「ねぇ祐一」
「んー? どしたー?」
「真琴の肉まん知らなーい?」
「”真琴の肉”まん? いきなり何グロい事を」
「言ってない」
「ダンボール」
「入ってない」
「……あー、原材料の産地とか使用されている調味料の詳細な内訳とかだったら、その答えは『知らない』になるけ…ど…」
「………」
「………」

でんでろりん♪
無言で俺を睥睨する真琴の瞳に、俺は死亡フラグの立った音を確かに聞いた気がした。
やべ、馬鹿なこと言うんじゃなかった。

「ああそう。 なら、言い方を変えるわ」
「あの、いや、その……」
「労働の対価として得た賃金を支払う事により、資本主義経済に則った形で正式に真琴の所有物となった、まさに血と汗と涙の結晶の肉まん。
 それを横から掠め取るような真似をした品性下劣で思慮分別のない、悪鬼羅刹のような史上最低レベルのファッキン犯罪者の行方を、祐一は、知らない?」
「あ、あう、あうあう……」

およそ『好意的な感情』と云う物が既に電子顕微鏡レベルですら発見できない、液体窒素も驚きの極低温ヴォイス。
怒りを通り越して呆れを飛び越えてまた怒りに戻ってくるとこんな感じになるのかと、俺はまた一つ世界の真理について詳しくなったのだった。
無論、ちっとも嬉しくないのだが。

「でも真琴も悪魔じゃないし? 正直に自分の罪を告白して悔い改める事ができる人だった場合、情状酌量の余地を見止めてあげる事もやぶさかではないんだけどなー」
「……あ、あのー」
「よく言うじゃない? 『海よりも広い心』って。 最近の真琴はあの言葉に感銘を受けてて、多少の事ならそれこそ潮流の如き勢いで水に流してあげようと思ってるんだけどなー」

なんかうまい事を言いながら、チラチラと俺の顔を見やる真琴。
どうやら俺の事を完全に犯人だと確信した上で、それでもなお自白させようと云う魂胆らしかった。

ちなみに。
素直に正直に自分の罪を告白しておくと、真琴の肉まんを喰ったのは確かに俺である。
理由はもちろん単純明快、「とてもお腹がすいていたから」。
真琴を困らせてやるためだけに盗み食いをするだなんて、幾ら何でも俺はそこまで鬼畜ではない。
しかし件(くだん)の肉まんを手にした時の俺は、「これはひょっとして真琴の肉まんなんじゃないか」と、薄々ではあるが気が付いていたのだった。
言うなれば、誤用ではありながらも今では立派な市民権を得ている意味での、別に『自分が正しい』と確信している方じゃない意味での『確信犯』。
罪を罪と知りながらも罪を犯した身勝手極まりない犯人には、俺の脳内法廷では既に有罪判決が下っている。
情状酌量の余地なんて、肉まんの包み紙をくしゃくしゃに丸めた分ぐらいすら存在していなかった。

だが、真琴法廷に照らし合わせてみればどうか。
『海よりも広い心』とやらで、ひょっとしたら許してもらえるのではないか。
完全無罪とはいかないまでも、執行猶予ぐらいはつくんじゃないだろうか。
一縷の望みをやたらと腰の低い言葉に託し、俺は真琴裁判長にお伺いの言葉を立ててみた。

「あ、あのー、真琴さん?」
「ん? どしたの祐一」
「ちなみに真琴さんの言う”海よりも広い心”ってのは、具体的にはどの辺りの海を想定してるんですか?」
「千代大海」

言い切られた。
言葉と瞳に躊躇いの気配なんか欠片も存在してなかったし、ギャグとして言っている素振りだって微塵も感じられなかった。
間違いない。
コイツは本気で言っている。
せめて「瀬戸内海」とでも言ってもらえれば「狭くないですか!?」ぐらいの突っ込みもできただろうに、よりにもよって「千代大海」。
『相沢祐一、享年17。 死因、突っ張り』
そんな感じのモノローグが上空に出現し、どえらい腰の回転を加えたシャドー張り手をしている真琴の姿が、その文言に悲壮なまでの真実味を与える。
『突っ張る事が男のたった一つの勲章だ』って昔の偉い人が言っていたはずだが、さすがの偉い人でも突っ張られて死ぬ事までは想定していないはずだった。
いやそれにしても、随分と腰のキレが良いですなぁ、相撲取りとは似ても似つかぬ華奢なボディーの真琴さんや。

「トイレには行った?」
「……へ?」
「歯は磨いた?」
「いや、あの、ま、まこ――?」
「部屋の隅で膝を抱えてガタガタ震えながら、信じてもいない神様に向かってお祈りをする準備はできたかって聞いてるのよ!!」

すわ、これがあの可愛らしい真琴の見せる表情であるか。
夜叉とも般若とも形容できぬ怒りの形相でこちらに歩を進める真琴の姿は、比喩表現抜きで普段とは別人のようなオーラを発していた。
吐く息の擬音は「フシュー!」、もしくは「ゴハアァァ!」が妥当だろうか。
ひょっとしてコレが噂の狐憑きかと思ってはみたものの、真琴はそもそも妖狐の一族である以上、憑かれるよりかはむしろ憑く方が専門分野はなずであって。
とは言え「憑くのは良いけど憑かれちゃイカン」なんて戒律が妖弧世界に存在しているかと問われれば、「知りませんゴメンナサイ」としか言えないのが現状な訳であって。
恐怖で混乱した思考が逃げ道を求め、ようやっとの事で「コレはきっと怒りの余りの先祖返りに違いない」と云う結論に達した頃。
荒ぶる同居人にリビングの片隅へと追いやられた俺は、真琴のソレとはまた別の意味で先祖の下へと返らされようとしていた。
無論、暴力的な意味で。

「安心してね、祐一。 月命日にはちゃんとお参りしてあげるから」

ズシャァッ!

「祐一の、だぁ――――――――――――い好きな肉まんも、お供えしてあげるからね」

ズシャァッ!!

