ActressT 春日野 芹(かすがの せり)の場合



高校二年、十一月、初冬

ドラマのような出会いを望んだ訳ではなかった。
ただ、普通の恋愛がしたかった。

勿論、その『普通』って言うのがどんな恋愛を指すのかなんてのは分からないのだけれども、それでも漠然とした理想なんかはあったりする。
その理想の中での私は、とてもとても可愛らしい女の子なのだ。
レースのフリフリがよく似合うような可愛い顔立ち。
握ったら折れてしまうんじゃないかって男の子達に心配されるくらいの細い指先。
控え目に微笑むとちょこんとえくぼができたりして。
勉強なんかも当然パーフェクトにこなしたりなんかして。
休日はロイヤルなミルクティーを飲みながらブラック・サヴァス、は違う、パッヘルベルのカノンなんかを聴きつつ、明るい窓辺でゲーテの愛の詩集なんかを読んじゃうのだ。
お料理もバッチリ完璧で、お裁縫なんかもプロ級で、ああもうなんか落ちこんできたなぁコレ。

想像、もとい妄想の中の自分と現実の自分とのギャップに苛まれ、彼女、春日野芹(かすがの せり)は一つ大きな溜息をついた。
溜息は内包された感情の色になどまったく左右されず、ただ白く大気を染め、ついには余韻も残さずふっと消え去った。
煙草の煙とは違って清く儚く『白』が消えていく様は、実は彼女の密かなお気に入りの一つだった。
厳冬期だろうがお構いなく、むしろ冬にしか見られないものだからと、雪のちらつく屋上で白い吐息を一時間以上見詰めていた事もあった。
次の日、案の定風邪を引いた。
おまけにその様子を目撃していた心無い男子(荒井健二、当時小学生)には、「きどってんじゃねーよ」と随分茶化された。
周囲が彼女を『馬鹿だ』と評するのを耳にし、小学校の半ば辺りで既にこの件については誰の理解も得られないのだと言う事に気付き。
それから彼女は、冬の白い吐息が好きだと口に出すことを、一切しなくなった。
彼女が自分の事を『可愛くない』と自覚した、恐らくは最初の事件だった。

「菘(すずな)。 今日も部活?」
「これでも一応は体育会系だもの。 空からトリニトロトルエンが降りでもしない限り、練習は毎日あるわ」
「死ぬよ、それ」
「だから、死ぬような事でもない限り部活はあるのよ。 ケーキバイキングには残念ながら付き合えない、ゴメンね」

ケーキ&カフェの名店『チロル』
店長の気紛れで発動するステキにお得な数量無制限ケーキバイキングが、本日開催されるとの情報。
なんだ、知ってたの。
『残念です』との溜息を、それでも菘が罪悪感を感じないぐらいには軽やかに彩った芹は、窓の外に広がる青空に向って一つだけ悪態を吐いた。
今日ぐらいTNTが降ったってバチは当たらないわよ、バカ。
それを聞いた菘がくすっと笑ったので、芹はもうそれ以上の不満を口にする事ができなくなっていた。

芹の親友である御形菘(ごぎょうすずな)の笑顔は、喩えて言うならば春の陽射しをたっぷりと吸いこんだふかふかのお布団によく似ている。
思いっきりその胸の中にダイブして、心行くまで深呼吸してみたいような気持ちにさせる、そんな感じ。
一度など本気で彼女の乳房に顔を埋めてみた経験のある芹は、その時の感触を今だに愛しく思っていたりした。
曰く、「死ぬまでに一度は経験しないと人生の半分は捨てているに等しいわね」だそうである。
加えて今現在の菘の胸部は、その当時に比べて当社比
10%増と言う目覚しき発展を遂げている。
これは芹にとって抗い難い魅力を誇る、まさに最終兵器おっぱいであった。
しかしながら当時の芹が味わったのは、何も豊満な胸の感触だけではない。
不埒な行為の代償として、彼女は菘に思い切り強烈な肘打ちなんかをお見舞いされていたのだ。
あの後頭部にメガスマッシュする稲妻の如き肘の威力までもが今日10%増されているのかと思うと、いかな芹とて迂闊に抱擁を試みる訳にはいかなかった。
『増えたのは、胸の脂肪と羞恥心(季語無し、読み人-春日野芹)』
大人になんてなりたくはないものであると、芹は心の中だけでうっすらと涙を流した。

「どうせなら夕菜を誘ってみたら? たしか今日は部活のない日だったはずだけど」
「作品展覧会が近いとかで自主的に居残りだって。 まったく、こんな晴れた日の土曜にぴちぴちの女子高生が、何を好き好んで墨汁と戯れる午後を選ぶかね」
「好き好んで巻藁を射貫く午後を選択した私を目の前にして言ってくれるじゃない? 今度、授業中に居眠りしているあなたの口の中に消しゴムを皆中させてあげましょうか」
「かんべん」

両手を挙げて、『降参』のポーズ。
菘の場合冗談抜きでやりそうな節があるだけに、芹も「あはは」で済ます訳にはいかない様子だった。

「それじゃ、私そろそろ行くわね」
「はーい。 頑張ってらっしゃいな」
「芹も、頑張ってきてね」
「なにを?」
「めざせ、ケーキバイキング全種類制覇」

小さくガッツポーズを作りながら、芹に発破をかける菘。
あながち冗談にも見えないほど真面目な顔で励まされた芹は、一瞬だけだがとても間の抜けた顔を晒すハメになった。

「そして絶品な物だけをリストアップしてちょうだい。 それから、一緒に食べに行きましょ」

なるほど私は人柱かい。
ふかふかお布団の笑顔で『死ね』と宣告されたあまりのギャップに、芹は思わず空からTNTが降ってくる事をもう一度願ったりしていた。
苺のショートケーキ、モンブラン、カスタードミルフィーユ、ベイクドチーズ、ビターショコラ、シュークリーム、フルーツロールケーキ、ブルーベリータルト、etc、etc
最初の三つを口にした時点で乙女的摂取カロリーが致死量に到達するだろう事は、誰の目にも明らかであった。
しかし目の前のお布団が下した命令は、全種類食べて味を確かめて来い。
そりゃ甘いものに目が眩んでケーキバイキングに誘おうとしていたのは私だけれども、それはさすがにあんまりなんじゃないかと芹は思った。
杉樽は及ばざるがゴト師。
つまり杉の樽はイカサマをする人が好んで使うからって、あれ、何か違うような気がするよ?

「……すずなぁー。 全種類はむりー」
「全種類食べたりなんかしたら、お腹壊すわよ?」
「………」
「………」

のどかな放課後の教室に、耳が痛むほどの沈黙が訪れた。

「菘はそうやって可愛い顔して平然と嘘をつくから嫌いだ」
「私は芹のそうやって何でも本気にしちゃう所、嫌いじゃないわよ?」

菘がそう言って、微笑んだ。
なんだかよく判らないけど全種類は食べなくてもいいみたいだし菘の笑顔が可愛いし「嫌いじゃない」って言われた事が嬉しいから、芹もとりあえず笑う事にした。
惚れた腫れたの話もなく、ドラマのような恋もなく。
だけれどもそれを最高に心地良いと思いながら。
そんな風にして今日も彼女達の日常は、流れる雲の様に進んでいくのであった。

流れる雲の様に、進んでいく、はずだった。
 
 
 
 
 
 
 
 



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  ―――――― Pieces ――――――
 
 
 
 
 
 
 
 




 
 



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ActressU 御形 菘(ごぎょう すずな)の場合



高校三年、五月、暮春

菘は昔からよく、他人(ひと)から『落ち着いている』とか『大人っぽい』とかの評価をされる女の娘だった。
恐らくそれは純粋な善意や好意から発せられた褒め言葉なのだろうから、言われた菘の方も控えめな笑顔で「そんな事ないよ」と謙遜してみたりする。
時には「そうなのかな?」と可愛く首を傾げてみたりもするし、「おかげさまで」と少しばかり『大人』な対応をして見せたりもする。
しかし実際のところ菘にとっては『他者からの評判』などと言うモノはすこぶるどうでもよく、言ってしまえば『そんなもの知った事ではない』と云うのが本音であった。
大人だろうが、子供だろうが、聖職者だろうがバラモンだろうがゾマホンだろうが。
本質的な部分で他人からの評価を必要としていない人間である菘にとって、それらの形容詞は何ら意味を持たない言葉の集まりでしかなかった。

御形菘は、自己の確立に他者の存在を必要としない少女である。

いつから自分が『こう』であるのかを、菘はハッキリとは覚えていない。
しかし小学校高学年の頃には既に自分は『そう』であったようだと、朧ながらも菘は記憶していた。
特に喜びを得られない、周囲の人間が自分を誉めそやす言葉。
だけどそれらを冷淡にあしらう事は、自分の愛する平穏な生活に波風を立てる行為だと理解している。
だからそう、『これは一種のギブ&テイクなのだ』と、幼い菘は醒めた感覚で理解していた。
彼等は賛辞の言葉を送る代償として、『微笑を浮かべながら謙遜する御形菘』を求めている。
自分は『好意に囲まれた居心地の良いぬるま湯の様な日常』を手にするため、求められた通りの愛想を振りまく。
ひょっとしたらこの陳腐な寸劇こそが自分の年齢不相応な達観の要因なのではないかと思う事もあったが、菘はその自問にマトモな答えを求めたりはしなかった。
タマゴが先でもニワトリが先でも構わない。
何故なら今現在、自分を含む多くの日本人が親子丼を美味しくいただけている。
そんな風に物事を考えられる事こそが周囲をして彼女を『大人っぽい』と称させているのだが、残念ながら当の本人である菘はそれに全く気付いてはいなかった。
人間とは往々にして、自分の事ほどよく見えないものなのである。

切れ長の瞳に、少し吊りあがった眉。
腰まである長い黒髪と、対照的に透けるような白い肌。
女子高生にしては珍しいぐらい真一文字に切り揃えられた前髪からは、どこか古風な印象すら受ける。
水瀬名雪を『かわいい』と評するのであれば、御形菘は間違いなくそれとはタイプを異にする、言わば『美人』タイプの女子生徒だった。
それも美坂香里の様な洋風の美人ではなく、徹底的なまでの和風美人。
この学園に入学した当初など、彼女の親友である春日野芹は三日に一回ぐらいの割合で「菘にはもっとクラシカルな制服を着せたいなぁ」とのたまっていたものだった。

