二月十四日、朝。
三年B組、クラスルーム。
その日、一人の男子生徒が教室に入ってくるなり、喉も裂けよと言わんばかりの勢いで叫び始めた。
ついでに、床をゴロゴロと転げ回りだした。
彼の名前は林 茂吉(はやし しげよし)、通称「もきち」。
『静かなること林の如し』と言う文句を台無しにしてしまった、3-Bで一番喧しい男である。

「今年もまた入っていなかった……今年の収穫もまたゼロだ! おい、ちょっとそこのお前! 俺の事をちょっと”ゼロの使い魔”と呼んでくれ!」
「お、おお、判った。 げふん、えーと――よっ、ゼロの使い魔」
「んっだとテメエコラぁああああ!! ああああああああ! うわぁあああああああああん!!」

あーもう、うっさいなあ。
クラスの女子の大半がそんな感情を抱いていたが、流石にそれを口にするのは可哀想なので、憐れみの意味も込めて自重していた。
何故なら今日は二月十四日。
乙女の恋路を迫撃砲の如く強力に支援してくれる、その名もSt.ヴァレンタインデー。
こんな日くらいは鬱陶しく転げまわっている哀れな男子生徒にも優しい心で接してあげるのが、いわゆる淑女のタシナミと言う物なのである。
それにホラ、今年”も”チョコを貰えなかったらしい林君にそんなこと言っちゃったら、テラスからお空へフライアウェイしちゃうかもしれないし――

「朝っぱらから何の騒ぎだこりゃ、喧しい。 騒ぐなら外でやれ外で」

あ。

「……うふ、うふふ? ……うふふふふふーい!」

珍しく遅刻寸前ではない時間に登校してきた祐一が、開口一番に林の心のデリケートな部分をロンギヌスの槍でぶち抜いた。
相変わらず野郎相手には容赦のない男だと、遠くで事態を静観していた北川はそう思った。

「な、なんだ林。 壊れた目付きと笑い方しやがって、気持ち悪い」
「ちょ、相沢君ダメっ! そんなに林君を刺激しないでっ!」
「はい?」
「き…気持ち……わる……う、うきょーおおおおおおおっほぉ!」
「おおっ!?」
「そうさ! 俺はどうせ気持ち悪くて喧しくて壊れた目付きをしたモテナイ王国【キングダム】のモテナイ王【キング】さ! 即位してから18年さ!」

王族なら別にいいじゃねえか。
祐一はドン引きしながらそう思った。

「お前なんかに……お前なんかに俺の気持ちが判るか!」
「いや、一言も『判る』とか言ってないんだけど」
「そうとも! 判る訳がない! モテメン(もてるメンズの略)の貴様に! 今までに母親以外からチョコレートを貰った事のない俺の気持ちなど!!」

まるでハムレットを演じているかの様な、身振り手振りを加えた林の熱弁。
かなりアレな内容を大声で告白しているにも関わらず、その姿には一部男子からの応援の声が届き始めた。
そして、案の定女子からはえらい勢いで引かれていた。
何時の時代も、『本物』だけが人の心を揺り動かす。
それが負であれ正であれ、人の心を奮わせる。
つまりこの場合、男女双方がドン引きと共感で感情を真逆のベクトルに走らせるくらい、林が本気だったと云う事であった。

「あのなあ林……こんな事を言うのもアレなんだが――」
「いいや聞かん! 意地でも聞かん! モテメンの口から発せられる言葉など!」

あー、あー、きこえなーい!
両手を耳に押し当てて、物凄い勢いで現実逃避をする林。
まるで話を聞こうとしないその態度に、祐一は若干ムカっとした。
耳を塞いだ手を力尽くで引っぺがし、目線を逸らす事すら許さない近距離にまで顔を近づけ。
そして――

「いいからよく聞けテメエこの野郎! いいか、この俺は生まれてこの方――」
「おっはよーぅ。 愛に恵まれない高校生男子諸君、心の準備はいいカナー?」

元気良く登校してきた春日野芹に、話の首をグキっと折られた。
それはもう見事なまでに折れてしまったので、オハナシさんは即死したそうな。

「芹の姉(あね)さん! お待ちしておりました!」
「姉さんはあっしらの心のオアシスじゃあ!」
「ギブミーチョコ! ギブミーチョコ!」

戦後 かっ。
芹の登場に異常なほど沸き立つ男子を見て、祐一は心の中でそう突っ込んだ。
と言うか、祐一には何故ここまで男子が盛り上がっているのかが判らなかった。
別に春日野芹の魅力に問題を感じている訳ではない。
彼女はいわゆる『気軽に話せる女子』として、親しみやすい雰囲気でもってクラス男子から大いに好かれている。
だが、親しみやすい彼女だからこそ、こんな風に特別扱いして盛り上がったりする事は滅多に無いはずでもあった。