およそ女の娘の歩く音とは思えない擬音が、俺の脳内にて自動再生される。
それは恐らく生命レベルでの危険を察知した本能が勝手に脳内補完した、一種の幻聴だったのだろう。
「危ない者が迫っている!」
「デンジャー! デンジャー!」
そんな感じで宿主に即時撤退を求める、無意識からのEC(エマージェンシー コール)。
危険察知に優れた人間のみが有している、問答無用の第六感(シックスセンス)。
しかし目の前の少女の危険度がステージX【クリティカル】に至ってるだなんて事は、わざわざSEを脳内合成されるまでもなく重々分かり切っている訳で。
むしろ今現在の宿主様は、その勝手に鳴り響いているおどろおどろしいSEのせいで腰が抜けかけている訳で。
普段から無意味な事ばかりに心血を注いで生きている宿主の俺が言うのもなんだが、お前ら少しは自重しろと。
場を弁えろと。
そんな事をしても、天国のあいつは喜ばないと。
薄暗い部屋の片隅でガタガタ震えながら、居もしない『天国のあいつ』に縋りつく。
常であれば窮地に陥るほど冷静になっていく俺の思考が、今はちっともクールになってくれない。
主人格が望んでいないにも拘らず圧倒的なクオリティで恐怖感を演出する俺の無意識は、実の所その主人格をこそ排除すべき対象として考えているのかもしれなかった。
ちなみに今現在のBGMは、かの有名な映画『STAR WARS』より、ダース・ヴェイダーのテーマとも言われている『帝国のマーチ』。
でーでーでー でっででー でっででー。
助けてスカイウォーカー。

「最後に言い残す事、何かある?」
「あ……ちょ、ちょっとまっ…」
「そ。 『ちょ、ちょっとまっ』が遺言なのね。 わかった」

ダンッ!と踏み締められるフローリング。
ギチッ!と握り締められる拳。
自分より一回りも小さい女の娘と相対しているとは思えないほどに、俺の嗅覚はリビングに色濃く薫る”死”のにおいを感じ取っていた。
何時の間にか金色に光り輝き、縦に切り裂かれた瞳孔。
指先、足首、膝、股関節の全てに充分な可動域を与え、且つそれら全てを連動させた神速での踏み込みを可能にするべく開発された、真琴独自の地に伏すかのような低い構え。
それは、まるっきり獲物を前にして血に飢えた獣のソレであり。
普段であれば可愛いとすら思えていた八重歯までもが、肉を切り裂く鋭利な牙にしか見えなくなり。
俺は。
ついに――

「祐一! 覚悟ぉ!!」
「よ、よ、横浜行こうぜ! 真琴!!」

禁断の、最終兵器を繰り出す事にした。

「……はぁ?」
「横浜! 中華街で本場の肉まん食い放題! 交通費も宿泊費も俺持ち! 全部ロハ!」
「……本場の肉まん?」
「こ、コンビニで売ってるヤツなんか目じゃないぜ! 味も値段も段違いだぜ!」
「……交通費も宿泊費も全部祐一持ち?」
「あったり前だろ! 新幹線だろうが飛行機だろうが掛かってこいよ! 土日をフルに使って喰い倒れようぜ!」

対沢渡真琴限定最終兵器、「横浜中華街肉まん喰い倒れプランの提示」。
肉まんで怒らせた真琴を鎮めるためには、これ以上の効力を持つ作戦など存在しないと言っても過言ではないぐらいの必殺技だった。
昔の人はいい事言った。
目には目を。
肉まんには肉まんを。
怒りの量に比例して肉まんの質をグレードアップさせる必要があったとは言え、背に腹が代えられないのと同じく、命と肉まんも代えようのない物なのである。

ちなみに、この沢渡真琴用最終兵器。
たった一度の発動で、なんと実に十人編隊の諭吉中隊を軽く消滅させてしまうと言う驚くべきハイコストな戦略兵器なのである。
己の血肉を犠牲にすると言う意味では、ある意味カミカゼ。
故に、最終兵器とされている。
二度目の発動が為される事は恐らくないのだろうと、俺は自分の口座の残高を思い出し、目尻にうっすらと涙を浮かべた。

一方、涙を浮かべる俺の苦悩をよそに、握り締めた拳を掌に戻して「うーん…」と悩み始める真琴。
一発で快諾されるものとばかり思っていたが、どうやら真琴さんのお怒りは、横浜中華街ですら即時殲滅できないほど根深いものであるらしかった。
執念深い、とは思わない。
100円の肉まんに対してそこまでの情愛を注げるのもある意味では真琴らしいと、むしろ笑みすら浮かべそうになる。
しかしその真琴らしさが現状では最も厄介なのだと思い直し、綻びかけた口元を真一文字に結び直した瞬間。
てっきり怒りの深さから俺の提案を受諾しあぐねているとばかり思っていた真琴が、全くの予備動作なしに俺の瞳を覗き込んできた。
『間合に入られた!』と場違いな緊張で身を固くしたのも束の間。
一歩間違ったら口付けをしてしまいそうなぐらいの近距離で真琴が見せたのは、俺の最終兵器が霞んでしまうくらいの、超絶な破壊力を持った小悪魔的笑顔であった。

「ね、それってデートのお誘い?」
「んなっ!?」

俺の予想の範疇を、距離で言えばおよそ七億パーセクぐらい飛び越えた質問。
超然とした顔を保とうとしながらも、微かに赤らむ頬とどうしようもなく緩んでしまっている口元で嬉しさが隠しきれていない、アンバランスで反則的な可愛さ。
ついさっきまで生殺与奪の権利を一手に掌握していた相手が見せるでれっでれの表情に、俺は当然、激しい勢いで混乱した。

「やだなーもう、真琴とデートしたいならデートしたいって素直に言えばいいじゃない。 わっざわざ肉まん勝手に食べるような伏線まで張っちゃってさー、もー可愛いわねー」
「ち、ちがっ! で、で、デデデ――」
「大王?」
「それもちがっ! べ、別に俺はデートなんかしようって思――」
「デート…”なんか”……?」

でんでろりん♪
死亡フラグの立った音がした。
デンジャー! デンジャー!
防衛本能鈍いよ! 何やってんの!

「で、デートしようぜ真琴! 中華料理の火力なんか勝負にならないくらい、アツアツラブラブでいこうぜ!」
「いやーん、祐一ってばおっとこらしーい」
「……へー。 祐一、真琴ちゃんとデートするんだ」
「な、名雪っ!? お前いつからそこにっ!?」
「しかも泊りがけよ、と・ま・り・が・け。 意味、判るでしょ?」
「真琴さんッ!?」

でんでろでろでろりん♪
死亡フラグが乱立している音がした。
人間の知恵はそんな物(死亡フラグ)だって乗り越えていける!
ならば、今すぐ俺に叡智を授けてみせろ!
この場を逃げてからそうさせてもらう!
アンタちょっとセコイよ!
知ってるよチクショウ!