『ほら、例えばミッション系の白百合学園みたいな、三本ラインのセーラー服とかさ。 菘にはぜーったい似合うと思うんだけど』
『嫌よ、そんな昔のAVみたいなイメージの制服』

ぶー!
あまりにも年頃の娘とは思えない発言に、芹が思わず口に含んでいたバナナ牛乳を噴出した。

『……す、すずなぁ』
『あらやだ、芹ったらお下品』

涼しい顔で。
仄かな微笑すら浮かべながら。
まるで何事も無かったかのように振舞う菘を見て、芹は何度目になるかも判らない「こいつにだけは敵わない」と云う感情を抱いた。
新品の制服がごわごわして肌に馴染まない、四月春日(はるひ)の麗らかな午後。

それが、もう二年も前の事になる。

お互いに歳をとり、大きな問題もなく進級を重ね、期するでもなく訪れた高校生活最後の年。
最後の体育祭を目前に控えた、毎日訪れるお昼休みのひと時。
何故今頃になってあの頃のやり取りを鮮明に思い返したのかは、当の本人である菘にも判らなかった。
しかしこうして振り返ってみれば、『それ』は確かに大切な想い出の1ピースだった。
第一志望の高校に二人揃って入学できた、記念すべき最初の月。
目に映る全ての物事が目新しく、そして好意的に感じられていたほんの僅かの蜜月。
自分の真正面に座る親友の顔に在りし日の面影を重ねつつ、菘はつい愉快な気分になって『あの日』の続きを口にした。

「うん。 今なら判る気がするわ、あの時に芹が言ってたこと」
「うぇあ?」
「セーラー服。 『菘にはこの学校の制服よりも三本ラインのセーラー服のが似合いそうだ』って、芹が入学したての頃によく言ってたじゃない」
「そこだけ聞くと、いやらしいおじさんのセクハラ発言に聞こえるね。 芹ちゃんってば入学当初からお下品」
「本当に。 だから昔の私も、今の夕菜と同じ反応をしたわ。 芹はお下品」
「え、ちょっと待って。 何この雰囲気。 何でこんな唐突に私の尊厳が貶められようとしてるの?」

あの時と同じようにバナナ牛乳を飲みながら、あの時とは違った感じでおろおろしている芹。
その横では、あの頃には存在すら知らなかった少女が、自分と同じ感情を抱きながら笑っている。
何て不思議な状況なんだろうと、菘は二人の親友を見詰めながらそう思った。

春日野芹と、佐伯夕菜。

自分の様な面白味のない人間の傍に、どうしてこんなにも楽しい友人が寄り添っていてくれるのだろう。
それは菘にとって、宇宙開闢にも匹敵するほどの謎であった。
別に、自分の容姿や性格にコンプレックスがある訳ではない。
学業の成績など、むしろ三人娘の中では菘がトップを独走しているぐらいである。
クラスで一番わがままなおっぱいを持っているのも菘だし、過去に異性から告白を受けた事があるのも三人娘の中では菘だけだった。
だが、菘にとっては『そんなこと』など、何の価値も無い事柄だった。
所詮それらは一個の人間としての魅力を語る上での『付加価値』にしか過ぎず、本質的な部分には何も寄与しない物だと云うのが菘の持論だった。

例えば。
気の弱い事で有名な佐伯夕菜が、もしも何かの拍子に物凄く気の強い女の娘になってしまったとしたら。
最初の内こそ、みんな多少は戸惑うだろう。
「こんなの気の弱い佐伯さんじゃない」と、彼女の変化を認めない人も出るだろう。
だが。
紆余曲折があるかどうかまでは判らない。
だけど最終的には『気の弱い事で有名な佐伯夕菜』から『気の強い事で有名な佐伯夕菜』に認識を改められるだけで、彼女はまたみんなに好かれていくに違いない。
菘はそれを、理屈ではなく感覚で確信していた。
いきなり頭が良くなったとしても。
いきなり巨乳になったとしても。
ショートカットになっても、メガネをかけても、結局のところ一番根っこの部分で彼女は、どこまでも『佐伯夕菜』で在り続けるのだから。

容姿にも能力にも左右されず、彼女が彼女であるだけで条件として満たされる『それ』。
ある時期までの菘が渇望していた『それ』は、彼女の中では『人間の魅力』だと定義付けられていた。
誰も彼もが持っているような気がして。
自分だけが持っていないような気がして。
焦って、空回りして、心許なくて、不安に押し潰されそうになって。
とある冬の日に「人生なんてそんなもんだ」と気付いた頃には、菘はご近所でも評判になるくらいの『大人っぽい娘さん』になっていた。
どうやら物事に対する妥協点を上手に見つけられるようになった時、人は大人の階段を昇るらしい。
知りたくもない人生の真実を知ってしまったが故の憂いの表情は、やはり彼女を『大人っぽい少女』として周囲から際立たせていた。

だから、自らの限界を超えてまでも全ての事象に妥協を認めようとしない『彼』を見た時、菘はまず初めに「この人はなんて子供っぽいのだろう」と云う感情を抱いたのだった。





* * *





高校二年、一月、厳冬

転入生、相沢祐一。

初見での印象は、『とっつきにくそうな人』だった。
無難な挨拶、改造されている訳でもない普通の制服、耳障りではない程度の声音、端整ではあるけれども特に目を奪われるほどでもない面立ち。
最後の二つばかりは思いっきり主観による評価だけれども、総じて彼は自分から強く個性を主張しないタイプの人であるらしかった。
実際、彼はクラスの中にあまり交友関係を築こうとなかった。
親しげに口を開く相手と言えば、イトコである水瀬名雪とその親友である美坂香里、それからその二人といつも行動を共にしている北川潤の三人のみ。
他のクラスメイトに関して言えば、顔と名前すら一致しないレベル。
挨拶をされれば笑って応えるぐらいの社交性はあるようだったが、彼は何故だか『その先』の一歩を自ら踏み出そうとはしなかった。

「変わった人ね、彼」
「彼? ……ああ、相沢君のこと?」

私は『彼』としか言っていないのに、芹はそれだけで話題の人物が相沢君であると理解した。
どうやら彼女にとっても『相沢祐一』とは、『変わった人』と称されるに値する人間であるようだった。

「んー、そんなに変だとは思わないけど……ああ、でも流行りモノにはちょっと疎いみたい」
「例えば?」
「ドラマも、売れっ子アイドルも、流行のファッションもミリオンセラーの本も、あんまり興味がないみたい」

さも「面白くありません」と言わんばかりの溜息を吐き、指先でシャーペンを器用にくるくると回す。
同一の話題で盛り上がれない事に対する寂しさを隠そうともしない芹の態度が、私の目にはとても好意的に映った。
男女問わずに会話の裾野を広げる事が好きな芹は、教室の中でも『気軽に話しかけられる女子』の筆頭として格付けされている。
特に北川君とは今期の月9ドラマについてかなり気が合っているようで、火曜日の放課後なんかは定例会議みたいに昨晩のストーリーで盛り上がるのが常とさえなっていた。
『運命の出会い』とか『恋の奇跡』とかをメインテーマにしたその内容は、チープでありながらも期待を裏切らない展開で視聴者のハートを魅了するのだと芹は力説する。
歴代の記録に残るほどの高視聴率をマークしていると噂の作品だけに、クラスの中でも件のドラマを見ていない人の方が少ないと云う有様だった。
だが。

「……残念だけど、私も芹が今挙げた話題には全く興味が湧かないわ」
「ぅえ?」

何しろこの私ときたら、大人気のドラマは見ていないし、売れっ子アイドルにも興味がない。
女子高生の間で話題になるような流行りのファッションは、私の容姿には悲しくなるくらい似合わない。
好きな小説家に至っては中学生の頃からパトリシア・コーンウェルに決定しているし、占いや雑学本の類には全く食指が動かないと言う体たらくだった。
そりゃ、教室の中でみんなが『死体農場(ボディ・ファーム)』について楽しく語らうような光景は、私としてもちょっとご遠慮願いたいのだけれども――

「なるほど。 そうすると芹の中では、私も『変わった人』扱いなのね」
「はぅえっ?」
「まさか芹にそんな風に思われていたなんて…おねーさん、ちょっと悲しいわ…ううっ…」
「ち、ちがっ、すずなぁー」

誰が見ても判るほど大根役者な私の嘘泣きに、大袈裟なほどわたわたと対応してくれる芹。
その様子が少しだけ嬉しくて、たまらなく可愛らしくて。
芹には悪いけどもう少しだけおろおろし続けてもらおうと、俯いたままの姿勢で私はこっそりそう思った。

それから二週間余りが過ぎた頃。
彼の交友関係は、誰もが予測していなかった人達と、誰もが予想できない形で結ばれていた。

倉田佐祐理センパイと、川澄舞センパイ。

正と負の両極端な噂を背負った二人の先輩は、その両方の意味でもって学園一『近寄り難い』人達だった。
誰もが振り返らずにはいられない美貌を持ちながらも、誰もが『何か』を恐れてお近付きになろうとはしない。
綺麗すぎて、危険すぎて、聡明すぎて、浮世離れしすぎていて。
『前へ習え』こそが規律的で良しとされている閉鎖的な学園生活において、彼女達は良くも悪くも知名度が高すぎたのであった。
彼女達と親しくなる事で『普通』から逸脱するのが怖いから、ただ遠巻きに眺めて好き勝手な感想を言い合うことしかできずにいる。
だけど相沢君は、まるでそんな『普通の人達』を嘲笑うかの様に、彼女達の傍にいてあまりにも『普通』に笑っていた。
クラスの中では決して見せないような笑顔で、『異端』とされている人達と共に歩いていた。
まるでそれこそが、『普通』の学園生活であるかのように。
まるで今までの日常こそが、『異端』だったのだと言わんばかりに。
この学園に澱(おり)の様に堆積していた『普通』を、そ知らぬ顔で蹴たぐり回す。
それはひょっとしたら転入生である彼だけに許された、ある種の特権的な行為だったのかもしれなかった。