「ああ、そう言えば相沢は初めてなんだよな」
「綿貫。 これは一体?」
「まあ緊張する事はない。 くつろいで順番を待つといい」
「……どこのカウンタバーの常連だ、お前は」
「簡単に言うと、春日野がチョコをくれるってだけだ」
「……へー」
「他意を期待する方が野暮ってくらい完全な義理チョコだが、それでもホラ、『一つも貰ってない』のと『クラスの女子から貰った』って現実は、やっぱり全然違うものだろう?」
「……そうだよな。 やっぱ義理でも貰えると嬉しいんだろうな」
「相沢?」
「いや、実は俺さ――」
「あーいざーわくんっ」
「へいっ!?」

芹の呼びかけに驚いた祐一が発したのは、そんな無駄に威勢のいい返事だった。

「はい、バレンタインのチョコ」
「え? あ、ああ……」
「相沢君はどうせ他の女の子から気合入った手作りチョコ貰うんだろうけど、まあコレはそのお供え物ってことで」

それを言うなら添え物でしょうに。
呆れ顔で腕を組んでいる菘さんのおっぱいは、今日も実にわがままだった。
と、それはさて置き。

「………」
「え、えーと、相沢クン?」

固まっていた。
我らが相沢祐一は、芹に渡されたチョコレートを手にしたまま、まるで石像の様に身動き一つしていなかった。
不思議に思って首をかしげる芹。
チョコレートを凝視したままの表情を伺おうとして、ちょっとだけ斜め下から祐一の顔を覗き込む。
そこで、彼女はとんでもない光景に遭遇した。

「ごめ……いや…ちょっと待って…」

照れていた。
旧共産圏の人間がビックリして「ダヴァイッ!(意訳:こいっ!)」って叫ぶくらい、祐一の頬は照れまくって真っ赤に染まっていた。
そして、ありえないくらい『かわいい』はにかみを浮かべていた。
すわ、これは何事か。
唐突に遭遇した『何か知らないけどメチャクチャかわいい照れ笑いをしている相沢クン』に、流石の芹もドキドキを隠せずにいた。
何しろ、今まで冗談交じりでご大層に喜ばれる事は何度もあったけれど、こんなにも素の表情で嬉しさを伝えてくれた人なんかは居なかったのだ。
こんなに照れられたらまるで『ただの義理チョコ』じゃなくて『何か特別な意味のあるチョコ』みたいじゃんかと、春日野さんは大いに困ってしまったそうな。

「べ、別にそんな……た、ただの義理チョコだよっ?」
「わ、判ってるっ! 判ってるけど……その……」

そこで祐一は、とても愛しそうに手の中の『ただの義理チョコ』を見詰めながら。

「初めてなんだ。 バレンタインにチョコ……もらうの」
「……へぁ?」

周囲の人間が全員息を呑むくらい、驚くべき真実を口にした。

「は、初めて……って?」
「いや……言葉通りの意味だけど」
「今まで、誰にも貰った事なかったの?」
「見ての通り、あんまり人に好かれるタイプじゃないみたいなんで……残念ながら、な」

や、すごく人に好かれるタイプに見えるんですけども。
話が聞こえる位置にいたクラスの女子の過半数は同じ事を思ったが、話の続きが気になったので口を紡ぐ事にした。

「お、お母さんとかは?」
「俺の家、共働きなんだ。 母さんも滅多に家に居ない人で、バレンタインどころか誕生日スルーすら当たり前の事だった」

まるで何でもない事のように。
あくまで深刻な感じにならないように。
完璧に取り繕われた『いつもの相沢祐一』が、まるでフラットな音質で”それ”を語る。
ただ残念な事に、彼は人を騙すのがとてもヘタクソな人間だった。
芹が「そう言えば相沢君は水瀬さんの家に居候してたんだった。悪い事訊いちゃったな…」みたいな事を感じて軽く凹んでしまうくらいには、それは残念な事だった。
だが。

