさ、倉田さん可愛いだの素敵だのってうるさいから」
「だっ! テメーふざけんなよ! お前が先に行こうって言ったんじゃねーか」

残念ながら聞いてもよく判らなかった。
第一して私はフリーではない。
そりゃ完全なる両思いとは言い難いし、仮に思いが通じたとしても世間に向けて公言する事など出来っこないのだけれど。
けれど、想い人までが居ないように言われるのは少しどころじゃなく納得がいかなかった。
私にだって好きな人くらいは居る。
好きな人、居るのに……

ガッターン!

突然、大きな音が教室中に響いた。
何事かと思って音の方を向くと、そこにはウチのクラスの黒服に両腕を掴まれた一人の男子生徒。
ひっくり返った机の横には、彼の所有物らしきデジカメが所在無く鎮座していた。
あれは確か微細な光でも鮮明な画像を保証する最新式の超高感度デジカメだ。
ついこの前おとうにおねだりして物凄い勢いで断られた覚えがあるから、うん、間違いない。

「お客さん。 店内での隠し撮りとは感心しませんね」
「か、勘弁してくれ! 出来心だったんだ!」
「……ほう、しかもウチのNo.1、倉田お嬢を狙い撃ちか」

ふぇ?

「詳しい話しは裏で聞きましょうか。 ちょっと此方へ」
「た、助けてくれー!」
「お騒がせしました。 引き続きお楽しみください」

口をハンカチで塞がれたまま、デジカメの主はずるずると引き摺られていった。
私の心に多大な傷痕を残したままで。

もぅヤだよぉ……





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『愛すべきこの小さな世界の中で』


”ヒーローは遅れてやってくるもんだ”と幼い私に教えてくれた時のおとうは、私の知っている中でもかなり上位にランクインするくらい格好良かった事を覚えている。
言葉自体も勿論、いわゆる『普通』にカテゴられる父親には吐けそうにないくらい格好良かったのだが、恐らく本質は其処ではなかったのだろう。
自分と全く同等かひょっとしたらそれ以上に無邪気な色を残した、だけど何処までも透度の高い深遠のクリアブラック・アイズ。
彼の娘で在る事に不満は無かったがそれでも、おとうが常に少年の瞳を持っていた素晴らしき季節を共に過ごす事が出来なかった悲劇が非常に悔やまれるのもまた事実だった。
 
自分と彼がもしも青春と云う時期に同時に存在していたならば、私はどんな手段を用いてでも彼と結ばれようとしただろう。
しかしその為には自分の母である倉田佐祐理と愛する彼である相沢祐一との結婚を否定しなくてはならず、否定したならば二人の愛の結晶である自分の存在も同時に否定される。
ああなんと世界は不条理なパラドックスに満ちていると自分の境遇を嘆く暇も有らばこそ、私はそんなに暇でもなければ安穏とした環境に現在の身を置いてもいなかった。
 
まだ一日目。
普段の授業よりかは遥かに楽しい文化祭真っ最中の学校において諸手を挙げて歓迎されるだろうその言葉は、だけど私の内奥には陰鬱な響きしか残しはしなかった。
それは、盗撮騒動の直後の事。
暗い教室内と赤い照明と紅いロウソクの炎の中で、それでも私の表情が冴えない事から何事かを察してくれたのだろう、クラスの女の娘が休憩を勧めてくれた。
どうにも自分で思っていたより盗撮騒ぎとそれ以前の恋人云々のやり取りは私の精神に大きく作用していたらしい。
蓄積されていたそれらは”誰か”に対して愛想笑いをする必要がなくなった瞬間に一斉に押し寄せてき、そのあまりの重圧に耐え兼ねた私は席を立つと同時に小さく「ふぇ」と呟いた。
 
誰も悪くないよ。
うん、誰も悪くない。
 
文化祭中に限り3-Bの休憩室として使用されている3-Aの教室で一人座りながら、ゆっくりゆっくり息を吐く。
自分以外の人いきれが無いおよそ1アールほどの空間は、予想だにできないほど多くの人に囲まれ続けた数時間の疲れを微かにだが癒してくれた。
暗幕に覆われた3-Bの窓からじゃ見えない空を見上げれば、外は呆れるほどいいお天気。
「もう大丈夫だよね」と自分に言い聞かせてすっくと立ちあがれば鉾先舞鈴がしゃらんと鳴り、そー言えば今の自分は巫女さんだったと思い出し、私はまた少しだけ憂鬱になった。
憂鬱になったけど、みんなが頑張ってる状況の中でこれ以上自分の感情に流されて休息を得ようとするのは単なる甘えだと思い、私は3-Aの教室を後にした。