「ねーえー、知ってるぅ? 中華料理って精力付くんだってよぉ? そんなん食べた後に二人っきりの夜を過ごしちゃうんだよぉー。 たーいへんだよぉー、ゆういちぃー」

がしっ。
逃げようとした気配を悟られたのか、俺の腕をがっちりホールドして自分に引き寄せる真琴。
今までに一度も聞いた事がないような甘ったるい声を出しながらのソレは、こんな状況じゃなければ声高らかに「イーヤッホィ!」と叫び出したいぐらいのものだった。
だが、今は違う。
今だけはカンベンしてくれ。
妙に語尾をとろけさせるな。
身体をくねらせるな。
耳に熱い吐息を吹きかけながら、不必要なまでに胸を押し当ててくるな。

「真琴」
「なに?」
「胸」
「あててんのよ」

しれっとした顔で、事も無げに言う真琴。
最早、何を言っても無駄だと悟った瞬間だった。

「ねー祐一、知ってる? 中国ではね、四足の物は机と椅子以外みーんな食べるんだって」

うん、知ってるよ。
だから、お願いだから、その目だけが笑ってない能面のような表情をやめてくれ。
背後に見える禍々しいオーラと不釣合いな、やたらと優しげな声もやめてくれ。
あと、既に原型を留めてないけろぴーが可哀想だから、そろそろアイアンクローから解放してやれ。

「何が言いたいのよ」
「別に? ただ、中華料理では狐さんも上質な素材なんだろうなーって、思っただけ」

嗚呼……
俺の記憶では目の前の可愛い従妹はその昔、拾われてきた仔狐を熱心に介抱してあげるほどの動物好きだったはずなのに。
俺なんかよりもずっとずっと、四足の動物さんを愛護する精神に満ち溢れていた女の娘だったはずなのに。
流石にそれは言いすぎなんじゃないかと思い、しかしそれを咎めるよりも先に真琴の方が心配になって、「そんな事あるはずないよな」とフォローを入れようとして顔を覗き込んで。
凍り付いた。
固まった。
真琴のやつ、笑ってやがる。
名雪の見せた笑みの何十倍もどす黒い、って言うかもう純黒と呼んだ方がいいぐらいの壮絶な嘲笑を、その愛らしい均整の取れた顔に貼り付けて――

「ああ、そうね。 四足なら何でも食べるって聞いた事あるわ」
「……そ、そうだよ。 狐さんも犬さんもお猿さんも――」
「当然、猫もね」
「ひぅっ!」
「カエルもよ」
「ひぃうぅぅっ!」
「カエルの肉なんかまるで鶏肉みたいだって言うわよ? あー、そう言えば昨日の夕御飯は鶏の唐揚げだったわよね」
「わ、わー! わー! わー!」
「アレが本当に鶏だったって自信を持って言える? ひょっとしたらカエルだったんじゃない? カエルの肉を喜んで噛み締めてあんたは「美味しい」って言って――」
「ふ、ふかーっ! ふっかー!!」
「きしゃーっ! しゃー!!」
「みーぃぃ…」

名雪、全泣き。
真琴、余裕の威嚇。
野生の狐と家飼いの猫が喧嘩をし始めた時点で勝負は見えていたのだが、結果はやはり見ていて可哀想になるくらいの、家飼いの猫の惨敗であった。
前にも何回かこーゆー事があって、その度にいっつも同じ事を思うのだが。
今回も寸分違わず同じ事を思ったので、ここはあえて心の中だけでも言わせてもらうとしよう。
なあ、名雪よ。
お前は他人との言い争いとか負の感情のぶつけ合いとかが苦手なんだから、いい加減にやめとこうな。
この話題を出し始めた時だって、自分で言っておきながら何となく罪悪感が募ってきて語勢が弱くなっていったくせに。
結局最後に泣いてるの、毎回毎回お前じゃないか。

「勝った」
「……誇らしげに報告しなくてもいいから」

んふー!と鼻を鳴らす真琴の背後、部屋の隅で丸っこくなりながらすんすんと泣く名雪が見える。
自業自得と言えなくもないのだが、そもそもの事の発端が俺の盗み食いであるだけに、このまま放置するのも何やら心が痛んだ。

「なあ、真琴」
「んー?」
「今から俺はお前にとって不愉快な行動を取るかもしれないんだが、どうするよ」
「見たくないから部屋に行って漫画読んでる」

そう言ったっきり本当に、ただの一度も振り向かずにリビングを後にする真琴。
その後姿の潔さに、思わず本気で惚れそうになってしまっている俺がいた。
すたすたと部屋から出て行く際に見えた、キレの良い身体の動き。
一瞬遅れて付いていく、ふわふわのツインテール。
室内灯に透けて金色に輝いていたそれが、何故だか妙に心から離れなかった。
女らしい仕草に惚れるならまだしも、男らしい言動に心を動かされるとは、と軽く自嘲する。
色んな意味で、もっとしっかりしようぜ、相沢祐一。

「ほら、名雪。 もう大丈夫だぞ」
「ゆ、ゆういひー……わ、わたひ、わたしカエルを…うぅー…」
「アホ」
「うぎゅぅっ?」
「昨日の夕飯の材料を買いに行ったのはお前だろうが。 自分が何の肉を買ったのかも忘れたのか?」
「ぁ……あぅ…そぅ言えば…」
「な? しっかりしろよ、水瀬秋子の一人娘」
「…ん……ごめん……それと、ありがと…」

俯いて、けろぴーをぎゅっと抱きしめる名雪。
『いつも通り』に見えたその行動は、しかしどこかで確実に『普段』とは違っていた。
心当たりは、勿論ある。
だがその心当たりは、俺の主観から言わせてもらえば激しく誤解な訳で。
少なくとも今の時点ではまだ、立派に誤解の範疇な訳で。
それが原因で名雪に今のような態度を取らせてしまうのならと、俺は小さな従妹の頭をぽむぽむと優しく叩いてやり。
三度目辺りに頭に置いた手を、そのままゆっくりと後頭部にスライドさせ。
それから、やや強引に自分の胸の内に抱き寄せた。

