・教室
・保健室
・図書室 ←
* * *
私立華音学園高校付属図書及び郷土資料館。
驚くほどの蔵書量とそれに反比例するが如き閑静な佇まいは、イチ私立高校の図書館と呼ぶには些か完成されすぎていた。
チリ一つ落ちていない清潔な空間。
読書スペースには南向きの窓からの柔らかい光が差し込み、しかし大切な本には日が当たらない完璧な設計。
前会長の趣味で雇われたんじゃないかと噂されるほど綺麗な司書のお姉さんの存在も、この場所の人気に一役買っていた。
「おじゃ」
「まじょ」
「………何よその目は。 間違っても『ドレミ』なんて言わないからね」
カラカラと遠慮がちに開けられたドアから、微塵も遠慮の無い様子で入館する三人組。
他に利用者が居たら迷惑でしかないだろうその声は、しかし今現在に限っては誰にも憚る必要なんて無かった。
何故ならば今の時間は、5時間目の真っ最中。
こんな時間に図書室を利用している生徒なんて居る訳が無いし、居たとしてもそれは即ち授業をサボっている人のはず。
一般利用者への開放日でない事も合わせて考えれば、やっぱり『誰か』の迷惑なんて微塵も考える必要は無かった。
だが。
「ダメですよ相沢さん。 図書館内ではお静かに」
ぱたん、と読んでいたハードカバーの本を閉じ、聞き分けのない子供に優しく諭すが如き口調で注意を促す後輩。
射し込む金色の光の中に、その仕草やら雰囲気やらはやっぱり年齢不相応で、しかしそれはとてもとても素敵なものだった。
読んでいた本が『愛蔵版 バンドやろうぜ!』だった事はこの際見なかった事にする。
「あ、天野?」
「遅かったですね。 もう少し早く来ると思ってたんですけど」
俺が来る事は確信していたのか。
驚きとも戸惑いとも取れる感情に支配されてぼんやりとその場に立ち尽くす祐一を見て、美汐はまた小さく微笑んだ。
この人は、かわいい。
そんな美汐を見て祐一も思った。
こいつ、可愛い。
「………」
見詰め合う二人を見て美坂さんがなんだか憮然としていたのは、また別のお話しだった。
* * *
「お前、授業は?」
「授業より相沢さんと一緒に居る方が面白いと思いまして」
「……何で俺がここに来るって判ったんだ?」
「女の勘、です」
「……おっかねぇ」
そんな、どこかで聞いた事があるようなやり取りが繰り広げられている図書館内。
天野美汐の存在は少しばかりなんてもんじゃないレベルで驚きだったが、それ以外の部分では概ね彼等の予想は正しかった。
現在の図書館利用人数、四名。
自分たちの会話以外の物音、無し。
これなら誰に憚る事無く『イチゴムース会議』が開けるだろう、と祐一は思った
ちなみに祐一の勘定には、司書室の端っこの方で幸せそうに芥川竜之介の『羅生門』なんかを読んでいる壬(みずのえ)さんは入っていない。
どうやればあんなにもホンワカした顔で羅生門を読めるのか。
それだけが今も、祐一の心に疑問として残り続けていた。
「さーて、そんじゃ始めますか」
何処から取り出したのかルーズリーフを目の前にしてカチカチとシャープペンの芯を出し、何事かを綴り始める北川。
たった4人で円卓も何も無いと思うのだが、それでもルーズリーフには『第五十三回イチゴムース欠損事件捜査円卓会議』と書かれていた。
残念ながら、『五十三回』の部分に突っ込む人は誰も居なかった。
「とりあえず今までに判っている情報を書き出すとだな――」
1.イチゴムースを積んだ車は今日も定時に配送会社を出た
2.学食としては、今日も普段通りイチゴムースを皆に提供するつもりだった
3.イチゴムースドライバーからの連絡は、現時点では会社にも学校にも届いていない
「――と、こんな感じだ。 他には何かあるか?」
「俺からは何も無いが、天野はどうだ? 何か目新しい情報は」
「いいえ特には。 美坂先輩は?」
「あたしも無いわ。 って言うか、確信性のある情報はあなた達二人が溝口君から聞き出した物しかないんじゃない?」
「そうか。 なら確認するべきはこの程度だな。 ここから先は推理の範疇だ」
そう前置きしてから、祐一は自分の方へとルーズリーフを引き寄せた。
スラスラと淀み無く動くペン先と真剣な視線からは、普段の奇行など微塵も覗えない。
こうまで様相を変えられると何やら二重人格なのではないかと疑ってしまうほど、今の祐一は真面目な表情をしていた。
それは、逆説的に普段がとてもアホだと言う事を示していた。
「情報1と2から推察すれば、イチゴムース欠損の直接の原因は配送ドライバーにあると思われる。
しかしそこに情報3を組み合わせて考えれば、一転してあながちドライバーの責任とも言えなくなるんだ」
会社の責任でもなく。
ドライバーの責任でもない。
浮かび上がるのは、第三の存在。
「俺と北川は全ての情報を組み合わせた結果、配送ドライバーが何者かによって拉致監禁、あるいはそれ以上の事態に陥ってると考えている」
ルーズリーフ上に丸で囲まれた『???』が書き込まれ、それから『配送ドライバー』に向けて矢印が伸ばされる。
そして香里や美汐が他の仮説を立てる間も暇も与えられないままに、配送ドライバーは大きなバツ印によって消された。
拉致。
監禁。
それ以上の事態。
平和な図書室の中で口に出してしまえばなんとも陳腐なその響きは、しかし誰の表情にも笑みを浮かべさせる事はなかった。
無論、心の中ではまだ半信より半疑の方が優勢のままである。
誰だって直ぐさまには上に挙げ連ねたような非日常の単語を受け入れられるはずが無い。
だが、それを否定し得るだけの材料が今の彼等に揃っていない事もまた確かだった。
「異論は?」
静かに女性陣を見比べる祐一の問い掛けに、二人の名探偵はこぞって口を噤むだけだった。
* * *
「北川、地図」
「あいよ」
「香里、配送工場とウチの学校が両方入る程度に拡大コピー」
「自分でやりなさい」
「天野、お茶」
「粗茶で宜しければ」
「出すんかい」
北川の突っ込みがコピー機の『ガー』とか云う鳴き声に掻き消されて、それから三分後。
薫り高い湯気を立てる緑茶が四つと適度に拡大されたコピー地図数枚が机の上に並んだ所で、ようやく会議が再開された。
お茶っ葉の入った缶が美汐の制服のポケットから出てきた所なんて、誰も見ていない。
見ていない、事にした。
これが梅昆布茶だったら祐一は結婚を申し込んでいたかもしれない。
「えーと、ウチの学校が此処で……なぁ、クヌギ食品って何所だ?」
「市内のはずですが詳しい所在地はちょっと…」
「あー、俺知ってる。 確かこの辺に、んー、あ、あったあった。 これだ」
ぴったりと頭同士をくっつけながら地図を覗き込む祐、北、美汐。
ほんのちょっとの照れとタイミングの悪さがマッスルドッキングしてその輪の中に入り損ねた香里は、拗ね気味に小さく呟いてみたりした。
まるで小学生の、社会科の授業みたい。
しかしながら多分に羨ましさの残る声になってしまったので、香里は今の呟きが三人の内の誰にも聞こえていない事を願った。
そして残念ながら、その願いはあっけなくも棄却されていた。
「ほら、香里」
くつくつと笑いながら自分と美汐の間にスペースを作る祐一。
その表情は、縦横斜めどの角度から見たって香里をからかう事の楽しさに緩んでいた。
「な、なによ」
「まったく、寂しがりやなんだから香里は」
「んなっ、だっ、別に寂しがってなんて―――」
「美坂ー、俺の隣りも空いてるぞー。 むしろ美坂が来てくれないと俺が淋しくて死んじゃうかもー」
「〜〜〜〜〜っ」
照れる美坂さん、顔まっか。
呆れる美汐さん、はふーと溜息。
そんな二人を見て見ぬ振りで「香里は俺の隣りだ」「いいや俺の隣りだ」と言い張る祐一と北川は、何て言うかやっぱり小学生みたいだった。
「美坂っ」
「は、はいっ?」
「俺の隣りに来てくれるよなっ」
「あ、え、えーと…」
「香里」
「は、はいっ」
「俺の隣りは、そんなに嫌か?」
「い、イヤって訳じゃないけどでも…」
不意に真面目な表情。
真面目な声。
そんないきなり『どっちか』を選べだなんて言われたって、と美坂さんは多いに困り果ててしまった。
三人だから、楽しいのに。
どっちも同じくらい大好きだからって、いやいや、あたしが言ってるのそーゆー意味の『好き』じゃなくってでもだけど…
そんなのって卑怯なのかな…
『どっちか』を選ばなきゃ、ダメなのかな…
「……相沢さんと北川先輩の間に入ればいいでしょうに」
何時の間にか椅子に座ってお茶を飲みながら、窓の外を見詰めて呆れの色強くぼそっと呟く天野美汐。
美坂さんが自分がからかわれていた事に気付くのは、それから二秒後の事だった。
* * *
クヌギ食品は、昭和四十五年に初代社長である『椚 将俊(くぬぎまさとし)』が個人で創設した有限会社である。
現在は将俊の息子である『椚 将門(くぬぎまさかど)』が二代目社長の座につき、その手腕を振るっている。
創設当初は従業員二名(社長と奥さん)の零細企業だったが、バブルの波に乗り急成長。
その中にあって早くから地域密着と云う方向性を示し、バブルがはじけた後も雪の降る町と共に存在し続ける。
市内に在る殆どの小学校と提携し、定期的にデザートを主とした加工食品を配送している。
「別に特定の誰かから怨みを買ってそうな節は無いわね」
「こんな概要だけ見た限りじゃ何とも言えないが、まぁ怨恨って線は薄いと考えていいだろうな」
「てか会社自体に怨みがあるとしたら、そもそも配送ドライバーが襲われる訳がないと思うんけど?」
「甘いな北川。 仮に配送ドライバーが人質だったと考えたとしてもだ、脅迫とかの動きがあったらそれこそ警察沙汰だろ」
「あ、そうか」
「配送ドライバー本人に対しての怨恨となればこれはもうお手上げだが、その線も薄いと俺は踏んでいる」
「……仕事中に襲うメリットが、犯人側に無いからか」
「ご名答。 少なくとも俺が犯人なら、休日の動向を調べて襲う方の選択肢を採るな」
「事件は発覚が遅れれば遅れるほど犯人にとって有利だものね。 私でも休日を狙うわ」
「じゃあやっぱり犯人の狙いは……」
イチゴムース?
イチゴムースが食いたかったのか?
しかもトラック一台分の?