* * *
 
「うおーっ、巫女さんマジ可愛いっすね」
「ど、ども……」
「廊下で何回か擦れ違ってるんだけどさ、ね、俺の事判んない?」
「えーと…ごめんなさい。 私、人の顔とか覚えるのちょっと苦手なんで…」
「なーんだ、残念だなー。 オレは倉田さんの事ちゃんと知ってるのに」
「あ、あはは…」

教室に戻ってからものの数十秒で指名を受けて、座ってるのは教室の一番奥にある6番テーブル。
例によって例の如く一人では入り辛いのか、私が向かった先のテーブルにもやはり二人一組の男の人が座っていたりした。
そして始まる、長すぎる15分間。
男と女の自己紹介と売り込みを足して2で割ったような会話から発展する流れなんて古今東西一つしかなく、今回もその例に全く違う事はなかった。
要するに、私は二人の男の人に口説かれ始めた。
 
「この後さ、なんか予定ある?」
「学校が終わったら家に帰りますけど…」
「オレ等は仲間内で集まって飲みながら明日までオールで騒ぐんだけどさ、予定ないなら一緒に行かない?」
「ご、ごめんなさい。 巫女さんは神様に身を捧げているのであって男の人と個人的に親しくなったりは……」

嘘だ。
少なくとも私には、神になど仕える気は全く無い。
純潔を護り通す気だってありはしない。
この世界の中で、私にはおとうさえ居ればそれでいいのだ。
それだけでいいのに……そー言えば私は三日前からおとうに会っていない。
文化祭準備期間は私の予想を遥かに越えて忙しく、娘が夜遅くに帰宅する事に関してお母様とお祖父様は予想以上に過保護だった。
せめて声だけでも聴こうと思って電話をかければ、このご時世に携帯電話を持っていないおとうは何故だかこの三日間に限ってずっと家に居なかった。
だからあれほど携帯電話を持ってくれと言っているのに。
 
マズイ、と思った時にはもう遅かった。
完全に”おとう依存症”の私の身体は三日間の”おとう断ち”に遂に禁断症状を起こし、脳裏に浮かぶのは全て愛すべき相沢祐一の声とか姿でしかなくなっていた。
そしてヤバイ、と思った時にはもう手遅れだった。
じわじわと視界がぼやけてきて咄嗟に口を噤んだけれど、それでも喉元からは嗚咽とも吐息ともつかぬ小さな響きが、「ふぇ」とだけ洩れてしまった。
どーして、どーして私はこんな所で…巫女なんかやってるのかなぁっ

「な、なんだよオッサン…」

ふと、背後に気配を感じた。
元から多数の人数が行き来している教室内だけに気に留める必要も無いと思っていたその気配は、だけど今、明らかに私の着いている席のお客さんと対峙しているらしかった。
接客中に注意を他に逸らす行為はしてはいけないと事前指導で言われていたけど、何やらそうも言ってられない状況だと思って後ろを振り向く。
しかしその瞬間、私の身体は後ろに居た何者かによって高々と持ち上げられてしまっていた。
体勢としては肩に担がれてるとでも言えばいいのだろうか、私の視界からでは自分を担ぐ恐らく男の人の顔は見えない。
だけど、私はそのともすれば騒ぎ立てられて然るべき不審な行動に対して恐がったり叫んだりはしなかった。
だってもう私は、すでに細胞レベルでその人に恋焦がれているのだから。
声を聞かなくたって顔を見なくたって、こうやって触れてしまえば一瞬で誰だか判ってしまうのだから。

「お、おとうっ?」
「………」
 
存在に対して確信を持っているにも関わらず疑問形になったのは、『どうして』の部分が判らなかったから。
だのにおとうは私の問いに一切答えず、応えず、ただ黙ってその場に立ち尽くすだけだった。
その視線が向けられている先は、多分だけどさっきまで私のお客として座っていた男の人たち。
何でだかどーしてだかさっぱりと判らないけど、とりあえず私の中の女の直感は現状を『ヤバい』と認識していた。
驚いて無意識に発してしまった声が涙に震えていたなら尚更だ。