だけど、その余波はお世辞にも『些少な物』とは呼べない代物だった。

鹿鳴殿の変。
教室塔で発生した、川澄舞の突然の破壊行動。
妥当すぎると思われる退学処分。
復学を嘆願する署名活動。
正当なる理由が存在しないままに行われた、学園側(執行部)の異例の処分撤回。

あまりにも突然に訪れた日常の崩壊に、学園内部は大いに揺れた。
そして学園自体が揺れたのだから、生徒一人一人はもっと大きく揺さぶられた。
退学処分を当然だと思う人。
処分撤回こそが真に妥当な選択だと主張する人。
川澄舞の奇行により実際に何らかの被害を被ったとして、純然たる憎しみを彼女に抱く人。
そして、そんな彼女を庇っていると言う理由で相沢祐一に憎しみを抱く人すらも、中には少数ながら存在した。

後ろ指、陰口、根も葉もない噂話は勿論の事。
実際に机の中に『何か』が入れられていた事や、反生徒会の人間に真正面から罵倒された事もあったらしい。
事件が一段落した頃、何かの拍子に耳に入ったそれらの出来事は、私を大いに失望させた。

「よくやるわよ、ホント」
「イタズラした人達?」
「両方」
「……だよねぇ…」

『こう』なる事が判らないほど頭の悪い人間でもないだろうに、彼は全ての事柄に対して『真正面から中央突破』以外のスタンスを取ろうとしない。
『そう』したからって気分が晴れ晴れする訳でもないって事に気付かないのだろうか、彼に悪意を押し付ける人達は、まるで非生産的なアクションしか起こそうとしない。
双方共に無駄なエネルギーを消費しているようにしか思えなかった私は、偶然居合わせただけの芹に向けて呆れの色の強い溜息を吐いた。
存外に、剣呑な響きとなってしまっていた。

「私は……相沢君のこと嫌いじゃないけどさ。 でも、川澄センパイの件は何か納得できなかったな……」
「相沢君自身が周囲に理解を求めてないんだもの、仕方がないわ」

彼が川澄センパイ復学のための署名活動をしていた事は、私も芹も知っている。
だけど彼が『何を根拠として処分は不当だ』と主張していたのかは、私や芹どころかこの学園の誰もが納得のいく説明を受けていなかった。
協力は求めるが、理解は求めない。
本質的な部分で彼は、周囲の人間に心を開こうとしていない。
その姿勢が不誠実な物に思えた私は、ついに最後まで彼の持つ氏名記入用紙にサインをしなかった。
誤解があるといけないので言わせてもらうが、私だって別に彼の事が嫌いな訳ではない。
でも『嫌いではない』と言う程度の理由で署名してしまうには、その問題はあまりにも私にとって巨大かつ不鮮明な代物だった。

「うーん。 それってやっぱりさ、このクラスにまだ馴染んでないって事かな」
「馴染む?」
「信用してもらえてないって言うか、他人行儀って言うか。 少なくとも私が相沢君の立場だったら、まずはクラスのみんなに相談したんだけどなーってこと」
「相談するも何も。 彼、まだ転入してきてから一月も経っていないのよ?」
「ですよねー」

へにゃーっと、机に突っ伏しながら気だるく相槌を打つ芹。
それが別段の答えを求めている訳ではないと知りながらも、私は何故かそこで会話を終わらせようとは思わなかった。

「でも、今のままならきっと、卒業するまでずっと変わらないんじゃないかしら」
「何が?」
「相沢君」
「今のままって?」
「芹の言葉を借りて言えば、クラスに馴染まないって事ね」

もっとも、芹の言う「クラスに馴染む」が具体的にどの様な状態を指すのかまでは、流石の私にも見当がつかない。
しかし少なくとも現状の相沢君では、教室内に確固たる『居場所』を築き上げるのは不可能だろうと私は確信していた。

「でも北川君とは仲良いみたいだしー」
「彼を手がかりとして、芋づる式にお友達が増えるんじゃないかって?」
「何かその表現はちょっとアレだけど……うん、まあそんな感じ」
「私は逆だと思うわ。 北川君と仲が良ければ良いほど、相沢君は『そこ』で立ち止まるタイプのはず」
「満足しちゃうってこと?」
「有体に言えば、ね」

曖昧に笑いながら、私は自分の言葉を心の中で否定した。
本当はそうではない。
満たされているから『それ以上』を求めないのではない。
いつか失う事を恐れているからこそ、彼は『それ以上』に手を伸ばそうとしないのだ、と。

相沢祐一は貪欲な人間だ。
しかも、消極的だ。
自分から何かを得ようとはしないくせに、一度手に入れてしまった物は二度と手放そうとしない。
例えそれが自らの限界値を遥かに越えた物事であったとしても、手中の宝物に関しては一切の妥協を許そうとはしない。
彼は、そんな呆れた吝嗇家である。
だから、川澄センパイの復学署名活動の云々に関しても、根幹は恐らく其処だったのだろう。
奪われるのも壊されるのも嫌だから、あえて自分から多くの宝物を手に入れようとはしなかったのだ。
自らは心を開こうとせず。
周囲に理解を求める事もなく。
偶然手に入った美しい珠だけを、後生大事に磨き続ける――

――それはまるで、自分自身を見ているかのような切なさを伴った感情だった

自分には何もないから。
自分だけでは一粒の光も発する事ができないから。
自分の掌の小ささを知っているから、身に余る幸せにいつも怯えている。
手に入れる事にすら怯えている。

何の事はない。
私は『彼』を語っているつもりで、実は自分自身を振り返っていたに過ぎなかった。

「――賭けようか?」
「へぅえ?」
「相沢君がこのクラスに馴染むかどうか、二人で賭けてみましょうか」
「……何がどうなれば『馴染んだ』って言うの?」
「さあ?」
「………」
「………」

しばしの沈黙。
後、芹の呆れたような溜息。

「賭けになんないじゃん、それ」
「馴染むとか馴染まないとかを最初に言い出したのは、芹の方よ?」
「そ、それはそうだけど……」
「まあ確かにウチのクラスは、他所(よそ)に比べて無駄に仲良し度が高いとは思うけど」
「無駄じゃないよ。 楽しくていーじゃん」
「E組の和泉さんには『信じられない』って言われたわ。 放課後の教室に残って男女楽しくお喋りするような漫画みたいなシチュエーション、実際にあるのね、って」
「……そこまで言うほど?」
「実際そんな光景、私だってB組でしか見た事ないもの」

悪い事だとは思わない。
仲良き事は美しき事だとも思う。
だけど『みんなで楽しく』って云う状況の裏を返せば、それは誰もが『唯一の人』を見つけられずにいると言う事だと私は思っていた。
例えばバスケ部の佐々木君。
彼は部活のない日は年下の彼女とデートするために、授業が終わった瞬間に速攻で教室を走り去っていく。
『どっちの方が』なんて序列をつけたりはしたくもないけれど、私だってたまには脇目も振らずに『唯一人』のもとへ駆け出してみたくもなる。
もっとも今のところ、そんな予定は悲しいくらい皆無に等しいのだけれども。

「それじゃ、こうしましょうか。 相沢君が放課後の教室で男女問わず五人以上のクラスメイトと仲良く談笑していたら、それをもって『クラスに馴染んだ』と判定する」
「五人かぁ……」
「ただし、水瀬さん、美坂さん、北川君の三人は人数から除外すること」
「ぅえー? それはちょっとキツいんじゃないかなー」
「大丈夫よ。 芹も夕菜もちゃんと人数としてカウントしてあげるから」
「……菘は?」
「私は審判だもの。 公正なジャッジのために、涙を飲んで傍観者に徹するわ」
「うぅ……私と夕菜でまず二人として……綿貫君は雑談にあんま付き合ってくれないし……」
「ところで芹」
「荒井のバカは論外だし――って、はい?」
「あなた、どっちに賭けるつもり?」
「どっちにって……菘は『馴染まない』の方向でずっと喋ってたじゃん」
「あら、知らなかったの? 私はギャンブラーだから、分の悪い賭けであればあるほど心が躍るのよ」
「……そんなの初耳だ」

当然だ、嘘八百なのだから。
オッズに差のないギャンブルで分の悪い方に賭けるほどおバカさんでもなければ、無駄なリスクを背負い込んで喜べるほどマゾヒストでもない。
そもそも私は賭け事が好きではない。
じゃあ何でこんな事を言い出したのかと言えば、その答えは至ってシンプルな物でしかなかった。

――彼には、”そう”であってほしいから

一瞬とは言え、自分勝手な思いとは言え、私は彼に『自分自身』を重ねて見てしまった。
このままずっと時が流れていけば、彼は早晩『私』と同じ場所に辿り着くのだろうと思い込んでしまった。
だけど。
悲観的な意味ではなく、自嘲の意味など欠片もなく、私は”それ”を望まない。
何故なら”それ”は一度読んだ推理小説をもう一度読み返すような行為にも似ていて、単純に言えば見ていてちっとも面白くないからだ。
先の見えない展開。
結末の読めないストーリー。
それらをリアルタイムで目撃し続けられる日常こそが、私の人生をより面白い方向へと味付けしてくれる。

『私』と袂を別った彼は、一体どのような道を歩むのか。
そして、どのような場所に辿り着けるのか。

私は、それが知りたかった。
それを知りたいがために、私はこの賭けを提案した。
一生懸命悩んでいる芹には悪いけれども、要するに私は、彼の動向をチェックするのに便利な大義名分が欲しいだけなのだった。