活発に議論を進めていた3年生組が一斉に押し黙り、三者が三様に何やら負に落ちない表情を見せた。
お互いに顔を見合わせればやっぱり考えている事はみんな一緒の様で、しかもそれに納得がいかないのもみんな一緒の様で。
ふーむと腕組しながら他の理由を考えようとしても巧くいかず、口をついて出てくるのは溜息ばかりだった。
「なぁ天野。 お前はどう思う?」
片手だけで無作法に茶碗を掴み、ずずいと緑茶を喉に流しこみながら祐一が問う。
その様子は単に『意見を求める』の範疇に収まらないほど情けなく、どちらかと言えば『助けを求める』の方がぴったりだった。
対する美汐はいきなり話を振られたにも関わらず、それどころか祐一が自分に意見を求める事を予め判っていたような素振りで。
お茶を一口こくりと嚥下。
はふーとほんわか吐息を一つ。
それから二回だけ瞬きをして、ようやく祐一の方に向き直った。
なんだかとても風雅だった。
「直感は、大事ですよ?」
「……って事は?」
「相沢さんが考えている事で間違い無いかと」
「俺が考えてる事って言ってもな……」
犯人はとてもとてもイチゴムースが大好きな人だった。
しかしこの不況なご時世の余波を受けて失業、手元には僅かな小金しか残らなかった。
イチゴムースが食べたい。
でも金が無い。
思い余った犯人はついにイチゴムースを配送途中にトラックごと奪う暴挙に出た。
自分で考えていながら何とバカな犯人だろうと、祐一は思った。
イチゴムースの単価なんてどれだけ高く見積もっても200円を下るだろうし、その程度なら日雇いの仕事で腐るほど買える。
何よりかによりイチゴムースの為に一生を棒に振るだなんて、そんなバカなとしか言い様がなかった。
そんなバカなとしか、言い様が。
「……犯人の本当の目的は、イチゴムースなんかじゃない」
「はい、よくできました」
後輩がするにはあまりにも包容力のありすぎる微笑。
後輩が持つにはあまりにも自分を凌駕している思考力。
そのどちらもが祐一の心を揺さ振り、揺れる心は共振運動【ハウリング】によって更に揺れ幅を増し。
”あの”天野美汐が照れくささに頬を染めて俯くまで、祐一は目の前の素敵な後輩から視線を逸らす事が出来なかった。
* * *
「しかし犯人の目的がイチゴムースじゃないとすると、話がまた振り出しだな…」
「いいえ、振り出しにまでなんて戻らなくていいんですよ」
「ぬ?」
「戻るのは、ほんの少し前まででいいんです」
諭すように優しく言いながら、祐一の湯のみに注がれる、二杯目の緑茶。
このまま四杯まで飲み続けたら、きっと夜は眠れなくなるんだろうなと祐一は思った。
太平の、眠りを覚ますペリーさん。
たった四人で夜も眠れず。
ん、何か違う気がする。
「……相沢さん? 聞いてますか?」
「お、おう。 聞いてるぞ」
嘘ばっかり。
口には出さずとも、その視線だけで美汐の思いは確実に祐一に伝わった。
あはは、と軽い笑いを見せながら片手で謝る祐一に、それでも美汐は優しく微笑むだけだった。
本気で怒るような場面じゃないし、本気じゃないなら咎め立ててもしょうがない。
それならと微笑を選択できるだけの余裕を持つ女性がどれだけ素敵かを彼女は知らなかったが、それもまた些細な事だった。
何故ならば彼女は、そんな事を知らなくても、充分過ぎるほどに魅力的なのだから。
「イチゴムースが欲しかった訳じゃないんです。 でも、犯人が襲うのはクヌギ食品のトラックじゃなきゃなかった」
「……どゆ事だ?」
「言葉通り、ですよ」
言ってから美汐は、チラッと香里の方に視線を向けた。
それは、謀らずも普段から香里が好んで用いているフレーズを自分が使ってしまった事に対する何らかの後ろめたさからか。
それともまったく真逆の、現状における様々な視点から抱いた一種の優越感からか。
どちらかを判断するだけの情報は今この場には無く、美汐もそれを如実に表したりはしなかった。
ただ何となく、一連の流れから取り残されぎみな美坂さんはこう思った。
面白くない。
そして何となくだけど、北川は思った。
女同士の争いならマジで勘弁してくれおっかねぇ。
「金は天下の回り物なんですよ? 相沢さん」
「へ? あ、ああ。 そりゃ確かにそうだろうけど何でまた今そんな事を」
「これは言葉通りの意味だけじゃなく、社会としての仕組みも『そう』なっているんです」
「社会の、仕組み?」
「この中でどなたか、親御さんの職業が公務員だと言う方は居ますか?」
唐突に話の鉾先を祐一から全体に向ける美汐。
意図的かそうじゃないかは判らなかったが、その瞬間に彼女の表情は若干の変化を見せた。
刹那でも瞬きをすれば見逃していたであろう、些細な『温度』の低下。
だがその表情の動きは、香里にある一つの確信を抱かせた。
彼女が見せた表情の変化は、間違ったって『今から真面目な話しをするから』なんて類の物じゃない。
今のは、明らかに『相沢君』と『それ以外』に対する変化だった。
なるほど…成る程ね。
食堂でも微かに感じたけど、これで確信したわ。
この娘は相沢君を―――
「はーい。 俺の親父、高校の教師やってるぜ」
「ほう? そりゃ初耳だ」
「地方公務員とは言え転勤が激しいからな。 だからこうして俺は一人暮らししてるんだが」
「北川先輩は、お父さんの給料日をご存知ですか?」
「ああ、何たってその日が仕送りの日だからな。 毎月の中日、15日のはずだ」
「へー。 公務員の給料って月の真ん中なんだ」
「あれ? みんな15日じゃないのか?」
不思議そうな顔で首を傾げる北川。
それに対し祐一は、口元に手を当てたまま暫く無言のままだった。
薄く目を閉じ、そうかと思えば半眼で中空を睨み、その次にはまた目を閉じる。
その仕草は言うなれば、一種のトランス状態に見えない事もなかった。
瞼を閉じ、唇を噤み、一秒、二秒、三秒。
やがて無言が10秒を数え、北川がそれを不審に思い声をかけようとしたその時。
「……そうか」
祐一の中で、全てのピースが組み合わさった。
「ええ、そうです」
内容を聞きもせずにしかし祐一の全てを信頼している美汐が、ゆっくりこっくり頷いた。
* * *
「公務員が月の半ばに給料を貰い、それからの半月で勢い良く商店に金を落とす。
そして落とされた金が集め束ねられて、月の最後にサラリーマンが給料を手にする。
これが天野の言ってた、『金は天下の回り物が社会の仕組みになっている』の意味だな?」
そこまでを一息に言い、問い掛けの視線を美汐に投げかける祐一。
言葉を挟む余地も無い完璧な『理解』に称賛を送るかのように、美汐はこっくり頷いた。
やっぱりこの人は、愚者の衣を纏う賢者だ。
だけどまだ、『出口』までにはまだ遠い。
『私』にまではまだ足りない。
ほら、がんばって。
もう少しですよ。
「クヌギ食品は言わずもがな、『商人』に分類される。
って事はだ、給料日は例に洩れず月末のこの時期って事になるだろう。
そして今、イチゴムースを目的としない何者かによって、イチゴムース配送のトラックが襲われた。
ここまで到ればもう、俺は確信を持って言えるぜ。
クヌギ食品の給与受け渡しは、銀行振込なんかじゃなく、未だもって現金手渡しで行なわれている。
そしてその現金輸送には、カモフラージュの意味合いも込めて普段から食品配送トラックが使用されていた!」
昼下がりに良く似合う金色の光が背後から降り注ぎ、彼の輪郭が黄金に霞む。
逆説的に瞳の部分を覆う陰はとても色濃く、しかしその陰ですら、真実を見据えた双眼の光は隠せなかった。
これが、本気になった相沢祐一。
いつもこうなら周りの評価ももっと違っていただろうにと思った香里は、二秒後にその考えを即座に訂正した。
切れ味鋭い日本刀は、存在する大半の時間を鞘の内に置くからこそ、抜き身になった時に迫力を持つのだ。
垂れ流し続けられる魅力は、既に魅力ではない。
そして今の彼は、そう言った意味ではある種ズルイと言われても仕方の無いほど魅力的だ。
「……そう、今回の事件は非常に計画的でありながら、肝心な所で画竜点睛を欠いた阿呆な犯人によるものです」
はい、よくできましたね、相沢さん。
言葉に出す代わりに全くの笑顔を見せる美汐は、祐一とは違った意味での『抜き身』を隠し持っていた。
図書館に入った時に見せた笑顔が『最高』ではなかったのかと、ただひたすら彼女の魅力の奥深さに驚く香里。
きっと『素直な女性が可愛い』とする世間一般の男共は、本当に魅力的な女性【ひと】に出会った事が無いのだろうと彼女は思った。
互いの全てを知り尽くすまでが愛ならば、その引出しは無限とも思えるほど多い方が望ましい。
「犯人の真の目的は、クヌギ食品全社員の給料。
犯行手口は到ってシンプルに、現金輸送車の強奪。
恐らくは事前の下調べで、クヌギ食品と提携している銀行と現金運搬に使用される車種を把握していたと思われます。
ですが、ここで犯人側にたった一つの誤算が生じました。
これは臆測の域を出ませんが、今日に限って銀行の方でもイチゴムースを必要とする何事かがあったのでしょう。
結果、本当の食品配送車であるトラックAと現金輸送車であるトラックBが銀行を訪れる事となった。
しかし犯人側は、その事実を知らなかった。
手に入れた情報とは違った時間帯ながらも『銀行にクヌギ食品のトラックが来た』と云う事実に流された犯人は、間違ったトラックAを強襲。
市民から警察への連絡が為されていない現状から思えば、非常にスムーズに犯行が行なわれたと考えるのが妥当です。
そしてスムーズに行なわれた犯行と云うものは、得てして付近の地理感に富んだ人間が行なうもの。
トラックBが襲われたとの情報が入っていない以上、犯人は地元の人間で、実行グループのみの少数で形成されている確率が高いですね」
決して『底』を見せぬ淡々とした口調、涼しげな面持ち。
真正面から陽射しを受けていながらも何処かに見える仄かな陰。
醒めた瞳は抑揚を見せず、それでも見詰められれば確かに心地良い。
これが、本気になった天野美汐。
否、これでもまだ本気かどうかは見えてこない。
まったくもって年齢不相応な深みを持つ素敵な後輩に、祐一は隠そうともしない驚嘆の溜息を吐いた。
やれやれ、敵わないなコイツには。
「一つ、いいかな?」
わざわざ小さな挙手をしながら発言許可を取るのは、第五十三回イチゴム中略会議のいつのまにか書記長になっていた北川だった。
無言で先を促す美汐に微かな笑みを返し、まずは発言権を得た事に感謝の意を示す。
普段が普段だけに気付かれる事こそ極端に少ないが、中々どうして北川の態度は妙なまでに紳士的だった。
「犯人が地元の人間ってトコだけど、そうとも限らないんじゃないか?」
「と、言いますと?」
「ちょっと詳しい地図を見りゃ裏路地まで判るこのご時世だ。
手口だけじゃなく逃走までを範疇に入れて『犯行』とするのには賛成だけど、それで犯人像を地元に縛るのは早計じゃないかと思ってさ」
「……意外と真面目に聞いてたんだな、お前」
呟いた祐一の言葉は、その場に居た北川以外の人間の思いを的確に表していた。
まったく、何て失礼な親友だお前等は。
そんな風に言いながら形式的に拗ねてみせる北川の存在は、場の雰囲気を和ませるのにこれ以上無く一役買っていた。
ただしそれが意図的かどうかは、誰にも判らなかったが。
「その点に関しましては……」
そこまで言って、ふと考えこむ仕草を見せる美汐。
しかしその雰囲気からは、欠片も『北川の問いに答えあぐねている』と云った様子が感じ取られなかった。
それよりもむしろ表現として適当なのは、言ってしまえば小学校低学年の生徒を前に何事かを教えようとしている先生の姿だろうか。
既に確定している『答え』をどうすればそれを最も易く理解させてあげられるだろうかと思案する、そんな『先生』の姿に、今の彼女は酷似していた。
そして―――
「……判りました」
そして彼女は、すっくと立ちあがった。
達した結論は結局、最も判りやすい一つの真理。
『百聞は一見にしかず』
何故なら事件は図書室で起こっているのではなく、現場で起こっているのだ。
ならば実際に現場に行って、それから全てを語ってみましょうか。
「それじゃあ相沢さん、行きましょう」
「へ、え、はい? 行くって……何所に?」
勢いこそ良くは無いが、余りに唐突に祐一の手を引いてみせる美汐に、祐一は先程までとは比べ物にならないほどの隙だらけの表情を見せた。
それはそう、奇しくも『先生』に対する『生徒』の様に。
射貫くような狼の眼差しを見せたかと思えば途端に付け入る隙を露わにする祐一を、美汐はやはりとてもカワイイ人だと思っていた。
賢者と、愚者。
これではどちらが『鞘』でどちらが『抜き身』か判らない。
でも、判らないならそれはそれで構わないなとも美汐は思った。
要は、普通の人の二倍以上の魅力を彼が有していると云うだけの事。
その両方を私が好意的に思っているのだから、何も問題は無いんですよ。
ね、相沢さん。
一緒に行きましょう。
「イチゴムース欠損事件、解決編ですよ」
* * *
授業中の緊張感に満ちた廊下は、美坂香里にとって未知の世界だった。
高校に入学してから現在までの通算遅刻回数、ゼロ。
高校に入学してから現在までの通算早退回数、ゼロ。
そりゃ3年間の内に数回ぐらいは授業中の廊下を歩く事もあっただろうが、流石に『見つかってはいけない』と言う状況だけは今回が初だった。
大義名分など何処にも無いが、後ろ指を指される理由なら山ほどある。
仮にも『優等生』として生きてきた香里にとってそれは、自分でも驚くくらいの緊張感を伴っていた。
「…って言うか何でアンタ達はそんなに平気な顔して歩いてるのよ」
自分の声が響き過ぎやしないかと、おっかなびっくり呟く美坂さん。
しかしそれに対する不真面目生徒+1は、逆に美坂さんにこそ「何を言ってるのかねキミは」とでも問い質さんばかりの視線を投げかけるのだった。
な、なによっ。
言っておくけど変なのは絶対にそっちだからねっ。
「時に美坂先輩」
「はい?」
「先輩はどうして、そんなに挙動不審なのですか?」
「んなっ?」
挙動不審。
この世に生を受けて十と七つばかりながら美坂香里、そんな不名誉な形容詞を頂いたのはこれまた産まれて初めてだった。
「ど、堂々と歩いてる方がおかしいでしょ? この場合」
「いえですから、どうして堂々と歩くのがおかしいのですか?」
おかしい、と香里は思った。
自分の記憶が正しければ、この後輩は相沢君の知り合いの中では最も常識と良識を兼ね合わせた娘であったはず。
少なくとも、授業をサボって廊下を歩いている状況を『普通』と捉えるような娘ではなかったはずだった。
この後輩は、現状を『異常』だとしっかり認識している。
そしてその上で、私に何事かを言わせようとしているのだ。
…試されてるって訳?