「あ……ごめ…」
「だから、さ――」

だけど、さ――

「――これが正真正銘、俺の人生で初めての
バレンタインチョコになるんだ。 ……ありがとう。 100%義理だってのは判っちゃいるけど、本当に嬉しい」

軽く凹んでる芹の気持ちを、その裏っ側から強烈な鉄山靠で押し返す。
それどころか、躍歩頂肘から白虎双掌打までのコンボまで叩き込む。
普段は見せない心の奥底をほんの少しだけ垣間見せてもらったような気がして、芹は自分のSAN値(主に理性の部分)がガシガシ削られていくのを肌で感じていた。

嬉しそうに。
本当に嬉しそうに。
そして、少しだけ泣きそうに。
『零れるような』って表現がぴったり当て嵌まる笑顔を、芹は生まれて初めて目の当たりにした。
て言うか、ついうっかり釣られて泣いちゃう所だった。
はぅあっ、なんだこの破壊ぢからっ。

「大事にするよ、これ。 なんか気持ち悪いって思われるかもしれないけど、そのくらいは許して――」
「ちょ、ちょっと待った! タイム! そのチョコげっとばっくみー!」

しゅぱぁっ!

叫ぶが早いか、芹は祐一の手から『人生初めてのチョコレート』を奪い去った。
それはもう神域の行動速度であり、事実”あの”祐一ですらコンマ3秒ほど『チョコを奪われた』と言う事に気が付かないほどだった。
『彼女の腕が振り抜けた後の空間、ありゃ間違いなく真空の刃【カマイタチ】が発生してましたね。 ええ、間違いありませんよ』
TTRPG同好会の穂墨(ほずみ)は、後にそう語った。
彼らの同好会において『疾風の芹』と呼ばれるNPCが登場するのは、それから間も無くしての事だった。
と、それはさて置き。

「……あ……チョコ……俺の…」

空っぽになってしまった自分の手を見詰めながら、祐一はぽつぽつと言葉を零していた。
まるで宝物を取り上げられてしまった子供の様なその立ち姿は、高校生男子としては信じられないくらい心許無かった。
下手したらそのまま涙も零してしまいかねない雰囲気で呆然とする祐一を見て、流石の芹も大いに慌てた。
別に意地悪したくてこんな仕打ちをしてるんじゃない。
お願いだからあと三十秒くらい待って欲しい。
そんな風に思ってみたって世界はいつでも彼女に対して優しくなく、結果として芹はまたしても、衆人環視の中と云う事を忘れざるを得ない状況に追い込まれてしまうのだった。

「夕菜っ!」
「ひゃいやっ?」
「後でもっかい作り直してあげるから、あんたにあげる予定だったチョコ、今日はナシねっ」
「あ……あー、あー。 うん、いいよ」
「ありがとっ」

普段より察しの良い親友に、普段より二割増しの感謝のキモチ。
それから普段の三倍速でカバンの中をごそごそ漁り、『夕菜用』として綺麗にラッピングされた気持ち大きめの箱を取り出す。
ワインレッドの包装紙とピンクのリボンで装飾されたその箱がカバンの中から出てきた時、クラス内は若干のどよめきと歓声で支配された。

芹は、自分が決してお菓子作りの得意な娘ではない事を知っている。
将来の夢がパティシエな訳でもないし、休日になると趣味でクッキーやケーキを作っちゃう様な乙女コスモ全開な訳でもない。
だから、出来上がったお菓子の味だって高が知れてるし、口が裂けても『既製品より美味しい』だなんて言えやしないと自覚していた。

でも。
だけど。
こんなの押し付けがましいって思われちゃうかもしれないんだけど――

「これっ。 こっち! こっちあげるっ」
「……え?」
「そりゃ、本命じゃないし? どっか有名なお菓子屋さんのヤツでもないし、相沢君の為に作った訳でもないんだけど――」

でも、初めてを奪っちゃうって言うからには、やっぱそれなりの”何か”って必要じゃない?
だから――

「全然ベクトル違うけど、愛情たっぷりだよ。 ハッピーバレンタインっ、相沢君っ」

チョコを差し出しながらの、芹の笑顔。
照れ笑い三割、心の底からの笑顔六割、何だか知らないけど自然に浮かんできちゃう微笑一割。
平時の彼女では絶対に見せてくれない複式構造の素敵な笑顔は、直接向けられた祐一以外の男子生徒をも、軽く二、三人は悶絶させていた。