「ちょ、おとう? 大丈夫だからね? 落ちつこうねっ?」

ぐいぐいと目尻を袖で拭いながらじたばたと『降ろしてほしい』のボディーランゲージを示すけど、やっぱりおとうは完全無視。
代わりに周囲の視線だけはしっかりこっちに向けられていて、何やら私はさっきとは別の理由で泣きたくなった。
これじゃあ誰の為に、何の為に私が耐え難きを耐えていたのか判らないではないか。
どーして、どーしておとうはこんな事を―――
 
「黒服!」
 
それはクラスの誰の声だっただろうか。
気がつけばおとうは、盗撮騒ぎを起こした男子生徒よりも遥かに多数の黒服達に囲まれていた。
一人々々に確かに見覚えはあるはずなんだけど、サングラスと黒スーツに身を固めた彼等は普段と全く違っていて誰が誰だか判らない。
全く表情の見えない彼等は私の中ではただの『黒服』としてしか認識されず、そしてそれだけに彼等には何を言っても全くの無駄の様にも思えた。
でも、
 
「こいつは俺のもんだ! 文句あるか!」
 
一喝。
ただそれだけで、『黒服』は全員がクラスメートに戻ってしまっていた。
秘書も、メイドも、ナースもチャイナも口を開けない。
悠々と教室の外に向かって歩を進めるおとうの背中でただ一人だけ冷静を保っている私は、『文句ならそりゃ色々あるだろう』とか心の中で突っ込んだりしていた。
具体的には、お金を払って私を指名したのに横から掻っ攫われてしまったお客さんの立場とか。
もちろん掻っ攫われた方が遥かに幸せな私は口に出したりなんか絶対にしなかったのだけれども。
いやいや、シアワセとかそーゆー事じゃなしにこんな公衆の面前で私とおとうの関係がバレたら色々と問題アリじゃないですかっ。
いやいやいや問題アリって言っても私の方は拒む意思なんか全くなくってむしろ死ぬまで一緒だよラブラブマイファーザーって感じなんだけれども。
どうやら、私も冷静を保っていると云う訳ではなさそうだった。
 
「ちょ、おとうっ、降ろしなさい」
「………」
「こらおと―――」
「はっはっは、流石だな相沢。 悪の巣窟からお姫様を奪って颯爽と戻ってくるなんて芸当、お前じゃなきゃ出来ないぜ」
 
おとうに担がれたまま教室を出たところで、不意に響いた明るい声。
祭りの場においては何ら問題の無いその声は、しかし今の3-B及び私とおとうに関してだけは驚くほど場違いなものだった。
だけど不思議と不快感は無い。
まるで空気のような雰囲気の声に聞き覚えがあり、自由に振り向く事ができない状態ながらも首を声の方に向けると、そこにはやっぱり見覚えのある顔があった。
そう、その人はおとうの十数年来の親友で名前を―――
 
「き、北川のおじ様っ?」
「やっ。 久し振りだね、祐ちゃん」
 
―――北川潤。
私の中での通称、北川のおじ様。
それなりに整った容姿と安定した収入、そして他人に不快感を与えないと云う天性の雰囲気を持ったおじ様は、引く手数多ながらも未だもって独身貴族を貫いている。
おじ様には大好きな人が居たんだけど、その人はおじ様の気持ちに気付かないまま他の人と結婚してしまって、それでもずっとその人の事が忘れられないのだと。
その昔、珍しく酒に酔ったおとうが涙と一緒に零していたのを覚えている。
親友の永遠の失恋に涙を流せるおとうを素敵だと思う傍ら、その時私はおじ様の事をおとうを除けばこれ以上無く好ましい男性だと思った。
 
「随分とご無沙汰しておりました。 こ、こんな格好ですいませんが…」
 
巫女服で、おとうの肩に担がれて。
知り合いとは言え礼節を持って接するべきおじ様を目の前にして、自分の格好はあまりにも不適応だと思った。
巫女服はどうしようもないとしても、とりあえず。
 