ふん、上等じゃない。
「今は授業中。 この学校の生徒であれば特別な理由が無い限りは授業を受けて然るべき。 だのに私達は廊下を歩いている。 これは不自然じゃないの?」
「でも、それを不自然だと思うのは学校教育と云う枠組みの中に存在している人間だけですよね」
「それは……」
「いえ、すいません。 美坂先輩が言っている事には間違いなんて無いんです。 ただ―――」
気が付けば、四人は昇降口にまで来ていた。
短いスカート丈を苦にもせず、流れるように内履きを脱ぎローファーに履き代える美汐。
つま先を二、三度トントンと地面に触れさせる仕草が、妙に可愛らしかった。
どうしたらこんなにも普通の様相で授業をサボれるのかと香里が思うほどに、『それ』は何事も無かったかのように。
ひょっとしたら自分が真面目に過ごしてきた時間は凄くもったいない事をしてたんじゃないかと香里の頭を疑念が過った所で、美汐はようやく言葉の続きを口にした。
「その場に存在する『何か』に違和感を感じると言うのは、現状を把握している人間にのみ許される感覚だと云う事が言いたかったんです」
「……ごめん、天野さん。 もう少し判りやすく」
「同じく」
諸手を挙げて降参の意を示す馬鹿二人。
そんな二人を尻目にして、香里だけは一人静かに頷くのだった。
「なるほど。 だからわざわざあんな事を?」
「ええ。 事態を判りやすく説明するのに、何か好例が必要だったものですから」
ちっとも判りやすくないんだが。
もの凄くそう言いたそうな顔で自分を見詰める先輩二人に対して若干のため息を吐きながらも、概ねの所で美汐は涼やかな表情を崩さなかった。
* * *
誰に発見される事もなく学校と云う名の監獄からの脱走に成功した、穏やかに過ぎる昼下がりの通学路。
自分が教室で授業を受けていようがいまいが世界は変わらず動いているのだと、美坂香里は今更ながらにそんな事を感じていた。
学校を休んでおきながらも、大好きな妹と一日中お喋りをできる事が楽しくてしょうがなかった、まだ幼い頃の風邪を引いた日の記憶。
窓の外に流れている『平日』の空気は、それをその日限りの物として味わうだけならば、背徳感と云うスパイスがよく効いた上等の味付けがされていた。
あれから10年。
哀しみと諦めに慣れすぎた私の舌は、生活に含まれる過度な刺激を好まなくなった。
「例えば北川先輩は、どんな時に『違和感』と云うものを感じますか?」
「違和感?」
「はい、違和感です」
「……そうだなぁ」
ふーむと腕組みをして考えこむ北川。
ともすれば簡単に答えが見つかりそうな質問だったが、どうやらその実は違うようだった。
よくよく考えてみればそれもそのはずで、違和感とはその瞬間にのみ存在する事が許された特殊な感情なのである。
怒りや哀しみのように持続性がある訳でもない突発的な感情を改まって思い出そうとする行為は、過去のある時期にのみ存在していた遺跡を発掘する作業によく似ている。
ましてそれが違和感のカケラも無い平和な昼下がりであれば、日常に埋もれてしまった感情を掘り出すのに時間がかかるのも無理はない事だった。
「やっぱりありきたりだけど、普段と違う物を目にした時じゃないかな」
「お前、それは『違和感』って言葉の説明にしかなってないだろ」
「んな事言ってもだなぁ―――」
「いいんですよ、相沢さん。 結局の所、最終的にはその答えが欲しかったんですから」
「……えーと、今の答えにもなってない答えでよかったのかな?」
「はい。 ちょっとだけ一足飛びされてしまった感もありますが、むしろ説明の手間が省けて助かりました」
この娘が喜ぶならそれでいいや。
世界中の誰もがそんな感じで納得してしまいかねないくらい、何て言うか美汐の「助かりました」は破壊力に長けていた。
ちっとも質問に答えてない気がするけど、この娘が助かったんならそれでいいや。
ああ、なんだか判らないけど天野がその答えを求めてたんならそれでいいや。
「北川先輩の言葉通り、違和感とは『普段と違う物』を見たり聴いたりした時に感じるものです。
それは例えば美坂先輩にとっての授業中の廊下だったり。
そう、例えばAランチのデザートにイチゴムースが付いていなかったように」
美汐の言を受けて、香里がやや憮然とした表情ながらも納得の意を示した。
「美坂先輩の記憶に、今日と云う日は確実に強く残るでしょう。
恐らくは、『イチゴムースが無かった日』として多くの生徒にも同様に。
日常を逸脱した現象と対峙した時に抱く『違和感』とは、それだけ鮮烈な記憶になり得るのです」
埋もれてしまった違和感は遺跡。
思い出す作業は発掘に似ている。
だが、そのどちらもが確実に存在しているのだ。
記憶は日常の中に。
遺跡は土の中に。
堆積した『何か』に多少の違いはあれど、確固とした存在を過去に築き上げたモノはいつか甦るのが世の常であった。
「極狭い地域に密着した営業を主とするクヌギ食品のトラックが、市外を走る。 皆が受ける違和感はどれだけのものになるでしょうか」
中小企業でありながらバブルの崩壊を耐え抜いたクヌギ食品。
その成功の秘訣は、早くからの地域密着型企業の道を選んだ事にあった。
現にこの雪の降る町においては、クヌギ食品のトラックを見かけない日など無きに等しい。
もはや風景の一部にまで溶け込んだ食品配送トラックは、しかしそれだけに別の側面をも同時に持っていた。
「違和感を感じる事ができるのは、その現状を把握している人間のみの特権です。 つまりこの場合―――」
「犯人が市外に逃走していたとすれば多数の証言が得られる?」
「逆、です」
祐一の言葉を即座に否定して、美汐が先を続けた。
「配送順路を違えたトラックが市外を走っていたら、それは嫌でも人目に付きます。
ですがその認識自体が、既にこの町に長く住んでいる私達のみにしか通じない固有のものなのです」
「……そうか、市外の人間ならそもそも違和感なんて感じないって事だな」
「違和感を感じるかどうかは判りませんが、少なくとも『クヌギ食品のトラックが走るのは市内だけ』と認識しているのは私達だけです。
しかし今回の事件の犯人は、『市外をクヌギ食品のトラックが走ることはおかしい』と云う認識を世界共通のものとして捉えていたと思われます。
ありもしない共通認識に怯え、逃走経路を市外へと延ばす事無く現地に留まる。
おかしいと思いませんか?
誰かにバレないようにと選んだ行動全てが自分達を丸裸にしている事に気付かないなんて、まるで子供が拙い嘘を吐いてるみたいで微笑ましくすら感じます」
現地の人間しか持たない違和感を共有している犯人。
一刻も早く現地から逃げ出したいだろうに、何故か地元に留まり続ける犯人。
地元に、隠れ続ける事ができる犯人。
「北川先輩、美坂先輩。 直感で構わないので、質問にお答え願えますか?」
意図的に祐一が外された意味を、二人は瞬時に理解した。
「この町で、あまり人目に付かず、尚且つ昼の日中から車が長時間停止していてもまったく違和感の無い場所と言えば、それは何処になりますか?」
美汐の質問に、生粋のこの町っ子は、近年稀に見る精度で声をハモらせた。
「「三笠の第三廃車置場!」」
「偶然ですね。 私もそこが思い浮かんでいました」
蚊帳の外に居る祐一が寂しそうだったのが、とても印象的だった。
* * *
この町には現在、三つの廃車置場が存在している。
一つは中須町に。
もう一つは菜畑町に。
そして最後の一つが、三笠町に。
それぞれが上から順に第一、第二、第三廃車置場と番号付けられ、番号の若い場所の廃車からスクラップ工場送りになっているらしかった。
各置き場から次の場所への廃車の移動は隔月と定められていているが、第一と第二は常に埋まっているのがここ二、三年の通例。
それ故に大抵の場合、新規の廃車は三笠の第三廃車置き場へと回される事になっていた。
日に集る廃車の数は大都市などとは比べるべくもないが、それでもトキワ廃車回収業者(株)はこの辺一帯の広範囲をカバーしている中堅所である。
新たな廃車が送られてこない日などは殆ど無く、周囲の住民にとってもそれは周知の事実であった。
「なるほどね……そんな場所があるなら、どんな時間にどんな車を捨てていこうと問題ないだろうな」
「はい。 実際にクヌギ食品のトラックも三笠で見かけた事がありますし、犯人が地元の人間ならほぼ間違い無いかと」
ナカスにナバタにミカサにトキワ。
全てが全て知らない単語で形成されているこの町の地図は、祐一の頭には少しばかり容量過多であった。
えーと、通学路の途中にある川ともう一本の川に挟まれた所が中須町で、川向こうの商店街を挟んで左側が…なんだっけ。
駅の向こうが月ヶ岡だってトコまでは覚えたんだが、その先どこからが風見台かが判らないんだよな。
あの冬から4ヶ月……少しはこの町にも馴れたと思ってたんだけどな……
祐一の心に刺さったそれは、小さな小さな棘だった。
その棘を『疎外感』と名付けてしまうには、痛みの程度は仄かに過ぎる。
だが気の所為で済ませてしまえるほどには、その痛みは小さくもなかった。
その土地に住む人間が、自らの生活圏内で起こした事件。
それを紐解くために必要なのは、何よりもまず『その土地の人間である』と云う共通項なのではないだろうか。
人格の形成や行動パターンの確立には、生まれ育った環境が非情に大きく関与する。
無論『環境』の枠の中には人的要因も多分に含まれるのだが、それを差し引いたとしても『町』とは余りある要因であると言える。
いや、むしろ人的要因までをも含めてが『町』だと言った方がいいだろう。
都会では信じられないほどに縦と横とが絡み合う、この小さな雪の降る町。
ずっと過ごしてきたコイツ等と、遠く離れてしまっていた俺。
ひょっとしたら自分はこの事件を解決するのに何の役にも立てないんじゃないだろうかと、祐一はふとそんな事を思ってしまっていた。
誰が悪い訳でもない。
それでも何となく漂う、自虐にも似た無力感。
人に悟らせるほど拙く生きてなどいないと、心の中で思った次の瞬間にはもう、祐一は隣を歩く美汐に顔を覗き込まれていた。
「……何でもないぞ。 先に言っておくけど」
「私も先に言っておきます。 『それでも』、私は相沢さんを必要としているんですよ?」
何とも奇妙な会話だと、祐一は思った。
だけど、不思議と安心している自分もそこにはいた。
「勿論、『そこに居てくれるだけでいい』なんて使い古された甘ったるい言葉は使いませんけどね」
「じゃあ……天野は俺の『何』をそこまで必要としてくれているんだ?」
素朴な疑問を、思ったままに口に出す。
何か期待した答えがあった訳ではない。
祐一には純粋に、美汐が何を自分に求めているのかが判らなかった。
自慢じゃないが勉強はできない。
ケンカの腕だって然程でもない。
容姿に自信が持てるほど己惚れてもいなければ別に天野が金目当てだと言ってる訳じゃないけど経済力も無きに等しいこの俺の何を。
キミは、求めて―――
「判りません」
「……はい?」