「わぷっ! ゆ、ゆういひっ?」
「なに遠慮してんだよ」
「……だ、だって…」
「例えお前の考えてる事が真実だったとしても。 それは、相沢祐一が水瀬名雪の泣き場所になってやれないと云う理由にはならない」
「……真実なの?」
「誤解だ。 少なくとも精力云々ってのが関与してくるような関係は、俺と真琴の間には存在しない」
「なら……いい。 もう少し祐一の胸の中でぼんやりする…」
「ご自由に」

その言葉と同時に、強張っていた名雪の身体からす―と力が抜ける。
それは名雪が俺に抱いている信頼をそのまま重みに置き換えたかのような、何とも心地の良い負荷加重だった。
手持ち無沙汰な両腕を遊ばせておく事にも飽き、片方の腕を名雪の腰にそっと回す。
もう片方の手で髪をゆっくり梳(す)いている内に、泣き疲れた名雪がすやすやと寝息を立て始めた。
やれやれまったく色気の無い事だと溜息を吐き、これから少なくとも二時間以上はこの体勢のままなのだろうと覚悟を決める。
抱いているのがゴツくて固い野郎じゃないってのが唯一の救いだったが、かと言って華奢で柔らかい女の娘だと云う事を無条件に喜べるかと云うと、即答できない自分が悲しかった。
いくら普段は「そーゆー」対象として見ていない名雪とは言え、こうまで無防備に密着されれば話は別である。
どれだけ雰囲気的な色気が無かろうと、プロポーション的にはむしろ男として文句が無いくらいのだ。
無論、全幅の信頼を置かれているからこそ、こうして無防備な寝顔を晒されているのだと云う自覚はある。
そしてその分だけ、理性さんには通常の三倍ぐらいの強靭な意思支配力が宿されてもいる。
しかし幾ら通常の三倍の能力とは言え、所詮元の数値が『俺の理性』なんて脆弱な物でしかないのである。
昔の人は良いこと言いました。
「人生は掛け算だ」
「どんなにもチャンスが巡ってきても、僕がゼロなら意味がない」
だがしかし、今の場合はむしろ俺の意思の強さがゼロだからチャンスを活かせそうなのであって。
いやいやいや、別に「チャンス」だなんて思っている訳では無きにしも非ずと言わざるをえない雰囲気がそこはかとなくさもありなん。
ちょっとでも悪戯すれば簡単に外せそうなブラのホックとか、その気になれば幾らでも触れそうな可愛いお尻とか。
華奢な真琴とは違ってどこもかしこもふにふにの名雪を抱いている健康な男の身としては、五倍以上のエネルギーゲインが俺のミノフスキードライブをマルチロックオンな訳で。
む、昔の人は言いました!
「スウェーデン喰わぬは男の恥」、と!
ダメです!
下半身、制御不能です!
まさか…暴そ――

「勃起してたら…殺すわよ」
「っ!!!」

突然の声に振り返ったら、真琴がいた。
真琴と認識できた自分を褒めてやりたいほど冷徹な眼差しを携えた真琴が、そこにはいた。
って云うかちょっと待て、何だその手に持った物騒極まりない刃物は。

「これ? 通販で買った高級高枝切り鋏。 名前は「ヴァルヴァ=ロッサ」、性別は女。 直径50mmの枝だってザクッと切れちゃう、すんごい代物」

ジャギィン――!
直系50mmの『ナニか』に見立てられた何かが、真琴命名「ヴァルヴァ=ロッサ」によって空中で根元から切り落とされる。
実際には其処には何もないはずなのに、精神的な部分で物凄い激痛を味わっている自分が、何やら物凄く情けなかった。
俗に言う、ファントム・ペインの一種。
なるほど、お前はそれを取りに自分の部屋に行ってただけなのな。
一瞬とは言え潔い後姿に惚れそうになった事を脳内で訂正し、俺は呆れ半分の眼差しで真琴とヴァルヴァ=ロッサを見やった。

「安易に伐採しようとするな。 切ったら二度と生えてこないんだぞ。 無論、桜の木とかの話だが」
「他人の家の庭にまで侵入するようだったら、切らざるをえないでしょ? 当然、庭木とかの話だけど」
「隣人共々楽しめるように許可を貰って、大きく成長する様を見てみたいとは思わないのか。 勿論、桜の木とかの話だが」
「小さくても、汚れてても良い。 平凡だって、歪んでたって良い。 真琴は、真琴だけの物が欲しいの。 言っておくけど、アンタの事よ」
「……まいったなそりゃ」

直球ど真ん中160km、ノーラン・ライアンレベルのハイパーストレートな告白に、柄にもなく頬が熱くなるのを感じる。
しかしその次の瞬間にはヴァルヴァ=ロッサの鋭利な刃先が目に入り、舞い上がりかけた心に鋼のような冷静さが戻ってくる。
嬉しくないと言えばそれは嘘になるが、手放しで喜ぶ事はできない。
冷静と情熱の間でまごついているそれはまさに、今の俺が置かれている心境そのものであった。

「嫌ってくれとは言えないし、好きだと言ってくれるのは、嘘じゃなく…嬉しい」
「でも、誰かの所有物になるのはイヤ。 でしょ?」
「……よく分かってるじゃないか」
「大好きな人の事だもの。 この程度、分かって当然よ」

分かって当然。
つまり真琴は、俺が『独占される事を拒否する』と云う所まで承知していたと云う事だ。
なら、何で。
断られると分かっていて、どうしてお前はわざわざそれを口に出すような真似を――

「牽制球よ」

牽制球、らしい。
確かに真正面からの告白は、その多大なインパクトでもって他の人間に幾許かの戸惑いを生じさせる。
戸惑いは心身から柔軟性を奪い、とっさの判断を鈍らせる。
そう言った意味では真琴の言葉は、一応の納得をせざるを得ない答えではあった。
だが、だがしかしだ。
牽制球を投げると云う事は即ち、そこには出塁しているべき相手が必要なはずではないかと俺は思った。
まさか走者のいないベースに向かって牽制球を投げるほど、真琴も馬鹿ではないはず。
そして今現在の身辺状況を考えた場合、少なくとも俺の把握している範疇では、「塁に出ている人間」なんてのは誰一人として思い浮かばなかった。
無論、心身共にである。
「俺の心を分かって当然」、と真琴は言う。
だのに、誰も居ないベースに向けて牽制球を投げたとも言う。
そこんトコどうなんすか、真琴さん。