「おとうってば、こら、降ろすですっ」
「………」
「聞いてるですかっ? んもーっ、おとうっ」
 
再び『降ろしてほしい』のボディーランゲージとして腕と脚をじたばたしてみる。
が、またしもおとうは私の意を全く汲んではくれなかった。
いや、汲んでくれないと言うのは少しばかり語弊があるだろう。
どうやらおとうは私の意思を知った上で、それでも降ろそうとしてくれないらしい。
そこまでするからにはおとうの方にも何か考えがあるのだろうけど、とにかく降ろしてくれなきゃマトモに話しも出来ない訳で。
加えてそれ以前に感じたおとうの軽率な行動に対する憤り、周囲の視線による羞恥、今日一日分の疲れなど一切合財が私の感情に流入してきて。
卑怯だし非道な手段だと判ってはいたけれど、最終手段として私は少しだけ強い語気で言い放った。
 
「祐一さんっ! 降ろしなさいっ」
「っ!?」
 
私を抱える腕と肩がびくっと揺れ、それから暫くしておとうはゆっくりと私を床に降ろしてくれた。
少し離れた位置で北川のおじ様が「すげ…倉田先輩の声とそっくりだ」とか言ってるのが聞こえたけど、当たり前だ、それを自覚しているからこそ『祐一さん』などと叫んだのだから。
 
「どーゆー事ですか? 一般公開は明日だって知らない訳じゃないですよね」
「………」
 
何も喋ってくれないおとう。
さっきからずっと、目も合わせようとしない。
その態度から察するにどうやら自分の所業について思う所があるとは判っているらしかったけど、そもそも自分の非をあっさり認めるような人ならば私はこんなに苦労していないのだ。
まるで貝の様に口を閉ざしたおとうを自分の思う通りに動かすのは無理だと早々に判断した私は、まずは外堀から埋める事を心に決めた。
 
「北川のおじ様。 九割方予想はついてますけど、一応お訊ねします」
「どうぞ?」
「今日は平日、金曜日です。 自由業に近いおとうとは違って会社務めをしているおじ様は、今日はお仕事のはずですよね」
「うん、正解だ」
「おとうが……押しかけたんですね? そして同行を強要した」
 
そこまで言って、私は視線をキッとおとうに向けた。
未だに視線を合わせようともしない、ダメ大人に。
 
「私だけならまだしも北川のおじ様にまで迷惑かけてっ。 さっきだってあのお客さんはちゃんとお金を払って私をっ―――」
 
―――私を、どうしたの?
買った?
借りた?
冗談じゃない、私は例えゲイツの全財産でだって一秒たりとて束縛される気なんかない。
そんな気はないのに、じゃあどうして私は―――
 
「……ゴメン」
 
どうしておとうが謝って、どうして私は怒ってるんだろう。
あ、あれ?
ちょっと待って……
これじゃまるでおとうを私が拒んでるみたいじゃ…
 
「あんま怒ってやるなよ、祐ちゃん」
「あ、お、おじ様…」
「こいつさ、三日前からずっと半泣きなんだぜ」
「ふぇ?」
「てめっ、北川っ! 余計な事をっ」
「さっきの祐ちゃんの推理だけど、残念ながら少し外れだ。 相沢が俺の家に押しかけてきたのは、正確に言えば三日前の夜からずっと。 しかも毎晩飲み明かし」
 
それは、私の予想より最悪の方向にクラスチェンジしている感があるんですけど?
思うだけにして、私は視線で先を促した。
にやっと笑って先を続けようとするおじ様をおとうが睨んでいたけど、どうやらおじ様の中では『私に全てを打ち明ける方が楽しい』と認識されたらしい。
それはそれは実に楽しそうにこくっと頷いて先を紡ぐおじ様は、やっぱり私にとってとても好感の持てる男性だった。
 
「そこでさ、酔っ払った相沢が何て言ってたと思う?」
「え、えーとえーと……また何かキザったらしい事を?」
「っくくく、逆だよ逆。 キザなんて言葉からは8万光年ぐらい遠い愚痴さ」
「ぐち?」
「き、北川ぁっ! それ以上言ったら絶交するぞぜっこー!」
 
ぜっこーって、子供ですか貴方は。
多分に呆れを含んだ溜息を一つ吐いて、私はおじ様を見やった。
愚痴とは恐らく、私の事に関してなのだろう。
胸が小さいとか、お母様に比して料理が下手だとか、いつもいつも子供っぽい癇癪を起こしておとうを困らせてばかりだとか。
少し考えただけでも思い起こされる節が山の様にある普段の自分を少し憂いてから、私はそれら全てを受け入れる心の準備を終了させた。
反省する材料がある内は、私はまだまだ成長できるって事だ。
さぁ、どんな愚痴でもかかってくるです。
 