「判らないんですよ、相沢さんの場合。 何処がって訊かれても困りますし、此処かって言われても困りますし」
判らないし困るのだと。
キッパリはっきりピシっとシャンと。
完膚無きまでの自信を持って、美汐はそう言い放った。
そして、祐一はその言葉にちょっと少しかなり凹んだりしていた。
途方も無く青い空の下、柄にも無くしょんぼりする祐一。
しかしもっと柄にも無かったのは、そんな祐一の様子を見てあわあわと落ちつきをなくした美汐の姿だった。
「あ、あのっ、勘違いしないで下さいよ?」
「ん?」
「その…別に否定的な意味で言ったのではなくてですね? 判らないからこそいいのではないかと、少なくとも私はそう思っているのですけど」
「……そのココロは?」
「相沢さんと居ると、面白いんですよ。 次から次へと予想外の事ばかりで、しかもそれが楽しくて。 もう一秒だって目が離せないくらいです」
はてそれは動物園の珍獣とか小学校低学年の子供を見ている時と同じような心境なんじゃないだろうか。
最近よく見るようになった美汐の微笑みに『棘』を優しく抜かれながら、祐一は半分以上照れの混じった思考回路でそんな事を思ってみた。
「それはアレか? 俺は珍獣レベルか?」
実際に口に出してみたりもした。
「本当に、そう思っていますか?」
今一度その顔を覗き込みながら、美汐が問いかける。
それはもう、全てを見透かしたかのような余裕のある表情だった。
「……知るか」
案の定、祐一の照れ隠しは徒労に終わったらしかった。
* * *
「なぁアニキ、そろそろ逃げた方がいいんじゃないですかい?」
「だからお前はバカだって言われんだよ。 今動く事がどれだけ危険だか判らないのか?」
「で、でも…このまま動かないでいるってのは不安でしょうがないんですよ」
「だからこそ、だろうが。 『普通』の人間と同じ思考回路で動けば、それこそ警察の思うツボだろ」
呆れたような、って言うかメチャクチャに呆れているのであろう事が手に取るように判るアニキの声が、午後の三笠の廃車置場に小さく木霊した。
放火や爆破などに代表されるような余程の愉快犯でもない限り、犯人が犯行現場に舞い戻る事などは滅多に起こらない。
それは、現在の犯罪心理学の父とも呼べるアリスト・D・ブロンクス=サミュエルの研究からも明らかな事実だった。
『多くの人間は犯罪を犯す事に罪悪感と怯えを同時に抱き、犯してしまった『現実』から少しでも遠くへと逃げようとする習性を持つ。
人間とは、体系付けられた倫理と法律との中でしか生きる事の出来ない社会的生物である。
社会的生物とは往々にして他との共生を糧として生きる物であり、共生の為にはある一定の侵されざるルールが存在しなくてはならない。
つまり犯罪とはこのルールを侵す行為であり、それは同時に社会的生物である自らの存在をも否定する事となる。
故に『人間』は、犯罪の結果として訪れる『罰』よりも先に、生物としての根源から訪れる恐怖としての『罪』に怯えるのである。
人間である以上はやはりその習性からも逃れられない物なのであるが、その罪悪感こそが人間の証明でもあるように思われる。
まったく、皮肉としか言い様がない。 (A・D・ブロンクス=サミュエル著 『人間と犯罪』より抜粋)』
「平和ボケしたこの町の警察だ。 こんな小さな事件だろうが、今頃は大ハッスルで検問でも張ってやがるだろうよ」
「俺達がまだこんな所に隠れてるとも気付かずに、って訳ですか。 な、なるほど。 さすがはアニキだ、そこに痺れる憧れる!」
「……お前はちょっと黙ってろ」
溜息を吐きながら、しかし、とアニキは考えた。
まさか時効になるまで廃車置場でのたくっている訳にもいかないだろう、いくらこの町の警察がザルでもそこまで呆けはいないはずだ。
幸い今は現場検証と市外逃亡への警戒にのみ力を入れているようだが、それもいつまで持つか。
いずれは俺達(犯人)が地元に潜伏している事に気付くだろうし、そうなってからじゃ市外逃亡も手遅れになるだろう。
機は一瞬。
奴等の目が外から内に向こうとする、その刹那だ。
斜めに見ただけでも大量に積まれていた荷物(金)の大半はここに捨て置く事になるが、欲をかいて失敗するのは阿呆のやる事。
俺達の仕事は、やろうと思った時には既に終わってるのがベストなんだ。
だから、『盗んでやる』なんて言葉は使わない。
『盗んでやった』なら使ってもいい。
「平史(へいし)、次の仕事を教えるからよく聞け」
「へ、へいっ」
「俺達は今からトラックの中に積まれている金を小分けにして、この町の至る所に隠す。
目安は、積まれている総額の1/3程度だ。 なんでこんな事をするか判るか?」
「え? えーと、えーと……なんでですか?」
「……なぁ平史、平史よぉ。 そんなんだからお前はいつまで経ってもママっ子って呼ばれるんだよ。
たまには自分の頭で正解を叩き出してやろうとは思わないのか? お前がその気になれば俺なんかよりも数倍すげー悪党になれるんだぜ?」
「ご、ゴメンよアニキ……俺、ちゃんとやるからよ」
「いいか平史。 『ちゃんとやる』なんて言葉は俺達の間じゃ使わないんだ。
何故なら、『やってやる』って思った時は既に行動は終わってるんだからな。 だから、『やってやった』なら使ってもいい」
「わ、判ったよアニキ」
「なら、説明を続ける。 金を隠しておくってのはな、俺達の行動の選択肢を増やす為にやるんだ。
もちろん全ての金を持って逃げる事がベストなんだが、移動手段が調達できない場合、俺達は公共の乗り物を使ってこの町を出るだろう」
だがその場合には、傍目に怪しくない程度の金しか持って逃げれない事になる。
旅行鞄や大きな紙袋なんかは論外だし、場合によってはアタッシュケースすら人目につく。
そう、アニキの考えたこの計画の最重要足る部分は、全てが『人目につくか否か』に重点を置かれて考えられていた。
そしてそれは言いかえれば、『どれだけ人に違和感を抱かせないか』になるのだった。
現金奪取が成功したその瞬間に市外へと逃げていれば、検問に引っ掛かると云った事態からは逃れられただろう。
だがそれでは、『クヌギ食品のトラックが市外を走っていた』と云う、人々の記憶に容易に残るだろう違和感から逃れる事は叶わないのである。
レンタカーを借りれば足がつく。
自家用車なんか持ってない。
仲間を増やせば分け前が減る。
兎角に犯罪はやりにくい。
やりにくさが嵩じると全てを投げ出して部屋に篭りたくなるのだが、結局は犯罪に手を染めないとどうしようもない事に気付かされるだけなのである。
後にも先にも進めないのであればと半ば身投げの気分でしかし綿密に計画を立てれば、やはり最後までいけそうな気がしないでもない。
行けそうなのであれば行くしかないと思うのは、果たして勇猛なる男の性か、それとも余裕無き心境が為せる蒙昧ぶりか。
至極どうでもいいので追求はしない事にする。
追求はしないのだが(以下70行ほど省略)なのだった。
「しかし予想外だったな。 まさかこれだけの量の金が積まれてるとは」
言いながらアニキが、もう一度だけトラックの荷台を覗き見る。
保冷処理が施されているその中に悠然とした佇まいを見せるのは、少なく見積もっても億は下らないほどのダンボールの山だった。
現金輸送に食品配送トラックを使う用心深さにも感心したが、まさか金を積むのにもジュラルミンケースとかの類じゃなくダンボールを使うとは思わなかった。
なるほど、クヌギ食品二代目社長、椚将門。
なかなかに喰えないタヌキぶりだが、どうやら俺達の方が一枚上手だったようだな。
「さぁ行くぞ平史。 思いつく限り、ありとあらゆる場所に金を隠すんだ」
「了解だぜアニキ!」
計画の成功を目前にして、意気揚揚と声をあげるアニキと平史。
しかしその燦爛たる鋭気は、所詮は悪党の抱く卑小な物でしかなかった。
創生以来の法則として、悪の抱く野望は正義の剣に両断される物。
今回の事件もその例に違う事はなく、彼等の抱きし邪悪な野望は次の瞬間、天(廃トラックの上)から突如として響いてきた声に木端微塵に砕かれる事となるのだった。
「そこまでだぜ悪党!」
「だ、誰だっ!」
全くの驚きを隠せずに、声のした方を振り向くアニキと平史。
と、そこには何と―――
「ひとーつ、人より力持ち」
「ふたーつ、ふるさと後にして」
「……何よその目は。 だから間違ったって『みーっつ』なんて言わないわよって言うかそのフレーズに三つ目とかあるの?」
「そもそもいなかっぺ大将の方を唱える所から間違ってるんですよ。 本来なら『一つ人世の生き血を啜り、二つ不埒な悪行三昧、三つ醜い浮世の鬼を〜』です」
「かなり昔のアニソンはおろか桃太郎侍の決め台詞までをも完璧に暗唱できるとは……どこまでお前はイマドキの高校生離れするつもりだ、天野」
「相も変わらず失礼極まりないですね、相沢さんは。 それに、この決め台詞はセンター試験の国語の問題で出題されてもおかしくないくらいの名台詞なんですよ?」
「やべ。 俺、『一つ人より力持ち〜』の方しか知らなかった。 なぁ、マジで? マジでテストに出る?」
「出ないわよ、バカ」
全然まったくこれっぽっちも緊張感の無い彼等の会話に、アニキの邪悪な野望は、別の意味でも木端微塵に砕かれる事となっていた。
* * *
「……で、本当に何なんだテメー等は」
「ん? だからさっきから言ってるだろ。 俺達は正義の味方、その名も【天野戦隊ミシレンジャー】だ」
びしっと。
ばしっと。
何故だか判らないけれども物凄く誇らしげでしかも楽しそうな祐一の声が、秋口に入りかけた雪の降る町の空気を緩やかに動かしていた。
何時の間に決めたのだろうか、部隊名までもしっかりと決定されている。
相沢祐一曰く、【天野戦隊ミシレンジャー】
当然の如く部隊名の元ネタとなった名前を持つ少女からの許可は一切得ていないらしく、その証拠に少女の表情からは一切の感情の色が消えていた。
怒りでも諦観でもなく、ただ透明な無表情。
しまったやっちまったかと祐一が瞬時に弁解の為の言葉を探し始めた瞬間、意外にも彼女の表情に戻ってきた感情の色は『微笑み』だった。
それも世辞とか愛想とかの不純物を含んだ笑顔ではなく、言うなればこの世界で最も無垢なアルカイックスマイル。
他人の情愛を喚起させる為だけに浮かべられるこの種の微笑みは、今回の場合もその例に違う事無く、祐一の心の閂を易とも簡単に引き抜く事に成功していた。
「……相沢さん、それだと語呂が悪いので、【美坂戦隊カオリンジャー】にしませんか?」
そうして美汐は、他人の警戒心を全くの無にする笑顔を浮かべたまま、とんでもなく突拍子の無い事を口にした。
「ふーむ、【カオリンジャー】か……そっちの方が良いかもな」
「ちょ、天野さんっ? 相沢君までっ?」
さても驚いたのは香里である。
何しろ図書室での邂逅からこっち、目下の所祐一の興味は美汐にしか向いていなかったのだ。
今だって祐一が先に口に出したのは美汐の名前だったし、彼女もそれを受け入れるかのような笑顔をその可愛らしい顔に浮かべた。