「ベンチに向かって投げたのよ」
「そりゃ反則だ!」
「全力で」
「怪我人出るわ!!」
「金属バットを」
「せめてボールでお願いするデスよっ!?」

思わず敬語になってしまった俺を見て、ハイパーバイオレンスな同居人がくすくすと笑う。
笑われた事にも突っ込む事にも疲れ果てた俺が、ぜーはーぜーはーと肩で息をする。
その膝元では牽制バットを投げつけられた名雪さんが、「せめて今だけは我関せず」と云う感じで安らかな寝息を立てていた。
お前も大変だな、色々と。

「ったく、気持ち良さそうな寝顔しちゃってさ」
「そりゃ俺様の胸の中だからな。 名雪のみならず世界中の女が一度は抱かれてみたいと思っているだろう、まさに西方浄土の如き溢れいずる愛の泉のガンダー――」

シャギィィン!

「――うん、冗談だからとりあえずその高枝切り鋏は部屋に置いてこような、真琴」
「火サス」
「シャキシャキ鳴らすな。 お、俺の首筋に宛がうな。 っだー! 名雪の首筋はもっとやめい!」
「ぱーぱーぱー♪」
「テーマソングも自重する!」

「ちぇー」とか言いながら、それでも一応は刃先を収めてくれる真琴。
状況が状況だけに本気か冗談かを見抜けないのが、俺としては非常に恐ろしかった。

「しょーがない。 行こうか、ロッサ」
「Ja!」
「……腹話術の相手が高枝切り鋏な女の娘ってのも、世界中探したってお前一人ぐらいなもんだろうよ」
「希少価値アリアリでしょ。 独占欲、そそられない?」
「国際指定保護動物には、お手を触れませんように」

両手を上げ、捕獲の意思が無い事を示す。
目の前の野生動物が、可愛らしい牙を剥き出しにした。

「ならいいわ。 真琴が逆に捕獲してあげる」
「ここは禁猟区ですぜ、マドモアゼル」
「人を野生のケモノ扱いしといて人間の都合を宛がおうなんて、今更それはないでしょう?」
「ただのケモノ扱いじゃないさ。 ちゃんと珍重すべき相手として敬いの気持ちを――」
「ケモノ扱いは否定しないのね……上等じゃないの…」

俺の不遜な発言に対し、こめかみに怒りマークを貼り付けるのかと思いきや、何やら余裕の表情を見せる国際指定保護動物。
もとい、沢渡真琴。
その余裕の発端が手にした武器ではない事を切に願う俺だったが、残念ながらこの世界は基本的に俺に対して優しくできてはいないようだった。

沢渡真琴専用両手武器。
超軽量グラスファイバーハンドルと超硬化タングステンブレードの、夢のコラボレーション。
圧倒的な空間制圧能力を誇る、伸縮自在の攻撃間合。
梃子(てこ)の原理は伊達じゃない。
断獄の帝王【ヴァルヴァ=ロッサ】、降臨。

「そんなにお望みなら、このロッサの切れ味を見せてあげるわ」

投げ出した両足の間にスリーピング・ビューティーこと名雪を抱き、身じろぎ一つにすら気を使わなくてはいけない今の俺の位置は、間違いなく『下』。
片や、ミニスカートからすらりと伸びた健脚を見せ付けるかのように仁王立ちし、更にその手には鋭利な刃物すら持っている真琴。
行動の自由度とか視線のY軸とか保有戦力の多寡の諸々を総合してもしなくても、その立ち位置は圧倒的な『上』。
これ以上ないくらい明確な上下関係を叩きつけられた俺は、その見下すような目線に対しても、最早「うぐぅ」と呟くくらいしかやる事が残されていなかった。
だから、とりあえず呟いておいた。
うぐぅ。
当然、何も変わらなかった。

「言葉によるコミュニケーションって人類最大の発明だと思わないか、真琴」
「人語を解するようになったケモノは妖怪だって、偉大なる民俗学者である柳田國男が言ってた――って話を、美汐から聞いた事がある」
「喋ってるじゃねーかよ……今現在」
「あら、化かされてるんじゃないの? どこぞの性悪女狐に」

自分の口からそれを言いますか。
依然として余裕の感情しか見えない眼差しに晒されながら、俺の嫌な予感は更に加速しつつあった。
武器の有無でもなく。
目線の高低でもなく。
身体の自由度の差異と云う部分でもなく、ましてや言葉遊びの上手下手でもないもっと別次元の重要なる部分において。
ひょっとしたら今の自分は、目の前の少女に完膚なきまでの敗北を叩き付けられようとしているのではないか。
そんな嫌な予感がV.S.B.Rの如くに加速収束を繰り返し、炉心融解点の臨界突破を迎えようとしたまさにその時。

「沢渡真琴とロッサ、いきまーす」
「ちょ、まこ、まっ―――」
「待ちませーん」

ジャキーン!
ジャキジャキジャキジャキ!
はらり
す――とん

「おー、さすが。 枝切り鋏って名前のくせに、裁ち鋏としても優秀なのね、ロッサってば」
「Natürlich(無論)」

居間に響き渡る、真琴の声。
ヘタクソな腹話術による、ロッサの声。
それから――自らの手にしている鋏によって裁断されていく、真琴が身に纏っていたハイネックのトレーナー。
裾から刃を入れられた乳白色のトレーナーは、瞬く間に『身を包む服』から『ただの布』へとその姿を変えていった。
第一刃で切り裂かれた部分は、とりあえずへそが見える所まで。
水着や下着に比べれば別段驚くような露出度ではないものの、俺の眼前で展開されているのは『普段着の裾が切り裂かれてへそが見えている』と云う状況である。
混乱するなと云う方が、無理な注文だった。

「な、な、な、何してんだお前!」
「ストリップ」
「――っ!!」

まるで事も無げに言い放つ真琴と、無軌道に踊るロッサの刃。
その道筋から時折ちらちらと覗く、まったく日に焼けていない透明な素肌。
いけないと思いつつ視線を釘付けにさせられてしまうほど、その光景は背徳的な劣情に満ち溢れていた。