「ひょっとして、何か企んでる?」
「あのね……だいたい何を企むって言うのよ、こんなしょうもない事で」
「だって菘ってば、勝算のない賭けなんか普段しないじゃない」
「張る目の有利不利を見極めた事はあっても、裏工作みたいな事をした覚えは一度もないんだけど?」
「むぐー……」
「それに、もし『馴染む』に賭けた芹が相沢君に積極的に話しかけたりしたら、何だかちょっと意図的過ぎると思わない?」
「意図的?」
「そう。 まるで『賭け事の対象だから仲良くしてる』みたいな構図になるってこと」
「……そんな見方されるのはイヤかなぁ…」
「それとも芹は、自分が『馴染まない』に賭けたら今後一切相沢君とはお喋りしなくなっちゃう? 賭けに不利になるからって理由で?」
「すーずーなー、冗談でも怒るよー?」
「でしょ? だから私は『馴染む』に賭けて、芹は『馴染まない』に賭ければいいのよ。 そうすれば今まで通り何一つ気兼ねなく、相沢君とお付き合いしていけるわ」
「……ねえ」
「なあに?」
「何か私、うまい具合に丸め込まれてない?」
「あら、気のせいじゃない?」

実際、相沢君がこのクラスに馴染むかどうかなど私には見当がつかない。
そりゃ願望としては『馴染んでほしい』と思っているけれど、だからと言って私が手出し口出しをしてしまうのは決定的に『何か』が違うんじゃないかと思う。
だいたい、『人が人を変えよう』だなんて考えは、私はあまり好きではない。
結果的に他者の影響で人が変わる事はあったとしても、それが特定の人間の意図的なものであったとしたら、それはただの洗脳じゃないかと私は思ってしまうのだ。
だから、私は相沢君に過干渉したりなんかしない。
『もっとみんなと打ち解けようよ』なんて、口が裂けても言ったりしない。
それだけは神に誓ってもいいだけの自信を持っているし、だからこそ私は芹に向かって『何も企んでない』とハッキリ断言できるのだった。
もっとも、こんな偏った考えを人に聞かせる趣味は無いので、芹に向けては曖昧な笑みではぐらかさせてもらうのだけど。

「それより、ペナルティを決めましょうか」
「菘ってば……意外とノリノリだね」
「当たり前でしょう? やるからには、本気よ」
「ペナルティか……難しいなあ……」
「自分がやりたくない事。 私にやらせたい事。 罰ゲームの基本としてはそんな感じじゃない?」
「えーと……宿題とかー、持久走とかー、コスプレとかー、部屋の片付けとかー……」

それは、やりたくない事とやらせたい事のどちらなのだろう。
指折り数える芹の姿とその突拍子もない内容に、私は軽い苦笑を禁じえなかった。
もとい、「可愛い芹がそこまで言うのなら、是非とも是非とも”そう”してあげようじゃない」、と。
私の中の意地悪な部分(御形菘ブラック)がさも意地悪そうに提案し、私の中の面白い事大好き部分(御形菘ユーモア)がそれを快く承諾した。
ちなみに理性さんと優しささんは、有給を使ってジンバブエに観光旅行に行っている。
芹が追い詰められるまでに彼らが無事に帰国する確率は、私の母親が作るカルピス水ぐらい酷く薄い。
と、それはさておき――

「いいわ、そうしましょう」
「んぇ?」
「賭けに負けた方が、お部屋のお片付けをされる。 それが今回の罰ゲーム」
「……負けた方がされるの? するんじゃなくて?」

頭の上にクエスチョンマークを浮かべ、訝しげな表情を浮かべる芹。
どうやら彼女の『この展開はひょっとしてまずいんじゃないカナ』感知センサーは、今日も絶好調でフル稼働しているらしかった。
だけど、全ては既に遅かった。
言うなれば、私の言葉に対して芹が疑問系で受け答えた瞬間に、この未来は確定してしまっていたのだった。
自分がやりたくない事。
相手にやらせたい事。
芹にはこの二つしか言っていなかったけれど、魂が震えるような罰ゲームを考案する時、大切な要素がもう一つだけある。
それは――

「負けた方が、お部屋をお片付け”される”のよ。 お片付けする人は勿論、相沢君」

それは、『相手が絶対にされたくない事』を提案する事である。

「ちょ、え、やっ、だ、ダメに決まってるじゃんそんなのっ」
「あら、いい反応。 血相変えて『ダメ』って言ってくれるようじゃなきゃ、罰ゲームに選ぶ価値が無いわ」
「ムリムリムリムリっ! ぜーったい無理っ! って言うか相沢君がまず承諾しないよそんなのっ」
「どうして? もしも相沢君が芹のお部屋を訪問するとしたら、それはつまり彼がクラスに打ち解けた後って事でしょ? なら、その位の『お願い』は大丈夫のはずだわ」
「す、菘が負けの場合はっ?」
「クラスに馴染まなかった彼に、個人的にお願いするしかないんじゃない? 言っておくけどこの罰ゲーム、芹の場合と比べると圧倒的に辛いのは私の方なのよ?」

クラスに馴染んでいる男の子と、クラスに馴染んでいない男の子。
両者に同様の『無茶なお願い』をしなくてはならないとしたら、誰が考えても後者の方がより気まずい感じになるだろう。
『菘は自分よりもリスクを背負って発言している』と言うただその一点において、芹は律儀にも反論の気勢を削がれてしまっている。
まったくもって素直で純粋な芹の様子に、旅行中のはずの優しささんですら急遽チャーター機でもって一時帰国してきてしまいそうな勢いだった。
いけない、いけない。
私は非情な女になるのだ、少なくともあと二分ぐらいは。

「で、でもさあ……」
「期限はそうね……春休みを挟んで、ゴールデンウィーク辺りかしら」
「え、あう、ちょ、ま――」
「五月には体育祭もあるし、区切りとしては丁度良いんじゃない? それとも、夏休み突入まで延長する? 『馴染まない』に賭けてる芹としては、かなり不利になると思うけど――」
「ご、五月でいいですっ。 五月がいいですっ」
「うん、じゃあ決まりね。 体育祭前日の放課後までに、相沢君がクラスメイト五人以上と仲良くお喋りできるかどうか」
「……押し切られた……何かあっという間に押し切られたよ…」
「賭けに負けた方は、相沢君にお願いしてお部屋のお片づけをしてもらうこと。 自分で言うのもなんだけど、お年頃の乙女としては憤死モノの罰ゲームよね」
「ま、まだ私が負けるって決まった訳じゃないし……」
「勿論よ。 お互い、正々堂々と頑張りましょうね」

そう言って私は、笑顔を浮かべながら芹に向かって右手を差し出した。
少しばかり儀礼的に過ぎる、フェアプレイ宣誓のシェイクハンド。
かなり胡散臭そうな瞳で私と私の手を交互に見詰めた芹は、それでも幾許かの逡巡を経た後に、怯えた小動物みたいな感じでおずおずと自らの手を差し出した。
軟式テニス部に所属している芹の掌は、いつもラケットを握り締めているだけあって、書道部の夕菜よりもやはり少しだけ硬い。
そんな『頑張り』が実感できる芹の手をとった私は、できるだけ優しく優しくそれを包み込みながら。
できるだけ冷たく冷たく聞こえるように。
できるだけ丁寧に丁寧に言葉を選びながら、芹に現実を叩き付けた。

「正々堂々、前言撤回なし。 ちゃーんと芹も夕菜も『クラスメイト五人』の勘定の中に入れてあげるから、安心してね」
「……はぅわっ! は、ハメられたぁー!!」
「ハメただなんて人聞きが悪いわ。 それに、どうせならお部屋で相沢君にハメ――」
「うわぁー! わー! わー!」
「うふふふふ、結果が楽しみね、芹」
「おにちくだー! 鬼畜がいるー!」

普段あまり他人に興味を持たない私が、ひょんな事から意志ある傍観者になってしまう。
全てを彼の責任にするのは流石に無理があるけれど、やっぱり相沢君は他の人たちとは少し『違う』んじゃないかと思ってしまう。
別に恋とか愛とかの甘酸っぱい感情が介在する余地などなかったけれど、こうして私は一人の男子生徒に注目しながら、残り一年ばかりの学園生活を過ごす事となったのだった。





* * *
 
 
 
 
 
ActressV 佐伯 夕菜(さえき ゆうな)の場合



こんな人になりたいと思った。

それは、彼女が高校に入学したその日に起こった出来事だった。
真新しい制服に身を包み、どきどきしながら入学式に臨み、そして新入学生総代の姿を目にした時。
佐伯夕菜は恐らく、目の前の女性に一目惚れをした。
 
新入学生総代、美坂香里。
 
暖房の勢いが弱く、まだ少し寒い体育館に、よく透る声。
意志の強さをそのまま造形に表したかのような、凛とした瞳。
新入学生総代を勝ち取った、恐らくは自分の倍くらい明晰な頭脳。
論(あげつら)えばそれこそキリが無くなるので、夕菜はそこで『全て』と云う言葉を形容に用いる事にした。
美坂香里の持っている物全てが、どれもこれもが自分には無いもので、そして自分が欲しいと願っている物ばかりだった。
だから彼女は、美坂香里に憧れた。
こんな人になりたいと思った。
それが、もう二年も前の事になる。
 
一年生の時は運悪く、同じクラスにはなれなかった。
できる事なら近くで憧れの女性を見ていたいと思っていた彼女は少しだけしょげたが、それでも香里への憧憬は少しも薄れる事は無かった。
二年生の時に、ようやく同じクラスになれた。
同じクラスになって思った事は、『やっぱりこの人は素敵な女性(ひと)だ』だった。
なんの暗号だろうと思ってしまうほど難解な古文の訳をすらすらと板書する姿や、なんの拷問だろうと思ってしまうほど過酷な体育の持久走をすたすたと走りきる姿。
何より、些細な事では眉一つ動かさないその冷静さは、夕菜にとってやはり憧れるに値する物だった。
ただ少し、香里が二学年の半ばを過ぎた辺りから見せるようになった、世を果敢無(はかな)むような憂いの表情が気になってはいたものの。
それでも概ねの所で美坂香里は、佐伯夕菜の理想の女性だった。
 