直接的に笑顔を向けられた訳ではない香里でさえ、その笑顔には一種の安堵を抱かされたのだ。
事はこのまま推移していくと思われた。
時はこのまま流れていくと思っていた。
つまり香里は今現在、何がどうしてこうなったのかが全然さっぱりこれっぽっちも判らなかったのである。
「レッドレッド、俺レッドな! カオリンジャーレッド!」
「じゃあ俺はクールにブラックだな。 カオリンジャーブラック」
「な、何で色決めの段階に入ってるのよっ。 まだ戦隊名は決定してないでしょっ?」
「では私は桃色でお願いします」
「桃色……普通にピンクって言えないのか? まったく天野はおばさ、いや、何でもない。 すごく素敵だと思うぞ、天野の桃レンジャー」
「あら、『凄く素敵』だなんて、お上手ですね」
「ってかふと思ったんだけど、『桃色カオリンジャー』ってなんかやたらに卑猥な響きだよな」
「人の話を聞きなさーいっ!」
美坂さんのどっかんが久し振りに発動した、午後の三笠の第三廃車置場。
まったくもっていつも通りのノリで展開される美坂戦隊の超絶トークに、流石のアニキも引き攣った頬を元に戻す事ができなかった。
こんな馬鹿な奴等は見た事がない。
こんな馬鹿な会話は聞いた事がない。
だがそれ以上に、こいつ等は今、確かにこう言った。
「正義の味方、だと?」
馬鹿な会話をする馬鹿な奴等が口にした戯言と取れれば、どんなに楽だっただろうか。
『正義』と云う言葉を無視してしまえる状況であれば、それはどんなに楽だった事だろうか。
ただ今は、『正義』と云う言葉に対する状況が明らかに違っていた。
今朝の段階で犯罪に手を染めてしまった今のアニキの立ち位置は、確実に『悪』。
意志を持って『悪』と対峙すると言うのであれば、しかもそれが自らの利益ではなく『悪』の根絶を目的とした物であるのならば。
彼等が今、紛れも無く『正義』の側に身を置いているのだろう事は、火を見るより明らかだった。
知っているのだろう、恐らくは、真実を。
それがどう云った経緯を経てなのか何故に高校生がなのかは全く判らなかったが、それでもたった一つ。
今この場で確かに言える事があるのならば。
「随分とサービスのいい正義の味方だな。 お嬢ちゃん達、パンツ見えてるぜ」
「んなっ?」
ばっ!とスカートを両手で押え、キッ!と真っ赤な顔でアニキを睨むカオリンジャー元帥。
近隣の高校と比べても異様なほど短い制服のスカートで廃トラックの上に登ったりすれば、そりゃパンツが見えるのも当たり前の事だった。
そして普通の女子高生なら下着を見られたら赤面するのも当たり前の事で。
当たり前のはずで。
「平気です。 ブルマですから」
『何でお前は平気な顔をしてるんだ?』みたいな顔で自分を見る祐一に美汐が返したのは、そんな淡々とした言葉だった。
なるほど、ブルマ。
そりゃ防御力が高そうだ。
しかし何時の間にそんな物を実装したのかと疑問に思った祐一だったが、解決されても大したカタルシスは得られそうにないのでこの件は放置する事に決めたようだった。
* * *
「ブルマでもパンツでも構わないが、生憎とこっちはガキの遊びに付き合ってる暇は無いんだ」
低く響く、アニキの声。
犯罪者がその現場に踏み込まれたにしては、その声はいっそ不可思議なくらいの余裕に満ち溢れていた。
『証拠』であるクヌギ食品のトラックがその場に存在し、犯人であるアニキと平史が此処にいる。
何処の馬の骨とも判らないが、『真実』を知っている者が踏み込んできている。
彼等も馬鹿ではないだろうから、警察への連絡ぐらいはとうに済ませているだろう。
しかしこの場から即座に逃走する事は、『正義』である彼等が許すはずがなかった。
女二人を完全に除外して考えたとしても、人数的には五分と五分。
こんな事に喜んで首を突っ込んでくるくらいだから、彼等の身体能力は決して悪い方ではないだろう。
下手をすれば対イチでも負けかねない。
位置的に考えて女を人質に取る事もできそうにない。
だが、これだけの悪条件を付きつけられてもまだ、アニキの声音からは余裕の色が消えなかった。
美汐と香里がその余裕に違和感を感じたのは殆ど同時。
そして二人がそれを口に出す前に、祐一と北川は既に行動を起こしていた。
北川は自分の背に香里の身を守り、それを受けた祐一は美汐の前に自身でもって盾を作る。
圧倒的な戦慄でもって彼等の身体を突き動かしたのは、電流の様に背筋を駆け巡った一瞬の怖気だった。
理屈で動いた訳ではない、考えるよりも先に身体が動いていた。
直感に身を委ねる事ができる人間とは非情に稀で、そう云った意味での彼等はまさに常人離れした感覚の持ち主だった。
「ちょ、なに? どうしたの?」
あまりにも唐突に自らの視界が塞がれた事に、香里の声が意図せずに上ずる。
それから数秒経ってようやく自分の目の前にあるのが北川の背中である事を確認した香里は、今度はその更に数秒後に北川の行動の真意を知る事となった。
意外と広い級友の背中越しに垣間見えた、妹の口癖を借りて言うならば『まるでドラマのような』光景。
この世に生を受けてから初めて見たその物体は、香里が思っていたよりもずっとずっとオモチャみたいな外観をしていた。
「ほう…男のガキどもの方が察しが良いな。 どうやらただの馬鹿じゃないみたいだ」
アニキの余裕の正体。
圧倒的不利を全て水泡に帰す事ができる『力』の象徴は、その脅威とは裏腹に存外と陳腐な姿をしていた。
懐からゆっくりと取り出され、今はアニキの右手の中に鎮座している、一丁の拳銃。
ぱっと見で判断する限り輪胴式弾巣【リボルバー】ではないようだったが、さりとて模型屋やドラマでよく見るような自動式【オート】でもなさそうだった。
トカレフでもベレッタでもデザートイーグルでもない、それこそ何と言うか、まるで出来の悪いオモチャのような外見。
だがアニキの手に握られているソレを玩具だと決めつけてしまうには、祐一達の直感は余りに優れ過ぎていた。
こめかみの辺りがチリ…と疼く。
自然と眉間に皺が寄る。
今までに一度たりとも彼等を裏切る事の無かった直感は、どうやら今回もまた裏切る事など微塵も考えてもいないようだった。
本物だろう、恐らくは九割九分。
リスクが低ければこそ死中に活も見出せようが、今のようなケースで残りの一分に賭けるには、それこそ言葉通りに分が悪かった。
「人質は一人で充分だ。 そこの髪の短い女、ちょっと来てもらおうか」
特に彼女の髪がショートカット、と云う訳ではない。
ただ、今この場に限定すれば女性は二人しか存在せず、その二人の内彼女の髪の方が短かったと云うだけの事だった。
「……駄目だ、絶対に行くな、天野」
「………」
人質は一人で充分。
アニキが口にしたこの言葉を、相沢祐一は瞬時に二つの意味に大別した。
一つ、死体は少ない方が楽である。
例えば逃亡の安全を図るために散々連れ回した挙句邪魔だからと殺すのであれば、連れて歩く死体は一人で充分だろう。
一つ、人質に危害を加えるつもりはない。
例えば途中で一人を殺して追手側に脅迫をしかけるつもりであれば、事後の保険として人質は二人必要である。
乱れがちな思考ながらも考えてみれば、その言葉の意図は受け取り様によっては全くの両極であった。
殺すから一人でいいのか、殺さないから一人でいいのか。
『なにどうせ後者であろう』と生来の楽観的な思考が脳裏で喧しく騒ぎ立てたが、本能はそれを頑として受け付けようとはしなかった。
元より、前者であろうが後者であろうが『そんな事』、受け入れられるはずがなかった。
「聞こえなかったのなら、もう一度言おう。 髪の短い女だけこっちに来い。 他の奴等は動くんじゃない」
「人質なら俺がなる、だからコイツは―――」
「三度目を言わせるなよ、クソガキ。 ただでさえ手前等みたいなのに引っ掻き回されて頭に来てるんだ。 交渉の余地なんか欠片も無いと思え」
冷静さと灼熱が紙一重で均衡を保っているアニキの口調からは、『行動』に対する躊躇いの気配など微塵も感じられなかった。
『撃つ』と思った時には、既に撃ち終わっている。
意志が行動に反映されるまでのタイムラグを消し去るこの力を、有史以前より人は『覚悟』と呼んだ。
善である必要はない、悪である必要もない。
全ての決定権は己の心の内にのみ存在し、それ故に彼を縛る力は何処にも存在しない。
祐一の記憶が正しければ、過去にこう云った眼をした奴等とやりあったのは数回しかなく、そしてそのいずれの場合もがとんでもない苦戦を強いられてきたはずだった。
動いたら撃たれる。
逆らっても撃たれる。
撃たれたら血が出るし多分だけどめっちゃくちゃに痛いだろうし、場合によっては死んでしまうかもしれないだろう。
それは怖い。
如何しようもなく、おっかない。
でも。
銃口を向けられるのはすごく恐いし痛いのは苦手だし血が出るのも勘弁してほしいし、死ぬのなんかそれこそ死んでも御免なんだけど。
それでもやっぱり、相沢祐一は相沢祐一だから。
「守ってみせる。 だから天野、アイツの言う事なんか絶対に聞くな」
引けない、引かない、引けるか。
既にアニキが心胆に据えているモノが『覚悟』だとしたら、今この瞬間に祐一が抱いたモノもまた『覚悟』だった。
撃たれる覚悟ではない。
痛みに耐える覚悟でもない。
無論それは己に課した命題を遂行する為に必要な代償であるかもしれなかったが、本質的な覚悟の場所はそんな所に存在してはいなかった。
覚悟とは、暗闇の荒野に進むべき道を切り開く事である。
拳銃を付きつけられた現状は、まさに暗闇の荒野。
進むべき道が見えない。
打開策が浮かばない。
だがしかし、座して死を待つ事のできる男ならそもそもこんな事に首を突っ込んだりはしなかっただろう。
道を切り開くためにはつまり、そこより先に道が存在していない事が前提として必要なのだ。
相沢祐一は、覚悟を決めた。
天野美汐をその背に守る、その覚悟をしっかりと心に決めた。
相沢祐一の覚悟の本質は、天野美汐を守る事。
だからその為にはあらゆる苦痛に耐えられるだろうし、あらゆる苦痛に苛まれたとしても『耐える』ことが目的ではない以上、その心は折れる事がないようにも思えた。
だが、そうはならなかった。
「相沢さん……いいんですよ」
「へ? あ、天野っ!?」
涼しい顔をして祐一の背中を離れ、短いスカートが翻る事に頓着もせずトラックの荷台から飛び降りる。
全ての現状に対して明らかなる達観を見せる彼女の仕草は、さながら天界に羽根を忘れてきた天使の様だった。
怯えず、屈せず、歪まず、美しく。
あまりにも『普通』に行なわれたその一連の動作は、張り詰めた緊張感を持っていた祐一の反応すらをも大きく遅らせる事に成功していた。
「それでは、ちょっといってきます」
今日は5時から魚政でサバが安いので。
あとにそんな言葉が続きそうなくらい、振り返って告げた時の美汐は穏やかな表情をしていた。
そして美汐が呆れかえるほど穏やかな表情をしていたからこそ、逆説的に祐一はとてつもなく恐ろしい想像に身を震わせる事となった。
まさか。
まさか天野、お前!