少女。
刃。
寸断された服。
既に半分以上が露出されている、衆目には晒される事のない柔肌。
腰のくびれ。
可愛いへそ。
常日頃は小馬鹿にしているばかりの慎しまやかな胸の隆起までもが、視線を逸らす事を許さない。

「ブラとスカート。 どっち先がいい?」
「し、し、知ら――」
「シ? ショーツ? スカートすっ飛ばしていきなりパンツに行くとか、やっぱあんた普通じゃないわね」
「ち、ちがああ!!!」
「ん、まぁ良いんだけどさぁ……さすがに此処は緊張するわね…」

そう言って、ミニスカートの裾からゆっくりと鋏を侵入させる真琴。
ただでさえ短い丈のスカートが更に捲れ上がるその様は、今まで見てきた中でもトップ3に入るぐらい反則的な光景だった。
普段見えている絶対防衛ラインを軽々と凌駕して露わになる、細くはあるが柔らかそうな太腿。
油断すると、その付け根までもが見えそうになる。
待て、落ち着け。
落ち着くんだ相沢祐一。
これは何かの罠に違いない。
って言うか罠以外の理由でこんな状況に陥る訳がないのだ。
平常心を保て。
既に手遅れな気がしないでもないが、冷静な思考力を取り戻すんだ、相沢祐一!

「ゃんっ、冷たっ。 …やっぱ此処は敏感なんだ。 びっくりしちゃった」
「………」

冷静な思考力を捨てるんだ相沢祐一!
「此処」が何処かだなんて事を考えるんじゃない!
想像するんじゃない!
反応するんじゃない!!

シャキ――ン
音が した

ふぁさっ
布が 落ちた

すっ――
細くしなやかな指がそれを拾って
眼前にてぴろーんと広げて

「沢渡真琴。 ただいまノーパンです」

―シンクログラフ反転!
―パルスが逆流しています!
―回路遮断! 塞き止めて!
―理性、反応ありません!
―信号拒絶! 受信しません!
―ダメです!
―完全に制御不能です!
―神経接続断裂!
―本能制御! 本能を制御しろ!
―命令を受け付けません!
―まさか……
―暴走!?

「グゥオオオオオオオオオオオオ!!」
「はいそこまで!!」
「が、がお?」
「祐一、さっき真琴のことケモノ扱いしたわよね」
「がお…」
「それなのに今、祐一は真琴のストリップに明らかに興奮してる」
「が…お…」
「まったく、ケモノ扱いした相手に欲情するなんて……」

見下した目。
見下した声。
そして。
ぼそっと、ただ一言。

「……けだもの」

かいしん の いちげき!
ゆういち は 9999の だめーじを うけた!

「ああ、それと」
「ま、まだ何か言う事があるのか…」
「その状況で海綿体に血流ぶち込んでると、あらぬ誤解を招くわよ」

その状況。
胸に名雪を抱いている状況。
あらぬ誤解。
言うまでもなし。

「は、は、ははははは……ま、まさか、一度寝に入った名雪がそう簡単に目を覚ます訳が」
「耳元で暴走の雄叫びをあげられる事は、ちょっとやそっとの範疇を越えてると思うわよ?」
「うにゅ…うるさい」
「――っ!?」
「んー、その体勢だと……丁度おへその辺りかしら」
「まこっ! おまっ、余計な事をっ!?」
「おへそのあたり……んにゅ…」

耳に入ってきた言葉に忠実に従い、自らの下腹部付近に調査の手を伸ばす名雪。
どうやらまだ意識の半分以上が寝ているようで、情報の取捨選択すらままならない状況らしかった。
探(さぐ)る。
弄(まさぐ)る。
ただでさえ真琴の悪辣非道な謀計知略によって「ハイサイ!」とでも言わんばかりに漲っていると云うのに(どこが、とまでは言わない)。
そこに更なる輪をかけるように、今度は名雪の手が俺の下半身を蹂躙する。
いや、本当は『蹂躙する』だなんて荒々しいものではないのだが、その拙くさえある微妙な力加減に、むしろ俺の中の全米がオールスタンディングオベーション。
やば、思考が混乱してきた。

「な、名雪! それ以上はやめ――」
「わ。 びっくりした。 ホントにおへその辺りに何か固い……も、の、が……」
「ち、ちがっ! 誤解だ! 誤解なんだ名雪!」
「ちなみにこの家は二階建てよ?」
「ああもう! 真琴うるさい!」
「なによぅ、そんなガッチガチのトーテムポール建立しちゃってる分際で!」
「馬鹿野郎! 俺の聳え立つエンパイアステートビルをあんな民族工芸と一緒にすんな! ……てか、名雪さん?」
「………」
「あ、あの、名雪さーん?」
「………」

不気味なほどに静かな従妹の存在が気になり、真琴との言い争いを一時中断して胸元を見やる。
するとそこには、俺の自前のバベルの塔を握ったまま、その可愛らしい顔から表情の一切を無くしている名雪がいたりした。
俺の知る限り、『彼氏イナイ暦=年齢』の名雪さん。
俺の知る限り、物心ついてからはずっと母ひとり娘ひとりと云う家庭で育ってきた名雪さん。
そりゃ学校には男子生徒も沢山いただろうけど、女友達との会話の中で『そっち系』の話が出てくる事もだっただろうけど。
実際に触れる機会だなんて、きっと今までに一度もなかったのだろう。
ましてそれが『これは伝説の超金属オリハルコン!』ぐらいの硬度を持っているだなんて、夢にも思わなかったのだろう。
沈黙開始から十数秒後。
未だ表情には何の色も乗せず、しかしその奥には確実なる狼狽を湛え。
大きく息を吸い込む。
吐き出さず、肺胞の一粒にまで限界ギリギリまで酸素を叩き込む。
こ、これは見た事があるぞ!
4〜5歳ぐらいの子供が急激な痛みとか驚きで茫然自失とした後に、やっぱり今みたいに能面みたいな無表情で大きく息を吸い込んで――


「き、ぃいいいいいいやああああああああああああああああ!!!!!」

名雪さん、大絶叫。
痛い、耳が痛い。
そんでもって真琴の視線も物凄くイタい。
え、何その「やっぱり勃起してたんだ、このケダモノ」みたいな冷笑。
お前だろ!?
お前が望んだ結果だろ、コレ!
どうせマイサンが反応してなかったらしてなかったで不機嫌になるんだろ!?
そんでもって今以上に蔑んだ目付きで「……不能」とか言うんだろ!? 絶対そうだろ!!
あーもう! 何だって俺がこんな目に!