だが。
 
転入生、相沢祐一。
 
佐伯夕菜は当初、彼の事があまり好きではなかった。
なんだか目付きが怖かったし、雰囲気的にも周囲に溶けこもうと云う気が感じられなかったし、男の人ってだけで微妙に近寄り難かったし。
何よりも彼は、自分の憧れである美坂香里に、あまりにも近寄り過ぎていた。
物理的にも、そして恐らくは精神的にも。
少なくとも遠巻きに香里を見ている事しかできない自分よりかは、憧れの彼女に遥かに近く。
もっともそれは、彼が香里の親友である水瀬名雪のイトコである事に起因しているからなのだが、それはそれ。
立ち入った事情を知るはずも無い夕菜にとって、やはり彼は若干の恐怖と敵意の対象でしかなかった。

それから少しの時間が経ち、二年生もそろそろ終わろうかと云う頃。
ある日を境に唐突に、美坂香里は変った。
否、それは単に『戻った』だけなのかもしれない。
元々の性格など本人以外には判るものではないし、そもそも本人が他人の目から見た自分を意識しているかどうかも判らない。
ただ何となく、彼女は最近、よく笑うようになった。
同学年の女の娘と同じぐらいには、感情を表に出すようになった。
状況的に見てそれは恐らく、『彼』の転入を契機としての事に違いなかった。
 
夕菜が抱いていた幻想は、打ち砕かれた。
しかし幻想と云う名のボロキレを脱ぎ捨てた美坂香里は、今まで以上に素敵だった。
今にして思えば、夕菜が憧れてすらいた冷静な表情は、どちらかと言えば憂いの意味合いが強かったようにも見えた。
大人びた仕草は、単純に世界を疎んじていただけのようにも思えた。
根底に『美坂香里』が在り続ける限り、今の香里が見せる年齢相応の可愛さは、そのどれ一つを取ったとしても過去のどれにも負けないぐらいの魅力を持っていた。
そしてそれだけに夕菜は、香里の本当の姿を引き出した『彼』が妬ましかった。
そしてまた、羨ましかった。
遠くから見ているだけしかできない自分との差異を思うにつけ、夕菜は自身が何やら情けなくってしょうがなくなった。
 
それ以来だろうか。
気がつけば佐伯夕菜の目は、相沢祐一に向けられている事が多くなっていた。
 
例えば移動教室の時。
「早くしなさい」と香里に急かされては「はいはい」みたいな顔をして立ち上がる祐一の横顔を、彼女は菘の肩越しからこっそり覗き込んだりしていた。
一見すると面倒臭そうなだけの受け答えの中に隠された、ほんの僅かな、だけど凄く優しい微笑み。
気付くまでにそう長い時間はかからず、一度気付いた後はもう二度と見逃す事はなかった。
それから例えば、掃除時間。
モップでホッケーを始めた直後に「このおバカ!」みたいな主旨で香里に怒られている時の祐一を、彼女はテラスで黒板消しをパンパンと叩きながら目撃していた。
怒られる事を前提として遊び始めたかのような、と言うよりも怒られる事すらも楽しみの一つであるかのような、全然ちっともこれっぽっちも悪びれる事のない笑顔。
中学生である彼女の弟ですら最近では見せる事がなくなった類の無邪気な笑顔は、佐伯夕菜の主張では『珍しいから』と云う理由で彼女の心に強く刻み込まれていた。
隣りで笑っていた北川の存在が刻み込まれなかった件については、彼女は黙秘を続けるつもりでいた。
 
『好き』とかの感情ではなかった。
まして『恋』でなんてあるはずがなかった。
 
マンガと小説とドラマと口コミで夕菜が培った知識によれば、どうやら『恋』とはドキドキしてキュンとして時には不安になりつつも素晴らしいものであるらしい。
だが、彼女が祐一を見ている時にいつも胸に抱くのは、きまって不安とドキドキのツープラトンでしかなかった。
頭の先からつま先まで、徹頭徹尾に渡って『キュン』が抜けている。
どうにも素晴らしいとは思えない。
しかもそのドキドキとは決して身体中をメープルシロップが流れる類の甘いドキドキではなく、どちらかと言えばホラーかサスペンスを見ている時に感じるドキドキに近いものがあった。
だから彼女は、誰に訊かれたってこう言い切れる自信があった。
これは、恋ではない。
と思います……
たぶん。
うん。
ち、違うんじゃないかなぁ?
じっとなんて見詰めてないよあれは見てるだけだもんそれに相沢君だけを見てる訳じゃなえっいや別に北川君を見てる訳じゃなくて違うよ北川君を即座に否定した訳じゃなくて――
 
ちっとも言い切ってなかった。
 
 
 
 
 
* * *




佐伯夕菜は、非常に気の弱い女の娘だった。
今でこそ彼女は自分の気の弱さを一種のコンプレックスとして感じているが、それを自覚したのがいつの頃からだかは本人にもよく判っていない。
でも、確か幼稚園の頃はみんなと同じくらいだったはずだと、彼女自身はそう思っていた。
みんなと同じように、幽霊とかオバケの類に脅えていた。
当年取って4〜5歳の幼児が所謂『得体の知れない物』を怖がるのは世間一般的に見ても至極当然のはずで、彼女としてもそれを疑った事なんか欠片もなかった。

小学校の頃も、まだ周りのみんなと同じくらいだったはずだと彼女は思っていた。
例えば静かな授業中。
誰かのカンペンケースが、いっそえげつないくらいの爆音を奏でながら床に落ちたりなんかした時。
びっくりして涙目になったりしていたのは、きっと自分だけじゃなかったはずだと、夕菜は力強く主張した。
絶対、恐らく、多分だけど、みんなびっくりしてたはずだもん。
だってそうではないか。
誰だって突然の環境の変化には多かれ少なかれ戸惑うのが人間としての『普通』であって、変化を変化として捉えられないなんて、あまりにも枯渇した精神ではないか。
アレは驚いて然るべき事態だったのだ、きっとそうに違いない。
彼女は、そう強く信じて疑わなかった。

そして、中学校生活も半ばを過ぎた頃。
気がつけば彼女を表現する時には、定型分の様な感じで『気の弱い』と付けられるのが一般的になっていた。
提唱しはじめたのが誰だったのかを、彼女自身はまったく覚えていない。
恐らくは『覚えていない』のではなく『知らない』だけなのだろうが、不名誉な形容詞を与えられてしかもそれが定着してしまった今となっては、そんなは事どっちだってよかった。

できる事ならば。
そう、もし仮に万が一にもできる事ならば、気の弱い自分の性格をどうにかしたいのに――

佐伯夕菜は、気が弱い。
だがそれ以上に彼女は、他に類を見ないくらいの頑張り屋さんでもあった。
自分の気の弱さをどうにかしようと思った事も、一度や二度や三度ではない。
大嫌いなセロリが気の弱さに効くと聞いては半泣きになりながらセロリスティックをカリカリとかじってみたし、腹式呼吸がイイと聞けば面白くもないのに頑張って笑ってみたりもした。
だがしかし、言うまでもなくそんな情報はその殆どがウソっぱちな訳で。
騙されては傷付き、へこんでは立ち直り、立ち直ってはまた騙されてちょっぴり泣いてみたり。
そんな彼女の中学時代は、かのジャンバルジャンでさえも自分の事をさて置いて「ああ無情だ」と嘆くくらい惨憺たるものだった。
いや、流石にそれは言い過ぎなのだが。
とにかく、彼女は自分の気の弱さにコンプレックスを持っていた。

中にはそれがいいのだと言う男子生徒も居るのだが、この際それは無視しておく事にする。
 
 
 

 
* * *
 
 
 
 
 
そんな彼女の中で相沢祐一の認識が完全に改まったのは、去る五月の冒頭に行なわれた一つのイベントでの事だった。
行事名、体育祭。
生徒間での呼称、【百華繚乱】。
文化祭である【華雪祭】と合わせて学園二大行事に挙げられるこのイベントは、しかし大した運動神経を持ち合わせていない彼女にとっては例年通り暇な一日となるはずだった。
たしか去年は教室で、男子の誰かが持ってきた横山三国志をいたずらに全巻読破なんかしていた気がする。
おかげで鉄鎖連艦の計についてはとてもよく理解できたが、残念ながらその計略はクラス順位に毛筋ほどの影響も与えてくれなかった。
どうやら体育祭における読書活動とは、あまり誉められた行動ではないらしい。
それならせめて最後の体育祭である今年ぐらいは、あまり話をした事のない男子の応援もしてみようかなと。
小学校からの幼馴染のまー君(綿貫雅蔭)とか、芹ちゃんといっつもお喋りしてる北川君なら、そんなに緊張する事もないんじゃないかと。
気の弱い彼女なりに自己変革を心に決めて。
さあ男子はどんな競技をどんな風にするのかと耳をそばだてて。
白く華奢な拳をぎゅっと握った瞬間に聞こえてきたのは、まぁ何て言うかすごくアレな叫び声だった。
 
『きたきたきたきたー!
『ついに来たかっ!』
『どうなんだ北川!』
おうよ! まずは席に着きやがれてめーら!』
 
ありえない。
まず夕菜はそう思った。
自分の記憶が正しければここは学校で、今はLHR中で、雄叫びをあげている人達はついさっきまで自分のクラスメートのはずだった。
現に教壇の前では美坂さんが溜息を吐きながら怒りを堪えてるし、黒板にもちゃんと『体育祭要項について』って書いてあるし、石橋先生は……うわ、寝てる。
この状況で寝続ける事ができるって云うのもある意味では特技なのかな、うん、水瀬さんもばっちり寝てるしなぁ。
寝たいって思った時にすぐに寝れる特技なら私も欲しいんだけどなー。
この前とかもちょっと夜更かししようと思ってコーヒー飲んだだけなのに結局朝まで眠れなくなっちゃって、次の日に体がだるくなるのとか実はすごく困るんだけど――
 