「戻れ天野! そんな事許すか!」
そんな事。
人身御供。
ついさっきまで自分が考えていて今からまた更に実行に移そうとしている事だけど、そんな事は絶対に許さない。
俺達から銃口を逸らす為に進んで人質になろうだなんて思っているとしたら、俺はお前をぶっとばすからな。
「動くなクソガキ! 風穴開けるぞ!」
「おう撃ってみやがれクソッタレ! 今すぐだオラ! 早く銃口こっちに向けやがれ!」
もうメチャクチャだ、と北川は思った。
あいもかわらず相沢は『自分以外』が加えられそうな危害に関して沸点が低過ぎるし、天野さんは天野さんで態度が落ちつき過ぎている。
唯一マトモであると信じたい自分の思考ですら、妙に冷静な辺りに信用が置けなかった。
自分の背中で声も出せずに居る、現状に対して最も一般的であると思われる美坂の反応は、一般的過ぎてそれこそ頼りにならない。
むしろしてはいけない。
この状況で頼られるべきは自分である。
しかし迂闊に動けばその背中に守っている香里が危険に晒されてしまうと云う事で、やはり北川には荷台の上でアレコレと思案する以外にやる事がないのであった。
恐らく今は、まだ『機』ではない。
動くべき瞬間が必ずあるはず。
そう自分に言い聞かせでもしなければ、動けない歯痒さに耐えられそうにもないのだった。
自分に銃口を向けさせようと、必死にアニキの気を引こうとする祐一。
祐一の思考を借りれば『人身御供』であるはずの美汐は、何故かその光景をとても穏やかに見詰めていた。
まったくもってこの二人の行動は、いわゆる『普通』の範疇から逸脱している。
だがそれよりももっと不可解に思うべき事柄が、今の廃車置場には存在していた。
ありとあらゆる罵倒をたかが高校生のガキに受けておきながら。
傍目にも判るほど確固たる決意を心胆に据えておきながら。
その手には喧しくさえずる小僧を瞬時に黙らせる事ができるだけの力を持っておきながら。
それでもアニキの銃口は、一瞬たりとて祐一に対して向けられてはいなかった。
人質優先だと考えれば何も不審な事ではない。
事実、祐一はそう思いこんでいた。
だからこそ必死で自分の方へとアニキの注意を引こうとしていたのだし、美汐から銃口を外させようとしていたのだ。
だが、よくよく考えてみればやはりおかしい事に気付くだろう。
何故ならば、相沢祐一と天野美汐が同様の行動を見せた時、どちらを脅威に思うべきかは、論ずるまでもない事柄なのだから。
機動力、腕力、耐久力、胆力。
最後のは美汐の方に軍配が上がりそうだったりもするが、それでもやはり動き出してしまえば厄介なのは祐一の方だと考えて間違いはなかった。
だのにアニキの銃口は、やはり依然として祐一に向けられてはいない。
銃器類の所持すら法律で厳しく規制されているこの国の成人男性が持っている射撃スキルなど、某射撃大国の小学生にだって劣っている。
ましてそれが瞬時に対象を変えて、しかも動く相手を撃つと言った行為に達した場合、もはや的中させる事など不可能だと言ってもいいほどだった。
だからこそアニキは、初めから祐一に照準を合わせている必要があったはず。
もしくは対峙した段階で大腿部でも撃ち抜いておくのが、『覚悟』を決めた人間の行動であるはずだった。
なのに現実は、『そう』はなっていない。
ならば何故。
何の意図があって。
仄かに見え始めた綻びが、北川の思考を燻らす。
背中に感じる学年主席の体温までもが、涌き出る泉の如くに理論構築の手助けをする。
現実にはありえない類の妄想だと笑われても構わないくらいに今、北川の深慮は香里のそれと酷似するレベルにまで高められていた。
撃たない。
違う、撃たないのではない。
撃ちたくない。
論外と言うほどでもないが、的は得ていない。
少なくとも奴は、確実に相沢を撃ちたがっている。
死体を作る事に対する躊躇いは既にその瞳から消え失せて久しい。
だが、撃っていない。
何故。
ここまでくればもう確信に足る。
核心には遠いが、確信は得た。
奴は恐らく撃たないのではなく―――
「一四年式、ですか。 随分とアンティークな趣味をお持ちなんですね」
それは、どこまでも透明度の高い呟きだった。
一種のトランス状態から覚醒した北川が『真実』を叫ぼうとした瞬間。
相沢祐一が今まさにトラックの荷台から飛び降りようとした瞬間。
天野美汐は、たったそれだけの言の葉で廃車置場内部の全ての時を凍らせた。
一四年式。
恐らくは拳銃の名称。
高校生組はその言葉の耳慣れなさに沈黙を守り、アニキは驚愕をもってこれまた沈黙を守るより他に術を持っていなかった。
「その表情を見る限りでは、あなたも一応はご存知なんですね?」
「……何の事だ」
「その拳銃の、短すぎる射程距離と低過ぎる殺傷能力。 それから実装当時ですら装弾不良などのトラブルが絶えなかったと言う不名誉な逸話を、です」
勿論、多少の語弊はある。
低過ぎる殺傷能力とは他のオートマ、例えばそれこそ44マグに比べての事であるし、低かろうがなんだろうが当たってしまえば痛い事に変わりはない。
短い射程なんて、それこそ素人が扱う上ではどうでもいい。
しかし単純にその事を『識っている』と云うただそれだけの純然たる事実が、アニキにとっては驚愕に値する事柄なのだった。
成人男性の歩幅でおよそ30歩ほどの距離から一目見ただけで。
しかも見た目にはやたらと可愛いイチ女子高生が。
およそ冷静でいられる状況とは真逆に存在しているにもかかわらず、この銃が大正一四年に南部の手によって造られた銃だと見抜いた。
『正義』を語ってこんな所に来るくらいだから普通の女じゃないと予想はしていたが、さすがに今の美汐はアニキの予想を大きく飛び越え過ぎていた。
「なるほど……それがキミの切り札か」
古今、東西、大小問わず。
個人的な闘争から国家単位の戦争に到るまで、全ての争い事のジョーカー【鬼札】とはいつだって『情報』だった。
敵を知り己を知れば百戦危うからず、とは誰が残した言葉だっただろうか。
時に情報が何の意味も持たないほど彼我の戦力差が歴然たる場合も存在するが、それ以外の部分では概ねこの鉄則に揺るぎはないのだった。
だが。
「たしかにアンタの彼氏は射程範囲外だ、それは認めよう。 だが、それでキミ自身の安全が保障されてる訳じゃないって事を忘れてるんじゃないのか?」
「ああ、それでしたらご心配なく」
「あ?」
「だってこれ、スペクトラ製ですから」
天野美汐はそう言って、制服の裾をつ―と摘んで見せた。
スペクトラ繊維―――水に浮く比重でありながらもケブラーより防弾・防刃効果に優れた、新世代のスーパー繊維
そんなバカなとその場に居た誰もが思ったが、同時に『いやしかしコイツならあり得る』とも思っていた。
「貫通力が高く初速の速いトカレフ7.8mm弾でも、この制服は貫通しません。 まして殺傷能力が低い旧式の一四年式8mm弾では、私を行動不能に追い遣る事なんてできません」
「なら足を―――」
「狙えますか? この距離とあなたの腕とそのアンティークで。 一部業界では『絶対領域』とも呼ばれているニーソックスとスカートの間にのみ露出しているこの私の大腿部を」
白い。
細い。
しかし柔らかそうだ。
個人的な感情のみでモノを言えば『ものすごく触ってみたい』だったが、最後の理性でアニキはそれを口に出さなかった。
もとい、その『絶対領域』は本来の意味(がどんなものであるかは不明だが)から500マイルほど離れた意味で、今のアニキにとってもまさに『絶対領域』だった。
狙えない。
狙って当てる自信などない。
無論身体の中心線を狙えば、少なくとも身体のどこかに当てる自信はある。
しかしそれは、同時に二つの危険性を孕んでいた。
一つ、美汐の言葉が虚偽だった場合。
一つ、美汐の言葉が真実だった場合。
前者の場合、掛け値無しに彼女は死ぬだろう。
失血だろうがショックだろうが死因はどうでもいい、とにかく彼女は死ぬだろう。
怪我した女なんて連れ歩くのにも難儀過ぎて、人質としても役に立たない。
必要であれば撃つ覚悟はしていたが、アニキとて喜んで死体を製造したい訳でもなかった。
脅しで済めばそれが一番いい状況だった。
だがその選択肢は、彼女の知識によって完全に封殺された。
撃つしかない、しかし撃てばその瞬間に全てが終わる。
恐らく彼女は今の場所から一歩たりとて前に進まないだろう、しかし後ろにも下がらないだろう。
有効射程ギリギリで己の身を銃口に晒す彼女の姿は、自らの言葉が真実である事をまさに身体で表しているようにも見えた。
ならば後者の場合、つまり美汐の制服が本当にスペクトラ繊維で作られた物だった場合に起こる危険性とは何か。
言うまでもない、発砲した瞬間にアニキ側は一気に『詰み』の状態に陥るのだ。
不意をついた状況であれば兎も角、今の美汐は既に覚悟を決めている。
しかもそれはアニキや祐一に優るとも劣らないほどの、強靭な覚悟だった。
今すぐ現実の物になりそうな例えであえて表現するならば、防弾制服の上から着弾した際の消しきれぬ衝撃に絶え得るほどの覚悟。
脂肪も筋肉も極端に薄い美汐の体躯である、どこに着弾したとしてもそこに骨があった場合、まず亀裂骨折は避けられないだろう。
骨折は痛い。
物凄く痛い。
しかしそこに意志の力が介在する余地を与えられているとすれば、その負傷は行動不能と完全な等式では結ばれなくなるのだった。
そしてついに発砲が為されたその瞬間。
祐一と北川の縛は、その刹那をもって一気に解き放たれる事となるだろう。
怒れるクソガキ二人に対し、冷静な犯罪者二人。
加えて美汐と香里が連絡要員に回ってしまった時の事を考えれば、やはりアニキ達の勝ち目はどうやったって薄くなるのが目に見えていた。
何て事だ、気がつけばどちらの選択肢を選んでも結末が見えてしまっているではないか。
改めて自分が置かれた状況を鑑みて、アニキは額に深い皺を刻み込んだ。
拳銃を片手に相手を追い込んだ気になっていたら、何時の間にか立場はすっかり逆転している。
己の持っている切り札を過信したつもりなど微塵も無かったが、まさかここまで無効化されるだなんて思ってもみなかった。
汝、亡霊を装いて戯れなば、汝、亡霊となるべし。
畜生、なんて可愛い顔したザミエルだ!
「………」
「観念して、いただけますか?」
「……まだだ。 まだ、こんな程度で投了なんかしてたまるか!」
アニキが吼える。
一介の犯罪者が吐くにしては驚くべき質量を持った咆哮は、決して誇張などではなく廃車置場内の全てを大きく揺るがした。
赤茶色に錆びたミニバンの車体を、眼前に立つ美汐の制服を。
そして何より、彼に相対している全ての人間の心胆を震わせた。
何がここまで彼を、彼の犯罪成就への願いを強くさせるのか。
こんなにまでも一途で愚直な姿勢を目の当たりにしてしまうと、さすがに物怖じもしようと云うものだった。
「平史! 今すぐ金を持てるだけ持って逃げろ!」
「でもアニキ!」
「俺は大丈夫だ。 どんなに悪く見積もっても状況は五分【イーブン】。 それより良くもならなければ、悪くもならない」
鋭い、と北川は思った。
現に自分も天野さんの態度があまりにも超然としているからこちらが有利だと錯覚しかけたが、現実はそんなに簡単なものではない。
五分だと思ってもらえただけラッキーだったと考えなければならないほど、現状は一言で表してしまえば『ヘヴィだぜ』な感じであった。
まず、自分たちの思う『最悪』とアニキ等が思う『最悪』のレベルが違う。
彼等にとっての最悪とは単純に捕縛される事にのみ語り尽くされるが、こちらの『最悪』は考え出せば切りが無いほど深い奈落を形成していた。
そりゃ全員死亡ENDが考え得る『最悪』の結末なんだろうけど、天野さんが殺されるってだけでも充分過ぎるBAD-ENDだ。
彼女が人質として拉致られるなんてのも勿論アウトだし、怪我を負わせる事態だって考えれば気が狂いそうなエンディング風景に違いない。
じゃあ、どこまでが譲歩できる線か。
そんなのは決まってる、こっちは兎にも角にも『全員の無事』が最低条件だ。
そして向こうの最低の要求がつまり、『無条件逃走』の権利。
しかし犯人の逃亡を許してしまうって事態を考えれば、俺達に付きつけられるのは圧倒的な『敗北』の二文字だった。
背に腹は代えられない。
そんな事は判り切っている。
だがそれでも、ここまで来ておきながら、悠々と廃車置場を後にする犯人の背中を黙って見送れと?