がちゃりこ

「ど、どうしたの名雪っ? 何があ…っ、た、の……」

秋子さん、帰宅。
後、絶句。
はいそれではここでもう一度、現在の状況を俯瞰的に確認してみる事にしましょう。
水瀬名雪、絶叫中。
しかも半泣き。
沢渡真琴、半裸。
しかも普通の半裸じゃなく、衣服を鋏でズタズタにされた状況。
そして最後。
この場で唯一の男性にして、傍目には最も平静を保っている人物、相沢祐一。
半泣きで叫んでる名雪と密着中。
数式に表すと、以下のような感じになる。

√(半裸真琴+高枝切り鋏)/2πrパンツ乗+∫絶叫名雪×(涙目+男性と密着中)/相沢祐一

導き出される答えは、ただ一つ。
悲しいくらいに、ただ一つ。

「な、な、ナニをシてるんですか祐一さんっ?」
「またこんなオチなんですかっ!? ちょ、真琴! 冷静なお前から何か言ってやってくれ!」
「祐一がムリヤリ真琴の服をシザーマン宜しくな感じで切り刻んできたのー! あうぅー!」
「エルムガイッ!?」
「か、かたっ! 固いのが動いたのー! 何か亀みたいなのぉぉ! お、おか、おかーさぁぁあああん!!」
「ガラパゴスッ!?」

俺、気付いた。
この世界は基本的に、俺に優しく出来てない。
それからもう一つ、気付いた。
多分こいつらは心の奥底の潜在的な部分で、俺の事を嫌ってる。
……俺、嫌われてる。

.

「ち、ちっくしょーばっかやろー! 俺だってお前らの事なんか大っきらいだー! うわあぁぁぁん!」
「あ、逃げた。 しかも泣きダッシュ」

止めもせず冷静に解説する真琴の声が、祐一の泣きダッシュに拍車を掛ける。
ズバーン!と玄関のドアを開ける音が聞こえて、ガチャリコ!と外門を開ける音がして、タタタタタ…と足音が段々遠くなっていって。
そして、祐一はいなくなった。
後には惨憺たる状況のみが残された。
「半分以上が自業自得とは言え、それはとてもとても情けない去り際だった」
後日、親友である天野美汐に向けて、真琴はその日の祐一の後姿をそう語った。
後に彼の中で『暗黒の月曜日』と呼ばれるようになる、相沢祐一株がストップ安を迎えた日である。
と、それは兎も角。

「えーと……どう云う事か説明してくれる? 真琴」
「あー、うん。 アレが居なくなってから言うのもなんなんだけど」
「なんだけど?」
「祐一は、ちっとも悪くないの。 どっちかって言うと被害者。 そんでもって名雪は善意の第三者」
「……そうなの?」
「そうなの」

床に散乱している服『だったもの』を拾い集めながら、にっこり笑って祐一無罪を告げる真琴。
比類無き純粋さに満ち溢れたその微笑は、しかしながらその構成要素の半分以上が、『してやったり感』で埋め尽くされていた。
なんだ、それではちっとも『純粋な微笑み』ではないではないか。
などと云う風に、汝、早合点する事なかれ。
真琴の純粋な微笑とは即ち、『純粋なる愉悦』による微笑みなのである。
勝手に肉まんを食べられた仕返し、完了。
自分の裸身が祐一を欲情させるに充分な魅力を持っている云う事実、確認。
普段は尊大な態度を取っている祐一が哀れな仔犬のように泣きダッシュをする姿、狂おしいほど可愛らしい。
オマケに『横浜中華街喰い倒れツアー』の切符までをも手中に収めている真琴の身としては、内から込み上げて来る様々な喜色を表情に表すなと云う方が、むしろ不可能なのであった。

「ま、明日は学校もお休みだし。 どうせ行く場所だって北川の家って限られてるんだから、心配御無用よ」
「そ、そうかしら……でも私も穿った目で祐一さんの事を見てしまいましたし…やっぱり捜しに行って謝った方が…」
「いーのいーの。 どっちかって云うと話を蒸し返される方が祐一も辛いと思うし、あの場面ではあの反応以外にしようがなかったと思うし」

って言うかその反応が欲しかったんだし、ね。
最後の一言は心の中だけにしっかりと押し留め、真琴は未だぐずっている名雪の頭をぽむぽむと叩いた。

――こんな事して、まるで祐一みたいだ

意識せずして彼と同じ行動を取ってしまっている事を、軽く自嘲する。
しかし泣いている名雪を目の前にした場合、『こうする』事が最も効果的っぽい手段である事を、真琴もまた否定できなかった。

ずっと前からそうだった。
名雪が困ってたり泣いてたりした時は、祐一はいつもこうして頭をぽむぽむと叩いていた。
『もっと優しい慰め方があるんじゃないか』と思ったりはしていたものの、いざこうしてみると祐一のやり方が一番優しい気がしてくるから不思議なものである。
何気ない仕草の中に垣間見える、二人の間に流れていた緩やかな時の堆積。
自分が存在しなかった遥か幼い頃からずっと、ずっとずっと二人は『ふたり』であったと云う厳然たる事実。
どんなに『今』を完全掌握したとしても、どうしようもない物は必ず存在するのだと思い知らされる。
だから、余計に『今』が欲しくなる。
だから、手加減なんかしてらんない。
『普段祐一がどんな気持ちで名雪の頭を撫でていたか』と云う事が判ってしまった今、真琴の抱いたその思いは更なる強さを増すばかりであった。

ふーん。
祐一め…「泣いてるこいつも可愛いな」、とか思いながら撫でてたんだ。
「でもやっぱり笑ってる方が可愛いから泣きやんでほしいな」、とかも思ったりしちゃってたんだ。
そんでもってこの滑らかな髪の感触とか、微かに感じる体温とかも楽しみながら撫でてたんだ。
……あ、なんかイライラしてきたわコレ。