「どんな…グチですか?」
「ああ、うん。 えーとね、『俺の祐が盗られちまう』とか『何で俺は祐の傍に居てやれないんだ』って、三日間ずっとそればっか」
「わー! わー! わー!」
「……それって…え? ふぇ?」
「愚痴って悩んで挙句の果てに文化祭乱入でお姫様救出だ。 まったく、こんな暴挙は現役時代だってやった事ないぜ?」
 
くりっと振り返り、おとうを見る。
そこに居たのは、私の知る限りのおとうではなかった。
長い髪をがしがしと掻きながら、俯いているだけどその顔はどう見ても真っ赤。
いつもいつも私を手玉にとって遊んでいる風のおとうはそこには居なく、目の前に居るのはまるで少年のように自分の心を持て余す一人の男の人だった。
愛しいと、それまで以上に本気で思った。
 
「お前が……お前も、いつかはこうやって俺よりも誰かを自分の近くに置くようになるんだって思うと…ゴメン、なんか巧く言えないけど…」
「わ、私はずっとおとうと一緒だっていつも言ってるじゃないですかっ」
「そんなん判るかよ……信じられるか…」
「なんでっ? そんなに私はおとうに信用されてなかったですか?」
「誓いの言葉も約束の指輪も、二人の象徴である”お前”ですら交わされた”永遠”を繋ぎ止められなかった! だのに今更……何を『ずっと』だなんて信じられる…」
「おとう……」
 
未だ、おとうは傷付き続けていた。
その事に気付けなかった自分を不甲斐無く思うよりも先に、それで全てに納得がいった気がした。
考えてみればこの相沢祐一と云う男性【ひと】、何よりも自分に正直に生きている人ではないか。
時にはこっそりと法を犯しつつ、時には堂々とモラルを踏破しつつ。
そんな人が私との生活を拒み続けたのは、倫理観や世間体に全ての責任を押し付けていただけなんじゃないだろうか。
勿論、そう云う物への幾許かの躊躇もあったのだろう。
でも本質はそんな所ではなく、本当はただ、もう一度『何か』を手に入れてしまうのが怖かっただけなんじゃないだろうか。
おっかなびっくり手を伸ばしては指先に微かに触れた温もりだけで充分だと思い込もうとして、だけどちゃんと抱き締めていなきゃ温もりの余韻なんかすぐに消えてしまって。
ぎゅっとぎゅっと抱き締めていたいけど、抱擁は束縛に似ているから。
束縛はその瞬間から、腕の中に在る者の喪失に脅えなきゃいけないから。
だからおとうは今までも、そしてこれからも、”誰か”を曖昧にしか抱けないままで生きてくの?
そんなのって、ねぇ、悲しすぎるよ……お父様。
 
「じゃあね、私はもう『ずっと』だなんて言葉は使わない」
「……祐」
「『絶対』なんて言葉も使わない。 ううん、もう言葉なんて信じなくてもいいです」
 
貴方を不安にさせる物なんて何もかも捨ててしまって構わないから
 
「その代わり、お父様の傍に居る私だけは信じて? ね、ほら。 私は、此処に居るよ?」
 
そう言ってから、私はおとうにぎゅっと抱きついた。
背の高いおとうを私が抱き締めようとすると、私の頭は胸の辺りにしか届かない。
キスはいつだっておとうの協力がなければできやしない。
だからきっと、これが私達の在るべき姿なんだと思った。
抱擁は自由だけど、キスは困難。
触れ合うのはいつだってできるけど、抱き締め合うのは人目を憚る。
充分だ。
それで構わない。
私達はきっと、それだけでも生きていける。
 
「ゴメンな、祐……俺は父親失格だ」
「じゃあ私は娘失格ですね。 父親に慕情を抱くなんて、世の娘にあるまじき失態です」
 
そしてそれでも、私は構わない
 
「二人とも失格なら、いっそただの男と女にでもなりましょうか。 何もかもを捨てて、二人だけで」
「……バカ言うなよ…お前には捨てるものが多すぎる」
「そう云う選択肢もあるって事です。 そして選択肢があるって事実は、それだけ私達を自由にしてくれる」
 
そこで、私はぱっとおとうから離れた。
ふと不安そうな表情をするおとう、らぶりー。
そんな事を思いつつ、私は真っ直ぐに彼の目を見ながら、手を差し伸べながら。
いつか私の耳に囁かれた言葉を、今度は彼にそのままに届けた。
そう、貴方がいつまでも私を捕まえる事に脅えたままならば――
 