違う。
 
多分に混乱の様相を見せ始めた思考をどうにか元に戻し、何とかして現状把握をしようとする夕菜。
見様によってはそれは、彼女なりの克己心の表れだったのかもしれなかった。
いつもなら雄叫びを聞いただけで耳を塞いでしまっていたかもしれない。
普段と様子の違う男子の姿に怯えて、目を瞑ってしまっていたのかもしれない。
だけど彼女は、そんな自分から脱却しようとしていた。
眼を逸らして耳を塞いで身体をちぢこめて、だけどそんなんじゃ何も始まらないと、果敢に自己変革を試みていたのだ。
憧れの美坂香里の様に、一種の異様さを見せる男子の姿すら諦観の溜息と共に一蹴してしまえるほどの胆力が欲しい。
そこまではいかないまでもせめて、苦笑と共にでもいいから男子の様子をまともに見れるくらいの強さが欲しい。
出力限界を軽く突破するぐらいのなけなしの勇気を振り絞り、強く瞑った瞼の裏で『逃げちゃダメだ』と5回ぐらい繰り返してから、夕菜はようやくその眼を開ける事に成功した。
 
『先の大戦から一年にも渡る強制的な休暇。
 生粋の軍人である君達には大変な鬱積を与えてしまった事を此処に深く謝罪しよう。
 そして、そんな君達に朗報がある。
 今年もまた、彼(か)の馬鹿馬鹿しくも壮大な戦が始まるそうだ。
 どうにもこうにも上の連中は一年に一度、この地に多大な若人の生き血を吸わせねば気が済まないようだ。
 まったくもって馬鹿馬鹿しい。
 理由の無い戦など、何の意味も無いとは思わないかね?
 おっと失敬。
 今此処に集っているのは、所謂一つの馬鹿ばかりだった。
 私を含め、理由の無い戦闘ですら嬉々として行う大馬鹿共だった。

 ……だが諸君。
 私は正直言って不安だ。
 まったくもって不安でしょうがない。
 365日もの間、8760時間もの間、525600分もの間、戦闘から離れていた君達が本当に戦えるのか?
 銃を後ろ手に隠しながら偽りの涙を浮かべて命を乞う敵兵を、微塵の躊躇もなく殺せるのか?
 私は心配だ。
 とてもとても心配だ。
 だから、聴かせてくれ、諸君。
 どうなのだ、諸君。
 平和な生活に牙を抜かれたやも知れぬ諸君!
 諸君等は命の危険の全く無い安穏とした生活を捨ててまで、種の根源に関わる同族殺しを掲げてまで、この青い空と私に一体何を望む!』
 
『戦争!【クリーク!】 戦争!【クリーク!】 戦争!【クリーク!】』
 
『宜しい。
 ならば戦争【クリーク】だ。
 今年も滞りなくこの競技が行われる事になった事をまずは感謝し、そして感謝を終えたなら最早その感情は邪魔だから捨て去ってしまえ。
 己が身体に残しておくのは、命令を忠実にこなす狗のような神経回路と泣き叫ぶ敵兵士を笑いながら十六等分できるだけのとち狂った神経回路のみだ。
 今から一週間後。
 我々は開戦する。
 我々は蹂躙する。
 そして我々は勝利する。
 一人一殺、場合によっては二殺、三殺しても構わない。
 戦績による鉄十字章授与は無いが、それにも勝る何かが確実に君等の胸の内に宿る事だろう。
 とにかく、だ。
 眼前の敵は殴殺しろ。
 死に絶えた兵士に蹴りを入れろ。
 折れた歯と共に唾を吐け。
 石をも穿つ程の鉄血たる意思を拳に宿らせ、三千世界の悉くに我等の熱き思いを叩きつけろ!』
 
果てしなくありえない男子の叫びによって、彼女が再び怯えたウサギちゃんに戻ってしまうまでに、そう長い時間はかからなかった。
有史以来の法則として神は無情なる者として存在しているらしいが、どうやら今回もその例に洩れる事は無かったようだった。
神様は無情であり、世の中は無常である。
じゃあ自分はどうしたらいいのかと夕菜は途方に暮れてみたりもしたが、そもそも彼女は別段神を信じている訳でもなく、沙羅双樹がどんな物かも判っていなかった。
結局、なるようにしかならないんじゃないかなぁ。
だって頑張ってみようとした矢先に男子は物凄い勢いで猛り始めるし、男子の中では一番に優しい人だと思ってた北川君がまず率先して豹変しちゃってるし、それより何より……
 
『命令【オーダー】は唯一つ【オンリーワン】 見敵必殺【サーチアンドデストロイ】、以上だ【オーバー】』
 
初めて見た相沢君の酷薄な笑みを浮かべた表情は、今回もやはり『キュン』とか云う甘く切ない響きを全く無視した類のドキドキを私の胸に与えていたから。
本当にそれはもう、中学校の時に友達に騙されて『エルム街の死霊のチャイルド金曜日』を見せられた時とあまりにも似通ったドキドキだったものだから。
きっとこの感情は恐怖で、恐怖と言うからにはソレはやっぱりすごく怖いものであって、自分にはそれを乗り越える事なんて到底不可能なんじゃないかと思ってしまったのだった。
男子はみんな恐い人。
相沢君はすごく恐い人。
思い返してみれば相沢君はかの有名な【睦月事件】にも大々的に絡んでるって聞くし、生徒会とも対立してるって言うし、ひょっとしたら目が合っただけで食べられちゃうんじゃ――
 
直後、香里が祐一に対してフライングネックブリーカードロップを決める姿を見ていなければ、佐伯夕菜は恐らく生涯に渡って祐一と接触しようとしなかったに違いなかった。
相手が美坂さんだからなのかもしれないけど、ひょっとして相沢君って目が合っても噛みついたりしないくらいには安全な人なのかなぁ、とかなんとか。
本人が聞いたら泣きながら弁解を始めてしまいそうな偏った相沢祐一像は、しかし夕菜にとっては圧倒的な『真実』として、完全に脳内にインプットされてしまったのであった。

相沢君は、こわいひとだ。





* * *





「ね、夕菜はさ、相沢君のこと好きなの?」
「……?」

時はお昼休み、場所は教室。
いつも通りの仲良しグループでお弁当を食べている時に芹ちゃんが言い出した理解不能な言葉は、それはもう凄い勢いで私の首を傾げさせた。
本当の本当に本気で真面目に、この人は何を言っているんだろうと思った。

「……芹ちゃんはバカになっちゃったのかな?」
「アンタも大概失礼な娘ね。 誰がバカの子よ」
「……じゃあ意味不明魔人」
「だ、誰が魔人よっ」

のどかな昼下がりにいきなり訳の判らない事を言い出す人なんて、意味不明魔人って呼ばれるぐらいでちょうどいいんだ。
パックのバナナ牛乳にストローを刺してちゅーちゅー吸いながら、夕菜はそんな事を思った。
私が?
相沢君のこと?
スキーなの?
ほら意味が判らない、だってスキーは動詞だもの。
相沢君がスキーを滑れるのかどうかを多少間違った日本語で訊ねているとしても、それこそ私はそんなこと知らないのです。
結論、芹ちゃんは意味不明魔人。
私としても友人がおバカさん認定されるのは忍びないので、最大限の譲歩として意味不明魔人。
これは一種の優しさだと思ってもらいたいな、うん。

「芹、せり。 多分だけど夕菜には、あなたの意図した所が何一つ伝わってないと思うわよ」

共通の友人である菘が、半分呆れながらに仲介をする。
「わかっちゃいるんだけど」とわざとらしく大きな溜息を吐いた芹は、それからもう一度ジト目で夕菜を睨んでみたりした。
はむはむもぐもぐとサンドイッチを頬張る、まるで小リスのような親友の姿。
もう怒るのもバカらしくなったと言わんばかりに肩を落とした芹は、『自分の問いかけ方の何がいけなかったのだろう』と真剣に考えてみる事にした。
たった数秒でその思考は、『私は悪くない』と云う至極マトモな結論に辿り着いた。
そうだ、私は悪くない。
悪くないのに意味不明魔人扱いだ。
なんて事だろう、神は死んだのか。

「芹ちゃん、頭痛いの?」
「……あんたの所為でね」
「私の? ……意味不明魔人は意味不明な事しか言わないから困るなぁ」

芹は泣きたくなった。

「すずなー、ひょっとして私が悪いのー?」
「まぁ……話題の切りだし方が少し唐突ではあったかな?」

苦笑しながら、芹の頭をよしよしと撫でる菘。
芹の気持ちも判らないではなかったが、夕菜と長年の付き合いをしている以上はある程度の覚悟をしておくべき展開だったのにと、菘は呆れながらにそう思っていた。
曲がりなりにも知り合ってから二年以上が経っている間柄なのだ。
彼女に関する大抵の事ならば、友人として理解していなくてはならない。
加えて彼女が初恋すらまだであると云う天然記念物的存在であると云う事を考えれば、やはりあの切り出し方は唐突であったと言わざるをえなかった。
少なくとも夕菜の情操レベルを考えるならば、コウノトリの説明から始めた方がいいのかも知れない。
いや、それは別の方向に飛び過ぎているのかもしれないが。
ともかく。

「夕菜。 芹が言いたかったのはね、『今日の相沢君はどんな感じだった?』ってことなの」
「どうって……そう言えば今日の相沢君はいつもにも増して恐かったけど」
「恐い?」
「うん。 授業中とかも恐い顔で腕組したり天井を睨んだりで、なんか落ち着きがなかったように見えたよ」

四月二十六日。
それは、祐一が香里を【本陣】に指定するかどうかを未だ決められず、脳内でグルグルグルグル自問自答を繰り返していた日の事だった。
本当に最後まで守りきれるのか。
香里を危険な【合戦】に巻き込んでいいものか。
そもそも香里にとってこの決断は、ただの迷惑や負担でしかないのではないか。
考え出せば切りがない、しかし思考停止は即座に敗北と繋がる。
何故なら相手は『あの』久瀬だ、がむしゃらに戦ってどうなる相手ではない。
単騎戦闘能力を限界まで引き上げ、士気に到っては限界突破すら最低目標で、尚且つそれ以外の部分で自分はあの【冷徹な策士】の裏をかかなくてはならないのだ。
香里を【本陣】とする秘策は必須。
だがこの作戦は、クラスメートはおろか香里本人にすら当日まで告げることはできない。
情報漏洩は限界まで避けなくてはならない。
しかし、しかしだ。
本陣を知らずに組める編隊など高が知れている。
クラス内に俺に対する不信感が蔓延しないとも限らない。
そして、香里を【本陣】にしたからと言って確実に勝てるとも――