一方、祐一はおろおろしていた。
何度も確認する事ではないが、『こんな事は生まれて初めての事態』なので、彼は大いに戸惑っていた。
「確かコレは佐伯さんが貰うはずのチョコだった」と思い立っては夕菜をチラ見するが、返ってくるのは若干脅えた瞳と首を縦にこくこく振る無言の肯定。
無二の親友であるはずの北川に救難信号を送ってみるが、返ってくるのは傍観者に徹し切って状況を楽しんでいるニヤニヤ面だけである。
名雪の方に至っては視線を送ろうとしただけで本能が「ちょ待てよ!」って言いながら首根っこを引っ掴むレベルであり、ここに至って祐一の万策は尽きたに等しかった。

「あー……あの、さ…」
「ん?」
「いや、凄い嬉しいんだ。 ほんと、今こうしてても膝が震えてるくらいなんだけどさ……」

口ごもる。
表情がこわばる。
うまく言葉が出てこない。
しかしそれらは決して『現状の否定』とは重なる事無く、むしろ限りなく好意的な眼差しによって芹に受け取られる事となった。
何故ならその時の祐一は、例によって例の如く顔を真っ赤にしながら。
それを恥じる様に制服の袖で口元を隠したりなんかしつつ。
しかもそれでも隠し切れない様々な生の感情を一生懸命に飼い慣らそうと努力しながら、たどたどしく言葉を紡いだりなんかするもんだから。

「こう云う時……何て言って受け取ったらいいのか判らないんだ……どんな顔していいのかも、その…」

ちっくしょう、何だこの可愛い生き物!
クラスの女子の半分以上がそんな事を思ってしまうくらい、『何もかも初めてなんです』状態の祐一は破壊力に長けていた。
当然、芹も同様の感情を抱いていた。
だが、彼女はその感情に振り回されたりはしなかった。
むしろそれどころか祐一のあたふたっぷりに反比例するかのようにして、芹は何だか心が落ち着いていくような気さえしていた。
『かわいい』と言う感情を原子レベルにまで分解すれば、そこには庇護欲と優越感とが存在する。
そしてそのどちらもが、人の精神に余裕をもたらす。
無論、芹の感情にどちらがどれだけ含まれているのかなんて野暮な推測はするべきではないが、それでもやはり彼女はこう思ってしまうのだった。
ああもう、相沢君かわいいなあ、と。

「もう、充分だよ」
「へ?」
「ありがとうって言ってもらったし、嬉しいっても言ってくれたし、”そんな顔”も見せてくれた。 これ以上望んだらバチ当たっちゃうよ」
「……まだ言い足りない、って言ったら?」
「耳塞いで逃げちゃおっかな」
「追いかけても、いいかな」
「わたし、脚、速いよ?」

くすくすくす。
どちらからともなく自然に込み上げてくる、どうしようもなく愉快な微笑み。
まるで教室の中に自分と相手の二人だけしか居ないかの様に振舞う祐一と芹に、周囲の我慢はもう限界だった。
周囲と言うか、主に林の我慢が限界だった。

「ぬおおおお! 姉っさあああああん!! 俺も! 俺も異性からチョコレート貰うの初めてなんすけど!!」
「ちょ、うあ、あーもーうっさいなあ! あっちでコレでも食べてなさいっ!」

スコーン!
芹が投げ付け、叫ぶ林の眉間に命中したのは、一個20円のチロルチョコだった。

「ちっせえ! しかも塩バニラ!! 何だこの格差社会!! ふああああ! しょっぺえ! しょっぺえですよ姉御ぉおおお!!」

それは涙の味だ。
って言うか泣きながらも喰うんかい。
あれ、こんな感じのセリフを昔どこかで誰かに言ったような気が。
林の馬鹿騒ぎによって多少落ち着きを取り戻した祐一は、そんな事を思っていた。

「いいの? あれ」
「なにが? 別に、ぜんぜん気にしてないよ?」
「……ま、アンタがそう言うなら別にいいけど」

教室の片隅。
喧騒の枠外。
親友の手の中で握り潰されていく自分の筆箱を見ながら、香里は放課後に文房具屋に行こうと決意した。
御代は当然、相沢君持ちだ。





終われ

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後書き

2/14近辺に公開したTOP文の寄せ集め+若干の加筆。
タイトルの【Re/Act】は、短編【P】で女優を演じた三人娘が、まさかの再演を果たしたから。
ちなみに。
今日に限って祐一が一人で登校した理由→名雪はチョコをアレやコレするので忙しかったとなっている。
この後も恐らく祐一の身には嬉しいハプニングが次々と降り注ぐのだろうが、妄想の余地を残しながら終わるのも一興かと思って此処で終わった。
あと、本文中にタイトル入れる場所が見つけられなかった。
いい加減この適当なスタイルは何とかならないものだろうか。