「早くしないと、置いてくぞっ」
 
きょとんとした顔でそのまま数秒ほどフリーズするおとう。
しかしその更に数秒後には、まったくいつもの顔に戻っていた。
どこまでも超然としていて尚且つ、全てを見透かしたような態度。
狼のような目付き、不遜な微笑み。
私の愛する私の父親、相沢祐一。
さっきまでの少年ヴァージョンも素敵だったけど、やっぱりおとうはこうでなくちゃと思った。
 
「ったく……呆れるほどお前は良い女だ。 愛してるぜ、娘」
「知ってます。 それはもうかなり前から」
「あー、とりあえずキミタチは此処が公衆の面前だって事を思い出した方がいいと思うんだが」
 
呆れとそれ以上の笑いに彩られたおじ様の声にはっとして周囲を見渡せば、私達を取り囲む遥か廊下の向こうまで続いているかのような野次馬の垣根。
ひょっとして私はこんなにも大勢の人々の前で愛の告白をしたのかと自分の行動を鑑みれば、『ひょっとして』なんて言葉が空しくなるくらいの行動しか思い浮かばなかった。
文化祭の中心で愛を叫ぶ少女、倉田祐。
ついこの間リバイバルされた映画のタイトルを改変したようなフレーズが頭の中に浮かんできたが、それによって何かが変わったりする事は残念ながら欠片もなかった。
 
「何の騒ぎだコレは! こらお前等、道を開けなさい!」
「げ、あの懐かしき怒鳴り声はもしや荒川っ」
「うそっ、まだ居たのアイツ」
「荒川教頭先生なら二年前にこの学校に赴任してきたばっかりですけど、そう言えば出戻りだって言ってたような気も」
「なるほど、アイツも教頭になったか……」
「しみじみしてる場合かっ。 逃げるぞ相沢!」
「おうっ! 行くぞ祐!」
「ちょ、私はまだ文化祭がお仕事で巫女さんなんですよっ?」
 
言いながらも、私は既に走り出していた。
多分だけど笑っていた。
私の中に確かに存在する相沢祐一のDNAは、いつだって楽しい事を優先させる。
そして私にとっての楽しい事とは、おとうの傍に居る事なのだ。
繋がれた手が、今日はなんだかいつもより熱い。
でも少しだけ模擬店が気になって後ろを振り向いてみれば、クラスの女の娘が笑顔で手を振っていてくれたりして、それでもう完全に私を阻むものはなくなった。
空、あお。
雲、しろ。
おとう、大好き。
群集を掻き分け掻き分け進んでいく最中もずっと、私は楽しくてしょうがなかった。
 
「楽しいかい、祐ちゃん」
 
肩越しに振り向きながらおじ様が訊ねる。
その顔は、私よりも今を楽しんでる様にも見えた。
だから私も、今までで一番のものならいいなと思いながら笑顔でこう答えた。
 
「きっと、生まれてきてから一番にっ」
 
「そりゃよかった」と笑顔で言うおじ様の背中に、私は想像以上の居心地の良さを感じた。
既に校内中に広がった噂の所為だろうか、通りすがる人達から何に対しての物かも判らない歓声が私達に浴びせ掛けられる。
その全てに笑顔で手を振りながら走るおとうと北川のおじ様は、何て言ったらいいのか、とにかく格好よかった。
相沢祐一と、北川潤。
こんなにも素敵なおとうを見事に射止めたお母様はその当時きっととても賢い女の人だったのだろうと思い、同時に北川のおじ様に想われながらも他の人と結婚したと云う女の人に対しては見る目がないねと思ってしまった。
そしてそれ以上に、この二人と同じ高校時代を過ごす事のできた数多くの女性に対して嫉妬を覚えた。
恋する乙女には敵が多いのだ。
 
「あと、そう言えばもう一つ」
「ふぇ?」
「祐ちゃんの推理が外れてた部分がもう一つあるんだ」
 
ようやく昇降口を抜けた所で、私達は立ち止まって荒ぐ息を整えていた。
随分と久し振りのような気がする全力疾走は、不思議と何故だか気持ちいい。
初秋の風が汗を冷してくれる感覚に目を細めていると、不意におじ様がそんな事を言い始めた。
 