抱える苦悩を全て表に出すほどには、祐一だって拙く生きてはいない。
事実、このお昼休みだって祐一は普段通りに学食に行っていたし、恐らく教室に帰ってくる時だって普段通りの表情でドアを開けるのだろう。
何故なら彼は、『隠す』事がとても得意な人間だから。
時には隠しすぎて自分でも本音が見えなくなったりする事があるぐらい、なんとも不器用なトリック・スターだから。
だから、そんな祐一の変化に気付く事なんて、これはもう『普通』の人間じゃできやしない芸当なのであった。
祐一の変化に気付ける『普通』じゃない人間。
それが一体どんな意味を持っているか。
ここに到ってはもう詳しい説明をするのも野暮に過ぎるのだが、一応言っておくとそれは『並外れて聡明』か『彼を特別視している』かの二択になるのであった。

そして夕菜は、間違ったって『並外れて聡明』な女の娘ではない。
それどころか、世の中の半分くらいのものには目をつぶってしまう、『並外れて臆病』な女の娘だった。
二択の一つが潰された。
残った答えは一つしかない。
芹と菘は同時に思った、こりゃホンモノだ。

「なるほど、よく判りました」
「何が? 今日の相沢君が?」
「夕菜が、相沢君のことをよく見てるんだなって事がだよ」

瞬間、夕菜の顔が真っ赤になった。

「べ、別に見てないもんっ」
「だって今『授業中も』とか言ってたじゃん。 普通は授業中に誰かの顔を見たりしません」
「それはっ、ぐ、偶然たまたまだよっ! 芹ちゃんの顔も見たもんっ! 芹ちゃんはマヌケな顔で寝てましたっ」
「それは私も見た。 同じ女の娘として忠告するけど、芹はもう少し周囲に気を配ったほうがいいわよ」
「なっ、なんで私の話になってるのよっ! 今の問題は夕菜が相沢君を見すぎって事でしょ!」
「見てませんっ! これっぽっちも見てません! 芹ちゃんはさっきから意味不明魔人すぎますっ」
「見てるじゃん見てるじゃんっ! 『いつもと変わらない』ってさっき言ったじゃん! 『いつも』なんて普段から見てなきゃ言えないよフツー!」
「クラスメイトが視界の端に映るのは凄く当然の事ですっ! そうですねっ、芹ちゃんは肉食動物だから視界が狭いんですねっ! がおーっ」
「夕菜は相沢君の事をロックオンして四六時中見つめてまーすっ! やーいやーい、ラブラブハンター! あそーれ、らーぶらぶっ!」
「い、言ってる意味が全然わかりませんっ! 芹ちゃんはお肉ばっかり食べるから狂牛病になっちゃったんですねっ! やーい牛ー! 肉食の牛ーっ! もーっ、もーっ!」
「ゆーうーなー!」
「ひぃぃぃっ! 芹ちゃんが怒ったーっ」

なんて騒がしいクラスだ、と通りすがりの久瀬が思ったとか思わなかったとか。





* * *





ActressT 春日野 芹(かすがの せり)の場合 その2
Special guest 相沢祐一

高校三年、五月、晩春



まあ、こうなる事は判っていました。
妙にノリノリな菘と賭け事なんかをしちゃったあの冬の日から、遅かれ早かれ『こう』なるんだって事は、いくら察しの悪い私でも判り切ってはいたのですが――

「あ、あのさ……相沢、クン?」
「ん?」

背後から話しかける形になった私の姿を視界に捉えるため、首だけを斜めに仰け反らせながら後方を振り返る相沢君。
瞳を覆い隠すほどの長い前髪がさらりと横に流れ、普段は隠れている鋭さを持った眼差しが、私の顔を直視した。

「そ、あの、その、えっと……えっとですね……ちょっと、その、お、お願いが、あったり…するん…です、けども…」
「お願い? 春日野さんが俺にお願いなんて、そいつはまた随分と珍しいな」

どちらかと言えば中性的な顔立ちをしているくせに、顎から喉仏にかけてのラインは凄く骨っぽくて男らしい。
そのくせ「俺が役に立てる事ならいいんだけど」なんて言いながら、頼りにされた事を凄く喜んでいる風なあどけない笑顔を見せる。
まだ少し幼さの残る声と、いっそ尊大にすら思える言葉使い。
夕菜をして「おっかない」と言わしめるほどの鋭い眼差しと、それに相反するかのような柔らかい雰囲気。
他の男子と一緒の時には全く匂わせる素振りすらなかったくせに、こうやって一対一になった途端にそれら全てを発動させるなんて、相沢君は何てひどい人なんだろうと私は思った。

だってほら、現に『ひどい人』の相沢君のせいで、私は身動きが取れなくなってしまっている。
緊張してうまく言葉が浮かばないし、相沢君の表情すらマトモに正面から見る事ができない。
変に意識したら逆効果だって自分でも判ってはいるのに、ダメだと思えば思うほど、私の耳はどんどん熱くなっていくのだった。

五月下旬。
体育祭の余熱が未だ校内に色濃く残る、とある晴れた土曜日の放課後。
授業が終わると同時に私の両肩をがしっと掴んだ菘が開口一番に口にしたのは、「もう待ちません」と云う事実上の死刑宣告だった。
菘が「もう待たない」と言っているのは勿論、件(くだん)の罰ゲームに関すること。
もっと詳しく言えば『相沢君がクラスに馴染むかどうか』と言う賭けにおいて決定されていた、『負けた方が相沢君にお部屋をお片づけされる』と言う内容の罰ゲームの事だった。
素敵な笑顔が逆に怖い。
掴まれた肩が物凄く重い。
そりゃ、こう云う事は誰かの後押しがあった方が踏み切りもつくものなのだろうし、決断を先延ばしにしていた私が悪いと言えば悪いのだろうけども。
だけどそれにしたって、せめてもう少し本人の気分とか本日の天気とか今日の獅子座の運勢とかを考慮してくれてもいいんじゃないかと、半分泣きそうになりながら私はそう思った。
ちなみに、今日の獅子座の運勢は最悪だった。

もともと勝算なんかはどこにもない賭けだった。
それどころかむしろ、賭け事として成立させる気すらも私にはなかった。
罰ゲームが付随するだなんて考えてもいなかったし、自分が『馴染まない』の方に賭ける事になるだなんてのも考えてやしなかった。
そして。
その賭けの勝敗がまさか二月下旬の段階なんて云うキャノンボールもびっくりな速度で決まってしまうだなんて、あの頃の私は想像する事すらできなかった。

登校は遅刻寸前。
下校は授業終了直後。
昼休みは教室に姿を見せず、休日の予定を誰かに喋る事もなく。
どんな話題を振っても「引っ越したばかりでよく判らないんだ」と曖昧な苦笑いを浮かべてばかりだった、”あの”相沢君がまさか――

クラスに馴染むどころか、まさか学園全体の話題の中心人物になるだなんて、あの頃の一体誰が想像できただろうか

私と夕菜が人数に含まれるとか含まれないとか。
私自身が積極的に彼に話しかける事で賭けが不利になるとかならないとか。
そんな低次元の憂慮をしていた自分が馬鹿らしくなるくらい、相沢君は物凄い勢いでクラスの輪の中に打ち解けていった。
ひょっとしたら会話が弾まなかったのは『春日野芹が相手だったから』じゃないかなんて勘繰ってしまうくらい、相沢君の周囲には人垣と談笑が絶えなかった。

【北方領土】のラーメンを全種類制覇したんだけど、俺は国後が一番好きだな。
商店街のはずれに屋台を出しているたい焼き屋のつぶあんが絶品なんだぜ。
ゲーセン? っは、俺を誰だと思ってやがる、クレーンゲームの祐ちゃんと呼んでくれよ、でもコンビニキャッチャーだけはカンベンな。
佐祐理さん? ば、ちげ、友達だよトモダチ、下級生に手を出してたって、ちょ、人聞きがわる、うぇ? 商店街で私服の女の娘と? ちが、いや、アレはその。
えとせとら、えとせとら。

そんなこんなで、私の負けは昨年度の内には決定していた。
だけど年度末ってのは一般生徒も存外に忙しいもので、気がつけば罰ゲームは新年度に持ち越される事となっていた。
そして新しい学年、新しいクラスになってからの最初の一ヶ月って云うのも、これはこれで意外と忙しいもので。
ほ、本当だよっ、忙しかったもん! ぅえ? ……具体的に? え、えーと、花粉症対策とか……かな?
と、云う訳で。
ついに堪忍袋の緒がぶち切れた菘さんが、私の重い腰を蹴飛ばしにやってきた訳なんだけれども――

「あ、あの、あのですね……その、実はその、うーと…」
「……どうかしたのか? 随分と顔が赤いみたいだけど」
「なっ、なっ、何でもないなのですよっ?」
「……まあ、何でもないなら構わないけど」

とは言うものの、相沢君はかなり不思議そうな顔で、私の事を見詰めている。
私の顔を、じーっと見詰めている。
意外と長いまつげ。
綺麗な瞳。
そこに映り込んでいる自分の姿を見て、私は初めて『自分は今相沢君と見詰め合っているのだ』と言う事実に気付いた。
そして、気付いてしまったからにはもう遅かった。
慌てて目を逸らしてはみたものの、『見られている』と意識してしまった私の思考回路はショート寸前で、タキシード仮面如きじゃどうする事もできないぐらいにパニくっていた。
ぐるぐる回る視界の隅の方では、菘がすっごい楽しそうな笑顔を見せながら夕菜の肩を抱いている。
夕菜は夕菜で「これから何が起こるんだろう」みたいな表情を浮かべているし、気がつけば水瀬さんとか北川君が興味深そうにこちらの様子をうかがったりなんかしている。
う、うぅ……あんま見ないでほしいんだけどなぁ……別にそんなに大層な用事じゃないのデスヨ? ええ、本当に……そりゃもうロクデモナイお願い事でして…

「ひょっとして、教室(ここ)じゃ話し難い内容だったりする?」
「……うん、実は少し…」

ざ わ っ

あまりにも迂闊な迂闊な祐一の問いと、あまりにも思わせぶりな芹の態度に、教室中が一気にざわめき出した。
ざわめきはやがて『何か』を期待する一つの意志へと収束し、祐一と芹の織り成す放課後ランデヴーなアレやコレを熱く見守る視線と化した。

――おい、聞いたか今の
――いつもなら普通に男子とでもお喋りしてるような春日野さんが、真っ赤になって俯きながらもじもじしてるぜ、ちくしょう普段とのギャップがたまらねえな
――ね、今の聞いた? 『教室じゃ話し難い』ような事をお願いだって、いやーん、ひょっとして、ひょっとして芹ってば相沢君のことっ?
――教室じゃダメって何だそりゃ! どこなら良いんだオラ! 体育館の裏か、体育館の裏なのか! 言っとくがこの学校にゃ伝説の樹なんかねーぞべらんめえ!
――そしてまたしても! またしても渦中に居るのは相沢なのかっ!!