「残念ですが……」
美汐が呟く。
それは、ある意味では北川の心情を肯定しているかのようなタイミングだった。
まさか思いを読まれたのかと驚きの表情で美汐を見やる北川。
しかし美汐の視線はそれとは一切絡み合わず、透明なコバルトはただただアニキの瞳を見据えて微動だにしていなかった。
「なんだ、まさかまだ切り札が残ってるとでも言うつもりか?」
「ええ……残念ですが、この切り札によって貴方達の状況は更にもう一段階、それも悪い方へと傾きます」
切り札がある。
この期に及んでまだ。
どこまでも底が見えない後輩に、今や祐一の時は完全に止められていた。
第一の刃、拳銃の知識。
第二の刃、防刃防弾繊維。
味方陣営である自分ですら、それは知り得ない隠し刃だった。
敵を欺くにはまず味方から、それが定石だと云う事は知っている。
特に今回のような場合、切り札を持つが故の弛緩した空気を相手に気取られるなんてのは愚の骨頂である。
だが、だがしかしだ。
無知は罪だと昔の偉い人が言っていた。
切り札を持つ者は自然、事態の矢面に立つ必要が出てくる。
そして今まさにこの時、相沢祐一は、無知の代償として守りたい存在を危険に晒してしまっているのだった。
誰が裁く訳でもない、当然の如く罰など存在しない。
しかしそれは、己を責め立てるには充分過ぎるほどの罪だった。
何故、俺は何も知らない。
何も知らないのにどうしてこの場所にいる。
せめて盾となれたならまだ存在意義もあっただろうが、今の俺はただ立ち尽くすだけのカカシじゃないか。
持ってる切り札なんかただの一つだってありゃしない。
知っている情報なんか、俺が持っている『真実』なんか―――
「―――あ」
思わず漏れる、小さな声。
鮮明に蘇る、図書室でのやりとり。
相沢祐一はようやくこの時、自身がその手に全てを貫く神の槍【グングニル】を持っている事を思い出した。
「……なるほどな、確かにコイツは必中必殺の神槍だ」
「何をブツブツ言ってんだ。 頭おかしくなったか?」
「おいオッサン!」
「んっ、んだ固羅クソガキ!」
一撃で灰燼と化す。
後に骨すら残しはしない。
因果を紐解き経過を素っ飛ばし確実に『結末』のみを抽出する能力を備えた神の槍。
封印を解くべきは、今!
「あんた一体、『何』を盗んだ気でいる?」
美汐が、微笑んだ。
北川が数瞬の後に全てを理解し、その背中にいる香里もほぼ同時に『それ』を理解した。
美坂戦隊カオリンジャー最大の切り札、そもそもの事件の発端。
平凡なイチ高校生である自分達が、何故こんな事件に首を突っ込む事になったのか。
そして、自分達はこの事件をなんと呼んでいたのか。
「『何』の為にあんたはその銃口を無抵抗な女の娘に付きつけている? 答えろよ、悪党」
「お前の……お前みたいなクソガキの知った事か!」
「ならいい、答えなくても構わない、俺にはそんな『理由』なんかどうだっていい。 だが、あんたには知る必要がある筈だ、そうだろ?」
「………」
「調べろよ。 確認しろ。 そして思い知れ。 自分が一体『何』を盗んで、『何』を守る為にそんな必死になっているのかを」
本当に目の前の男は高校生なのか。
老練とも云えるほどの強い眼差しで自らを射貫く祐一の姿に、アニキは今回の一連の動きの中で初めて『恐怖』を味わった。
『真実』から始まった行動は、必ずや『未来』に辿り着く。
まるでそれを意図的に裏付けるかのように、今のこのガキは揺るがない。
だが、だがしかしだ。
発端のみを論点とするのならば、自分の願いとて一点の曇りも無い『真実』である。
目的の為に手段をこそ選ばなかったものの、そんな事であればクソガキの分際で探偵気取って事件現場に顔を出す奴等とて同罪だ。
状況は、未だ傾いてはいない。
王手【チェックメイト】なんか、されてたまるか。
「何を……何を盗んだかって?」
「ああ。 本当に『それ』は、あんたの願いを叶えてくれる物なのか?」
「決まってるだろクソガキが! 金は神だ! 力だ! 出来ない事なんか何一つだってありはしない!」
アニキが激昂する。
そして遂に彼は、その銃口を美汐から遠ざけた。
事態に対応しきれずオロオロする平史を押し退け、自らの手でトラックの荷台に手を掛ける。
折れよ外れよと言わんばかりの勢いで両開きの扉をぶち開け、そのままの勢いで冷蔵仕様を施された荷台に飛び乗る。
周囲との温度差によって白い靄がかかったその場所に存在していたのは、うずたかく積まれたダンボールの山だった。
何も驚くべき事ではない。
ここまでなら彼等は、強奪した時点で確認している。
だが逆に言えば、確認したのはそこまでだった。
積荷が載っている。
この車は食品配送車のカモフラージュをされた現金輸送車である。
二つの方程式は簡単に『積荷は現金』の答えを導き出したし、彼等もそれを疑わなかった。
そしてそれこそが―――
「な…ん、だ………なんだコレはぁあああ!!」
そりゃ、イチゴムースだろう。
荷台の内部より聞こえたアニキの絶叫に北川は心の中でそう思ったが、決して口に出したりすることはなかった。
特にこう云った場合、必要以上に相手を刺激するのは徒に危険性を増やすだけでしかない。
なにしろ窮鼠は猫を噛む。
旧ソだって大戦末期には日本を噛んだのだ、塵殺が目的じゃないのならここは黙っておくべきだ。
今はまだ時じゃない。
機を見ろよ北川潤。
ってかさっきもこんな事を思ってた気がするんだけど、ひょっとして最後まで俺の出番ナシ?
「さて……そろそろいいでしょうか?」
「………」
「ご確認の通り、あなたが強奪したのは現金ではありません。 イチゴムースです」
アニキからの返事は、ない。
荷台から降りてくる様子もない。
しかしそれすらも予定調和であるかの如く、美汐は淡々と話の先を続けていった。
「あなたがイチゴムースの為に再び私に銃口を向け、命と残りの人生までをも賭けるのだとすれば、仕方がありません、応戦しましょう。
ですがもし、あなたが今ここで全てを諦めるのだとしたら―――」
そこで美汐はいったん言葉を切り、
「私はその対価として、あなたの拳銃所持と脅迫、拉致監禁未遂を不問にします。 どうですか? 悪い条件ではないと思いますが」
最終結論を、叩き付けた。
全てを諦める、つまり自首するのであれば、自分達がこの場に来た事すらも『無かった事』にする。
それは確かに、アニキ側にとって現状における最高の選択肢だった。
時間を吹き飛ばし、自分に有利な状況まで戻す。
まるでバイツァ・ダスト。
だがそれを発動させる為には、他ならぬ自分自身の手でそのボタンを押す必要があった。
悪党としての意地も大人としての誇りも何もかも捨てて。
Bites
The
Dust。
負けて死ね。
そしてこの場合、負けて死ぬのは自分である。
「……どこでだ」
「………」
「教えてくれよお嬢ちゃん。 俺は、どこでジョーカーを引いた?」
「強いて挙げるとすれば……そうですね、全ては『思い込み』が歯車を狂わせたのではないかと」
「思い込み?」
「ええ―――」
この町に住む人間の感覚を一般化して捉え、この廃車置場に留まった事。
前情報のみを全ての指針とし、銀行を訪れた車を即時現金輸送車だと判断した事。
現金輸送車であるのだから、積んでいる荷は当然現金だと誤認した事。
「私達を『高校生』と云うカテゴリで簡単に括り、個々の能力を判別もしないままに画一的な脅しに出たのも―――」
「そうか……それも、俺の勝手な思い込みだったか」
「はい。 そして最終的な敗着手も、結局はあの時点でした」
「と、言うと?」
「ゲームによっては全てに打ち勝つJOKERですが、一度その扱いを誤れば大きく湾曲した死神の鎌は己の身を裂きます。
拳銃と云うあなたにとって最強の脅しの切り札は、場に出された瞬間に今度は私にとってもの脅しの切り札に姿を変え、そして今」
誰の味方をするでもなくただひたすら状況を嘲笑う死神の鎌は。
「あなたを、討ち取りました」
びしっと。
ばしっと。
美汐は、断言した。
ひょっとしたらアニキが悪足掻きをするかもしれない。
存在すら忘れられてる平史が突如として一人前の悪党に覚醒するかもしれない。
そんな諸々の危惧が未だに残っているにもかかわらず、天野美汐は討ち取りを宣言した。
勇み足、はやとちり、そんな軽率なミスを犯すほど彼女は拙くない。
むしろ考えられるそれらの可能性を全て潰す為に、彼女はきっぱりと断言したのだった。
「……完敗だ。 お手上げだよ、お嬢ちゃん。 そんな可愛い顔で完璧な勝利宣言されちまった日には、みっともなくて悪足掻きすらできやしない」
そう言ってアニキが見せたのは、憑き物が落ちたかのような穏やかな表情だった。
一四年式の銃口を自分の方に向けて握り、グリップを美汐に向けて手渡す。
受け取る事に多少の躊躇いを見せたものの、アニキの表情に他意が全く無い事を見止め、それから美汐はそっとその銃を掌に受け取った。
「俺の最低限の譲歩だ。 この銃はお嬢ちゃんに保管していてもらいたい」
「秘密を守らせる為には共犯化しろ、と云う事ですか?」
「いや、そうじゃない」
「では……?」
「いつになるかは判らないが、次にキミに会う時の口実が欲しいんでな」
なに言ってんだコノヤロウぶち殺すぞ、と祐一は思った。
こんな状況でナンパするなんてお前はイタリア人か、と北川は思った。
そりゃないですぜアニキ、と平史は思った。
そんな、期待と不安と嫉妬と殺意の交じり合ったような三者三様の眼差しを一身に受ける天野美汐。
いわゆる『普通』の女子高生であれば一も二もなく慌てるような場面であったが、ところがどっこい美汐さんはそんなに野暮な女性ではなかった。
錆び付いたり半壊してたりするスクラップが所狭しと並んでいる廃車倉庫で。
古くて殺傷能力には欠けているとは言え立派に銃刀法違反に該当する物騒なブツを持ちながら。
ついさっきまで他でもない自分に向かってその銃を突きつけていた相手に対して。
彼女は。
美汐は。
それら全ての状況がどうでもよくなるぐらいの流麗な微笑を浮かべ。
「ではその時は、おいしいイチゴムースを出す店に連れて行ってくださいね」
この事件の幕を引くに相応しい、最高の台詞を言ってのけた。
その言葉と笑顔に一瞬だけアニキは時を忘れ、それから少しだけ自虐的に笑った。
もう少しだけ早く、出来ればこんな事に手を染める前に、キミと出会いたかった。
アマノ、天野か。
くそったれ、最高にイイ女だ。
「それじゃあ、またいつか」
「ええ、どこかで」
去っていくアニキの背中。
慌てて追いすがる平史の横顔。
見るともなしにそれらを視界の端に収め、美汐はそれからようやっとの事で祐一達に視線を戻した。
「終わりましたよ」と言外に知らせているような、穏やかな瞳。
安堵に緩む口元。
その場にいた誰もが身体の内に溜まっていた緊張をはふっと吐息に乗せた瞬間、美汐の腰がぺたんとその場に崩れて落ちた。
「なっ! 天野っ!?」
咄嗟にトラックから飛び降り、美汐の元に神速で駆けつける祐一。
着地の際に足がすごく痺れたりしていたが、そんな事に構ってはいられなかった。
まさか怪我でもしていたのか、それとも受け取った音も無く銃が暴発したか。
有り得ないとは判っていながらも完全否定が出来ないだけに、その表情は既に蒼白にまで近付いていた。
「天野! どうした!」
「あ、いえ、あの……」
背中に優しく手が添えられている。
強く手が握られている。
真剣な顔が、すぐ近くにある。
たったそれだけの、命には全く関わりの無い、人によっては些少すぎて笑いの対象になるような事態。
銃を付きつけられてもナンパされても全く動揺の素振りすら見せなかった少女は、しかしそんなありふれた状況に、ひどく赤面した。
「どっか痛いのかっ? クソあの野郎ひょっとして擦れ違いざまにどっか秘孔をっ?」
「ち、違うんです。 ただ、その、緊張が解けたら腰が抜けてしまって……」
緊張。
してたの?