「私の推理が外れてた部分?」
「ああ、それもかなり大きなミス」
「どこ…ですか?」
 
北川のおじ様は会社務めをしている、そこは問題ないはずだ。
そしておとうが押しかけたのも事実のはず。
仕事がある筈なのにこんな所に居るって事は、おとうに同行を強要されたのも事実には違いないはずなのに。
一体何処が間違っていたのだろうと思いながら首を捻り、結局判らないのでおじ様をつと見詰めてみた。
そしたら、返って来たのは意外過ぎるほど意外な答え。
 
「俺はね、祐ちゃん。 同行を強要された訳じゃないし、それを迷惑だなんても思っていないんだ」
「ぇ、だ、だっておじ様お仕事ですのに…」
「仕事とキミの文化祭参観。 秤にかけたら仕事なんてどっかに飛んで行っちまった」
「おじ様……」
「俺にとってもキミは大切で大好きな娘みたいでね。 相沢以外の誰かに触れさせるぐらいなら、俺が掻っ攫ってくよ」
 
そう言ってぽむぽむと、私の頭を撫でるように軽くたたくおじ様。
その一方でやはり走った所為で暑いのか、荒々しくネクタイを緩めている仕草と私を撫でる手の優しさとのコントラストがとても素敵だった。
こんなにも素敵な男性二人に愛されている、私はなんて幸せ者なのだろうか。
 
「じゃあ、私がおとうに捨てられた時は宜しくお願いします」
「いつでもおいで。 相沢より数百倍優しく愛してあげるから」
「でぇいっ! いくら北川でも祐は渡さんぞっ!」
「ぅわっ」
 
ぐいっと引き寄せられて、今の私はおとうの胸の中。
ぎゅーっとぎゅーっと抱かれてる。
もしやと思って北川のおじ様を見れば、そこにあったのはやっぱり全くの笑顔で。
私を娘だと思ってくれてるのは嘘じゃないんだろうけど、それ以上に彼の思惑は私とおとうを幸せに導いてくれる方に向けられている様だった。
「ありがとうございます」と口の形だけで伝えれば、ほら、ちゃんと判って親指をぐっ!としてくれる。
凄い人だ、と思った。
 
「よーし、少し早いけど飲みに行こかーっ」
「バカ言え。 こんな時間から開いてる居酒屋があるかよ」
「お前こそバカ言え。 巫女の祐ちゃん連れて居酒屋になんか行けるか」
「そ、それ以前に私は未成年なんですけど…」
「気にすんなよ。 いっつも飲んでるだろ」
「わ、わーっ、わーっ」
「なんだ、祐ちゃんも酒飲めるんか。 そりゃ知らなかった」
「ちょ、ちょこっとだけ…ですよ?」
「嘘つけ。 駄目だって言ってるのにこの前なんか俺の秘蔵のアイリッシュをロックでくぴくぴと」
「おとーっ!」
 
結局この後、私達は北川のおじ様の家で朝まで飲み明かした。
途中からの記憶はあまり無いのだが、それでも彼等が楽しそうに語った『現役時代』の【Bad.Boys】っぷりは鮮明に覚えている。
それから、酔った勢いに見せかけておとうと交わしたキスの感覚も、私の唇にはしっかりと宿り続けている。
後はまぁ私の指揮で華校の校歌を歌ったりトラヒゲ危機一髪で罰ゲーム一気飲みをしたり好きな人を告白しあったり、とにかく私達は終わる事無く笑い続けていた気がする。
思うに、あれはきっと、幸せの記憶だ。
おじ様とおとうが幾年を経てもすぐに戻れる『素晴らしきあの頃』を、私は今必死になって創りあげている。
それは、とてもとても幸せな作業だと思った。
気付けた幸せ、シアワセだと思える幸せ。
そして、私の『あの頃』にはいつでもおとうが居てくれるという幸せ。
もっとも飲み過ぎの所為で重度の二日酔いになった私は二日目の文化祭を欠席してしまい、その所為で倉田の家では無断欠席と無断外泊と飲酒とを問い質されてで祐ちんとりぷるぴんちっに陥ったのだが、まぁそれはそれ。
 
こうして私は、私を取り巻く愛すべき小さな世界の中で、毎日を概ね幸せに生きているのだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
おしまい。
 
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後書く

【I】の続編。
一度でいいから祐に「北川のおじ様」って言わせたかった。
今はとても満足している。
ビバ娘。