「そんな訳で祐一は、今後最低でも24時間この家出禁ですので」
「……どんな訳なのかしら?」
「乙女の心をイライラさせた罪、って事で」

この娘を立法や司法の立場に就かせたら、日本がとんでもない事になってしまうわね。
そうとは見えぬほどに美しい苦笑を湛えた秋子さんは、名雪を抱いたままそんな事を思った。
だがしかし、例え真琴がどれだけ不遜な態度を取りながら「自分が悪い」と言い張ろうとも、秋子さんはそれを信じなかった。
むしろその態度や言動が横暴であればあっただけ、秋子さんはそこに、真琴のぐるっぐるに捻くれまくった優しさを感じる事ができるのであった。
『祐一を責めていいのは真琴だけ』
『その他からの叱責とかは、全て自分の所で塞き止める』
そんな風な思いが透けて見えてしまえば、もうそこから先には踏み込めるはずがないのであった。
まったくもって不器用な子供たち。
だけどそれが、母としては堪らなく可愛らしい。
胸の内で泣いている実の娘を含め、今しばらくはこの三人が織り成す何事をも、心静かに受け入れてみよう。
いたずらに手や口を出す事よりも遥かに厳しい、あえて何もしない『静観』と云う選択肢を、母親である秋子さんは選んだ。
それがどんな結果に結びつくのかは判らないけど、自慢の子供たちが自らの手で作り上げていく未来なのだから、きっと大丈夫だろう。
砂粒ほどの憂慮を無限大の信頼で包み込み、いつも通りの絶対無敵スマイルを浮かべながら、秋子さんは真琴と名雪にこう告げた。

ちょうど良いから、とまでは言わないけれど。
別に普段は遠慮している、と云う訳でもないですけれど。

「女同士でしかできないお話し、今日は少しだけしてみましょうか」

サタデーナイトフィーバーの予感に、娘二人のテンションが少しだけあがった。





* * *





「……名雪が相沢君のこと嫌いな訳ないでしょ? あんまりふざけた事言ってると、元居た街に強制送還させるわよ」

回転式の椅子に腰掛けながら学習机に頬杖を付き、思いっきり呆れたような声と視線を叩きつける香里さん。
意気消沈して泣きついてきた友人に対するには少々厳しすぎる態度の様にも思われるが、それにはちゃんとした理由と云うものが存在していた。
自他共に認める水瀬名雪の一番の親友、美坂香里。
どちらかと言えば常に冷静で理知的なイメージのある彼女だが、それが親友の事に関してとなるとまるっきり別人のようになるのである。
フレイムディストーションもびっくりなぐらいの、はぐれ学年首位情熱派。
特に今回の件に関しては名雪の本当の気持ちを知っているだけに、祐一の吐いた「俺は嫌われている」と云う発言が、美坂さんには余計に気に喰わなかった。

だが、祐一だって譲れなかった。
現に態度と言葉で拒絶されて美坂家にいる以上、その主張だけは頑として譲る事ができなかった。

「だ、だって名雪の奴!」
「名雪の奴…何よ」
「………」
「……何よ」

言うべきか。
言わざるべきか。
否、ここに来た時点でその選択肢は通り過ぎているはずである。
だがしかし。
嗚呼、だがしかしだ。
何と言えばいい。
同学年でクラスメートで頭脳明晰で眉目秀麗なこの美坂香里に、俺はあの時の名雪の行動を何と表現して伝えれば良いのだ。
直で言って良いものか。
いやむしろ、アレをアレのままクラスメートの女の娘に説明すると云う状況に、俺の精神が耐えられるのだろうか。
無理だ。
多分、死ぬ。

カチコチと時を刻む、香里のイメージには全くと言っていい程そぐわない、やたらとファンシーなピンク色の目覚まし時計。
無機質なその音が、「早く言えよ」と急かしているように聞こえる。
削られていくのは残り時間か、それとも俺の精神か。
その答えが『両方』であると悟った瞬間、俺の中の『何か』が音を立てて瓦解した。
どんなオブラートに包もうが結局は真実が伝わるのだから、後はもう勢いに任せて突っ走ってしまおうと決心した。
振り向くな。
涙を見せるな。
さぁ迷わず行くんだ!

「な、な、名雪が俺のコルトパイソンを勝手に握っといて物凄い勢いで泣いたり叫んだり拒絶したり!」
「相沢君のコルトパイソン?」
「………」
「……俺の…勝手に…」
「………」
「…握る……俺のコルト…って! ちょ、はぇ? え、えぇぇーっ!?」

ずばーん!

「そ、それは聞き捨てなりません! 相沢さんの原子力空母キティホークと言えば私のインディペンデンスも同然ですのに!」

物凄い勢いで香里の部屋のドアを開けて、暴走妹の登場。
片手に握り締められているコップが、彼女のドアの向こうでの行動を雄弁に物語っていた。

「な、何で盗み聞きしてるのよ栞! って言うかなんでそこで空母の名前が出てくるのよ!」
「色々飛び立つからじゃないかしら? イーグルとかラプターとか……うふふ、ア・レ・と・か」
「お、おかーさん下品! って言うか何でお母さんまで居るのよ!」
「それは当然」
「ドアに張り付いて二人の会話を聞いてたからです!」

ぺちーん!
互いに互いを見遣らぬままに、それでもずれないハイタッチ。
無駄なリアクションが完璧にユニゾンしている、そんな美坂の仲良し母娘であった。

「威張らないのっ! って言うかもー出てってよ二人とも! 相沢君は私に相談があるって来たんだから!」
「あー! 独り占めしようとしてます! 独占禁止法違反です! 傷心の祐一さんの相談役と云う立場を利用して心の隙間にジャストフィットするつもりです!」
「ち、ちがっ! ただ私は純粋に二人っきりの方が相沢君も話しやすいと思って!」
「フタリッキリ!」
「フタリッキリ!」
「ふ、二人して顔を見合わせながら変な片言で繰り返さないでよ! …って、え、ちょっと、何よその含みのある視線! ち、違うって言ってるでしょ! ちーがーうー!」

顔を真っ赤にして叫ぶ香里さんの声をBGMに、美坂家の夜もまた、テンション高めに過ぎていこうとしていたそうな。








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後書く

恐らくは『H』とか『M』と同系列の世界での一幕。
この後は当然の如く美坂家に嵐が吹き荒れたとか、家に帰ったら帰ったで身に覚えのない『浮気した』の罪でまたもや嵐が吹き荒れるとか。
作中に出てくる様々な固有名詞に関しては、面倒なのでここで説明する事はしない。
多分もう私は、こーゆー真琴しか書けない身体になってしまったんだと思う。