何しろただでさえ土曜の放課後を迎えた高校三年生なんて云う存在は、サタデーナイトへ向けてのスペシャルハイテンションがうっきうきな状況である。
今週の学業は全て終了して。
あとはそれぞれの放課後を楽しもうと云う状況になって。
また月曜が来るまではクラスのみんなともしばしのお別れだと云う今まさにそんな時になって、全員の意識が急速に『教室』の中に引き戻された。
離散するより他に残っていないと思われていたこの期に及んで更にまだ、『教室』の中で予想外のラブラブアクシデントが勃発したと言うではないか。

朝早く起きなければいけないのが嫌いだ。
窮屈な制服を着なくてはいけないのが嫌いだ。
沈黙を強要される朝礼も、難解な単語が飛び交うばかりの授業も、自分が汚してもいない場所を宛がわれる掃除の時間も大嫌いなんだけど。

――このクラスの中で皆とグダグダくだらない話をしながら過ごしている時間だけは、何か判らないけどかなり好きな部類に入るから

兄弟とか、恋人とか、心が深く通じ合った親友なんかとも、何かちょっとニュアンスが違う。
遠くて近い奇妙な連帯感を持った愛すべき箱庭の放課後【セカイ】は、今この場でしか味わえない代物だから。
楽しそうな事があるなら、命の限りに心をざわめかせる。
面白そうな事があるのならば、全身全霊で色めき立つ。
『今』にしか生きられない自分達がもしも『それ』を見逃してしまったのならば、きっと一生をかけても繕えないくらいの強い後悔を胸に抱いてしまうだろうから。
そうして、僅か数ヶ月の間に超一級トラブルメーカーとして不動の地位を確立した相沢祐一の姿をそこに見つけて、クラス一同は大いに『先』を期待した。
彼等は『相沢祐一がそこに居る』と云うたったそれだけの頼りない根拠で、このざわめきが決して期待外れに終わらない事を確信していたのだった。

一方、春日野芹は混乱していた。
いったい何がどうしてこんな事になってしまったのかと、羞恥と動揺で半分以上泣きべそをかいている状態にまで陥ってしまっていた。
神様、確かに私は賭けに負けました。
その上罰ゲームに執行猶予を求めて、二ヶ月以上も発動を先延ばしにしていました。
でも、だけど、だからと言ってこんな仕打ちはあんまりなんじゃないでしょうか、このペテン師めが、国に帰れ!
み、みんなもこっち見んな……はう……け、見物料とか取っちゃうぞーっ!
そしたら私は大金持ちになって、純白のメルセデスに乗りながらプール付きのマンションでドンペリを飲んで、もっと稼いで地球を買い戻したりなんかしちゃったりして。
綺麗な女も要らないしケバいジュエルも私には似合わないけど、そうだ、大好きなケーキを山ほど買おう、一度やってみたかった『ホールのケーキにかぶりつく』を今こそ実現――
と、芹の思考が物凄い勢いで右に左にとっ散らかり、最終的には成層圏を飛び出してアクシズを押し返しそうになっていた、まさにその時。

「――どこか、二人きりになれる所に行こうか、春日野さん」

不意に。
まったくの不意に。
「お前は忍者か」と誰もが突っ込みそうなくらい芹の意識の不覚をついた祐一が、その可愛い耳元に薄く濡れた唇を寄せて、擦れた声音で小さく小さく囁いた。
そして、次の瞬間。
芹が16年間お世話になってきた思考回路の大事な部分が、何か激しい音を立てながら木っ端微塵に吹き飛んだ。

祐一に悪気はなかった。
ただ、本人の意図とは500マイルぐらい遠く離れた次元で、彼の囁く声が予想以上に甘い響きだったり、彼の吐息が艶っぽかったと云うだけの事だった。
自分の不用意な質問が周囲をオーバーヒートさせてしまった事を、祐一はむしろ心の底から反省していた。
そして、ならば今度は他の誰にも聞こえないようにと、彼は考えに考えた結果として『耳打ち』と云う手段を選択しただけだった。
そもそも意思疎通のための音声なんてのは、伝える人間と伝えたい人間の二者間でだけ共有されていればよい物ではないか。
特に今回の様に他者の介入が望ましくない場合であれば尚更、その間に挟まれる物理的な距離を短くするにこした事はないのではないか。
周囲への情報漏洩を極小の範囲に抑えるために、春日野さんの耳元近くに自分の口を寄せて囁く。
何と合理的で完璧な解決策なのだろう、相沢さんちの祐ちゃんてばマジ天才じゃないのカシラ。
彼に、『悪気』は存在しなかった。
ただ残念な事に、少々頭が悪かっただけだった。

「ぉ…おか、おかた……あゎ――」

芹にも悪気はなかった。
ただ、完全に制御不能となってしまった思考回路が、兎にも角にも『罰ゲームを完遂する』と言う一点を目指して言葉を紡いでしまったに過ぎなかった。
クラス中の注目を集めてしまっている現状も、相沢君に見詰め続けられるこの状況も、『それ』さえ伝えてしまえば終わるのだ。
そうすればみんなは「なんだそんな事か」と興味を失ってくれるに違いないし、相沢君も「なんだそんな事か」と笑ってくれるに違いないのだ。
だから、伝えるんだ。
用件のみを手短に、簡潔に、判りやすく、直球勝負で伝えるんだ。
だって今すぐ伝えなきゃ『私』が死んでしまう。
この胸が張り裂けそうなドキドキがこれ以上続いたら、『私』は本当にダメになってしまうから。
ダメにならないためには何としても、伝えなきゃいけない。
言わなきゃいけない。
今すぐ速攻回り道ナシで、誤解なんか欠片もされないようなハッキリど根性一発勝負で、えっとえっと、とにかく『伝えなきゃいけないこと』だけを大声で――



「わ、わ、私のお部屋のお片付けをしろぉっ!!」



そうして芹は、取り返しのつかないような命令口調で、とんでもない『お願い』を口に出した。

教室の隅の方で、菘が呼吸困難になるくらいお腹を抱えて笑い転げていた。
それから一瞬の静寂の後にクラス全体が爆発し、その笑い声は遥か下級生の教室にまで届くほどの盛大な物となった。
誰かが芹の事を「姫!見事な詔勅でござる!」と称えたかと思えば、誰かが祐一に向かって「姫の命令を断ったら死罪でござるぞ!」と脅してみたりする。
我に返った芹が「ごめん違うのそうじゃないの!」と祐一に涙ながらの謝罪をすれば、流石の祐一は恭(うやうや)しく片膝を付きながら「姫、御意でござる」と返したりする。
街角の郵便ポストですら裸足で逃げ出すくらい真っ赤になってしまった芹。
笑いすぎのせいで腹筋が痙攣して、涙まで流している菘。
芹ちゃんの意味不明魔人っぷりもここまでくると凄いもんだなあと、ちょっとずれた感覚で感心している夕菜。
祐一の耳打ちの姿勢を「キスしたんじゃないか」と誤解して呆然としている名雪。
これだからこのクラスは授業が終わってもすぐに帰る訳にはいかねーんだと、完全に傍観者の立場で突発イベントを楽しんでいる北川。
諜報部の綿貫が意味深な苦笑を漏らし。
お調子者の林が二人を茶化し。
芹とは小学生の頃からの知り合いである荒井が「こんな芹は見た事ねーぞ」目を丸くし。
廊下を通りがかった久瀬が「何てやかましいクラスなんだ」と眉間に皺を寄せながら通りすがる。

天井知らずに増幅していく笑いと歓声の素敵な共振現象【ハウリング】は、これから始まる土曜の午後を彩る鮮やかなキラキラの欠片となって、高く遠くに響き渡っていくのだった。

























終われ


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後書く

『彼の世界で泣いたり笑ったりしながら生きている人達の日々を、ほんの僅かな欠片だけ切り取って描写しているのが、私の書いているSSと言う代物である』

私がSSを書く際に忘れないようにしている大切な事を、あえて正面から描いてみた作品がコレ
だから例えばこの先の展開として、祐一が芹の家にお邪魔してアレやコレする日が来るのだけれども、私がそれを文章に起こす事はなかったりする
今作中で意図的に名前を登場させられた林君や荒井君なんかにも、それぞれの生き様や恋愛模様なんかがあったりするのだけれども、それがメインで描かれる事はありえない
ただ、形として公開されている文章の裏でも『彼ら』が精一杯生きている事を感じていただければ、恐らく私のSSが10%増しぐらいで楽しめるようになると思います
言うまでもなく【B】系列の世界で、没タイトルは【O(裏)-おかたづけ-】
最初は普通の『おっとりおねーさんタイプ』だと思っていた菘ねーさんが、描いている内に予想外の暴走を見せてくれたのが、作者にとって一番の驚きだった


すぺしゃるさんくす:萌のみの丘管理人、taiさん
慣れない作風でオチと言うか落とし所が掴めず悩んでいた私に、「むしろ落とさなくていいやと考えるんだ」と大変ありがたい諦めの免罪符アドバイスをくれた人
ありがとう、その言葉がなければあと半年はこの作品は公開されなかっただろうし、あと100kbくらいは文章量が増えていただろう