自分を抱き留めている祐一の表情がすごく納得いかなさそうなものに変換されるのを見て、美汐は少しだけ頬を膨らませた。
「なんですかその表情は。 私だって女の娘なんですよ?」
だがしかし、言及するのはそこでストップ。
強く咎めてしまえばきっとこの人は、本気で自己嫌悪に陥ってしまうだろうから。
『女の娘』の私を、前面に立たせてしまった事を。
そしてそれを一時でも忘れてしまっていた自分がいる事を。
だから、この話はここでおしまい。
後はただの、私のわがまま。
「あー、その件については言い訳のしようも無いくらい――」
「相沢さん」
「――あい?」
「抱いてください」
「「んなっ!?」」
どこからか、声がハモった。
一つは勿論祐一の声であるが、もう一つは女の声だった。
今のこの場には女性は二人しかいない。
それ以前に今の声には聞き覚えがある。
消去法を使って他の選択肢を否定するまでもなく、その声は美坂さんのものだった。
カオリンジャー元帥、遅すぎた復活である。
「だ、だ、抱くって天野さんっ?」
「できれば優しくお願いします」
「ふ、二日モノですが宜しくオメガします」
「相沢君もっ!」
喧騒の外側。
いつも通りの傍観者の位置に立ち戻りながら、北川は『いつも通り』に戻りつつある空気を感じていた。
意図的だろう、恐らくは。
どうせ『抱いてください』の意味だって『腰が抜けて動けないから』ってオチなんだろうとは思っていたが、それでも口に出したりはしなかった。
思った事を心の中に留めておくのは、今日の一日だけでも充分に慣れた。
ただ一つだけ、背中に感じる温度が、近過ぎるだけに心を揺らすけど。
いつかパンクしやしないだろうかとも心配になるが、それならそれで問題無い。
破裂して宙に飛散したならば、弾けて混ざって月にでもなればいいだけの話だ。
ま、何はともあれ。
「イチゴムース欠損事件、犯人の自首をもって、一件落着」
呟いた北川の言葉は、喧騒に塗れて誰の耳にも届く事はなかった。
* * *
「――って事は何か、あの廃車置場に行った時点で俺達の勝ちは確定してたってのか?」
「確定、ではありませんけど。 そうですね、九割九分は揺るがなかったでしょう」
そんな驚くべき事実がなんとものほほんと発表されている、三笠第三廃車置場からの帰り道。
事件後のぎゃーすか騒動が一段落した後、彼等は学校へと戻る道をのんびりと歩んでいた。
無論、残りの授業を真面目に受ける為ではない。
既に六時間目は始まっている時間だし、戻ったら戻ったで教師に何を言われるか判ったものじゃない。
しかしながら、今回の事件で最も甚大な被害を受けた女子生徒の涙を思えば、そんな事は本当に些細な事でしかなかった。
とにかく早く報告したい。
悪者はやっつけたと言ってやりたい。
さすがにサボっていた授業の最中に突貫する勇気までは持っていなかったが。
「考えてみればそうよね。 相沢君や北川君ならともかく、天野さんが何の策略もなく犯人の前に姿を見せるとは思えないわ」
「おいおいマイフレンド、そいつは随分な物言いじゃないか?」
「そうだぜマイフレンド。 それじゃまるで俺達が考えもなく行動しているみたいじゃないか」
「なら訊くけど、あの廃トラックの上で決め台詞を喋ってた時、あなた達は何を考えてたの?」
二人、顔を見合わせる。
刹那、疎通が完了する。
「「そりゃ、目立つ事ばかりを」」
ハモった。
完璧だった。
二人が為したのは近年稀に見る物凄い精度でのアイコンタクトだったが、その内容もまた物凄い勢いでくっだらないモノだった。
美坂さんの眉間に鈍い頭痛が停滞する。
寸での所でどっかんしそうになる。
しかしそれを見事な間合いで制したのは、意外な事に美汐の言葉だった。
「助かりましたよ、お二人が天然でその役を担ってくれて」
天然、この場合はむしろ良い意味で使われたのだろう。
微かに口元を緩めながら二人に感謝の意を示す美汐が、やたらと可愛かった。
この娘が助かったならそれで良いか。
ああ、なんだか判らないけど天野が助かったならそれで良いや。
易とも簡単に思考停止に陥った迷探偵二人をジト目で睨んでから、香里はその疑問を投げかけた。
「それは、注意を引きつけるって事?」
「いいえ。 正確には、彼等を苛立たせる事です」
するってーと俺達は素で人を苛立たせる存在なのか。
ちょっとだけアレな役回りを天然でこなしてしまった事に若干の不安を抱える二人がそこにいた。
「とにかく先に切り札を出してもらいたかったんです。 何かと対峙する場合、最も恐れるべきは彼我の戦力差ではなく己の無知ですから」
「切り札を見るだけ、にしてはリスクが高すぎたんじゃない?」
「七並べ」
「……はい?」
「今回の場合、状況を最も的確に表しているのは、トランプ遊びの七並べだったんです」
七並べ。
ルールは簡単、各絵柄の『7』を起点としたカード並べである。
無論、駆け引きは数多に存在する。
カードが配られた時点で敗北を予感する事も多々あるが、そこで読み合いを放棄するのはただの負け犬である。
止め、誘い、染め、状況を覆す為の手段には事を欠かない。
そして七並べにおいて最も特殊な能力を発揮するカードが、そう―――
「七並べにおいて、JOKERは切り札。 ですが他のゲームとは異なり、同時に死神でもあります。
最後まで手元に残された死神はその主を破滅に追い込みますし、早過ぎる使用は後に復讐の刃として己を襲う。
空白の補完としてジョーカーを使った場合、空位のカードを埋めた人間の元にそのジョーカーが移動することは知ってますよね」
言わずもがな、誰もが頷く。
「つまりあの場合、『拳銃』と云うジョーカーを彼等が先に切り出したと云う事になります。
しかしそれは同時に、私達に『情報』と云う刃を与えてしまう事に他なりませんでした。
手の内に迎え入れられた切り札は、私達が手にしていた既知の情報と融合して新たな姿に変貌を遂げます。
そしてそれこそが、私が最も欲しかった手札。 状況を五分以上に持っていけるWILD
CARD。 力ではなく情報としての、脅しの鬼札です」
確かに、と香里は思った。
拳銃の所持と云う彼等にとって最も強力な切り札は、反転してしまえば自らの罪状を一つ増やす死神に他ならない。
考えてみれば彼等には作戦遂行段階で運転手を脅す必要性があり、現にそれは成功しているのだった。
犯人が凶器を所持しているのは偶然ではなく、既に必然。
後はどうやってその切り札を先に切らせるかの勝負であり、目の前の後輩は見事なまでにそれをやってのけたのだった。
まったく、末が恐ろしい。
「刃物の類であれば、距離を取っている以上安全。 仮に銃であっても、殺傷を目的としていない限り交渉の余地があったって事ね」
「……まぁ初芝肉店の倅さんは充分に『覚悟』を決めていたようですけどね」
さらりと投下される、爆弾発言。
彼に殺意は充分ありました。
加えて彼が持っていたのはロングレンジでも攻撃可能な拳銃と云う凶器でした。
って事は、って事はつまり。
「紙一重、ですよ」
「だ、だってさっき『九割九分は勝ち』だって言ってたじゃない」
「ええ。 ですから、残りの一分に引っ掛かってたんです。 そこからどう転ぶか、こればっかりは運ですから」
夜の八時におつとめ品が残っているかどうか判らない。
こればっかりは運ですから。
まったくもって日常のヒトコマと変わらない抑揚で生死の境を運扱いされた美坂さんは、改めて自分が死地に身を置いていた事を実感した。
そうだ、そう言えばあの時は凄くおっかなかったんだった。
おっかなくて、言葉もろくに出なくて、足が震えて。
だけど、背中が暖かかったんだった。
思い出す、視界を遮ったその意外なほどに広い背中。
もう遠い記憶の中にあるお父さんの背中より、何故か彼の温度は安心できた。
身体を張って守ってくれた。
北川君。
ありが―――
「見て見てー、じゃーん! イチゴムースどーん!」
「なに盗んできてるのよっ!」
尊敬とか感謝とかの感情が一瞬にして吹き飛んだ。
萌芽しかけた慕情なんて跡形も無く消え去った。
それどころか後に浮かび上がってきたのは鈍い諦観と、それから何に対するかも定かではない後悔の感情だった。
「ちょ、それって窃盗じゃないのっ! 返してきなさいっ」
「違う違う! これは水瀬の分だって。 流した涙の分も含めて、な。 ドライバーのおっさんもこれぐらいは許してくれるさ」
そんな理由で納得でき――なくもない。
犯人が自首した事を告げたって名雪はそれほど喜ばないだろうなんて事は、美坂さんだって薄々予想はしていた。
何より結果的には配送ドライバーの窮地を救った事になるのだし、それを考えればたかだか数個のイチゴムースぐらい――
「なんだ、お前も持ってきてたのかよ」
「……『お前も』って相沢君まさか」
「イチゴムースどーん! いえーい!」
「なんで誇らしげなのよっ!」
二人合わせて、10個ぐらい。
何時の間に詰め込んだのかなんてバカらしくて考えたくもないくらい、二人の制服の中にはイチゴムースが溢れかえっていた。
「さすがだな相棒」「まかせとけよ相棒」とか言いながら腕を組んでいる様なんて、見たくもないし聞きたくもない。
しかもその二人の笑顔が妙に清々しかったりするものだから、もう美坂さんの我慢も限界だった。
しかしさすがにこのバカ二人を相手に孤軍奮闘では心許無い。
何より自分の血管が非常に心配だ。
結果として援軍要請も止むなしと思った香里の前には、まぁ当然の如く美汐がいたりした。
自分の知る限り最も常識的な、相沢君に対しての最後の砦。
彼女の協力さえ仰げれば相沢君も北川君も素直に言う事を聞くだろう、聞いてくれるだろう。
何しろ彼女は今回の事件の解決に最も活躍した言わばMVPとも言うべき―――
ぼとぼとぼとぼと
「………」
イチゴムース。
美汐の足下に、小さな山を形成するぐらい大量に。
ちょっと待って、それどこに隠してたの?
「流石は天野だな、桁が一つ違うぜ」
「さ、早く帰りましょうか。 水瀬先輩、きっと教室で待ってますよ」
「よーし、イチゴムースパーティーだー!」
何事も無かったかのようにスーパーの袋を取り出し、イチゴムースをそれに詰め込む。
『全て予定通り』とでも言わんばかりの三人の行動は、美坂さんにある一つの疑念を抱かせた。
ひょっとして。
ひょっとしてあなた達。
そんな訳ないって信じてるけど、ありえないって判ってはいるけど。
「まさか……ただイチゴムースをお腹いっぱい食べる為だけに動いたんじゃないでしょうね」
ぼそっと呟く。
口に出してしまえばそれは、如実に真実味を帯びてきてしまった。
だがしかし、そんな香里の心情を知ってか知らずか。
そもそも呟きが聞こえていたのかどうかも判らないような底無しの笑顔を見せて、振りかえりざまに祐一は、ただ一言だけこう言った。
「なぁ香里、パーティーやろうぜ」
だから香里も、全てがどうでもよくなった。
了
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後書く
イチゴムース欠損事件の完全版。
一応は『B』シリーズの世界。
アニキが犯行に及んだ動機は、実家である初芝肉店の経営不振がどうとかこうとからしい。
参考文献
『南部に学ぶ近代日本の銃器』
『人間と犯罪』
『繊維のチカラ』
『クヌギ食品社史』